夢幻泡影

「ゆめの世にかつもどろみて夢をまたかたるも夢よそれがまにまに」

ユニーク 改

2006年08月17日 09時44分02秒 | 芸術・文化
2005年04月28日に以前のブログに掲載したものの転載。
最後に後日談を追加しました。
 

普通は、知らない人から何か聞かれたり、依頼されたりしても、通り一遍のことしか言わないのだけど、どうかした拍子にわざとアンチテーゼを出して、喧嘩を売るような言い方をすることがある。相手の何かがこちらの興味を引くんでしょうね。このようなときには、殆ど100%相手から、議論をぶり返してきて、華々しい芸術論(?)を繰り広げることになる。

先日は寝る間もないように忙しいときに来た作曲家で演奏家だった。彼女は日本人のダンサー(むしろアメリカで知られているコンテンポラリー系のダンサー)とのコラボレーションの可能性に関して依頼をしてきたのだけど、彼女の説明文の中のリズムと身体表現というのが、「作曲家からの発想という以外は特にユニークなコンセプトではない。もう少し詳細が解からなければ」って返事をしたら、案の定延々とメールのやり取りになってしまった。

今は、ちょっと忙しいから、もう少し暇になったらリターンマッチねって、休戦状態にしてあるけど、そろそろ返事をしなければ。でも間を置いた性で、ちょっと気持ちが重くなってきた。

私の最初の投げ石に対する彼女の反応は、「私は目新しさ、奇抜さを狙って作品を作るのではない」ってもの、それに対して、「私もそんな底の浅い作品を延々と見せられてあきあきしている。テクニック的にはまだ未完成でもいいから、作家のメッセージ、気持ちの伝わる作品を見たいと思っている。私がここでユニークと書いたのは、貴女個人の気持ち、貴方個人のメッセージがこめられた作品のこと。それが見えると解かるまでは動きたくない」って書いたのが、私たちの芸術論争の始まり、延々と長い長いメールの交換を1週間ほど続けてきた。

その前は別なダンサーとの裸体論争。ヌーディティに関するメールを1年近く交換していた。ちょうど上の論争をしているときに、彼女の近作の案内が送られてきていたが、セミヌードの写真がこれ見よがしに掲載されているものだった。今年はオランダの芸術祭が雅楽にフォーカスを当てていて、武満氏の音楽とアンドリーセンというオランダの作曲家(2、3年前の武満賞の審査員長にも招待された人)のタイドという作品(雅楽にインスピレーションを受けたと言っていた)がオープニングを飾るが、このクリップは彼女がアンドリーセンがベルリンとモスコーの音楽祭に招待されたときに発表したビデオクリップを自分でリメークしたもの。一年近い論争がまったく無に帰したことを暗に伝えてきた案内状だった。

この1月くらいから、日本のインスタレーションの作家にも延々と話しをしていることがあるけど、これも無に帰さなければいいけど。(でもそれ以上に怖いのが、自分が何かを押し付けて、壊してしまうことだけどね。)



後日談
2006年8月17日現在;

最後の日本の作家に関しては、あまりにも幼い。自分の芯を持っていない。こちらが何かを言うとそれをまず是として、そこからスタートする。いい才能の垣間見える人だったけど、この人にアドバイスすることはこの人が自分で考え、自分の足で歩こうとする本当の意味での自立のためにならないと判断しやめた。
この人はあくまで置かれた環境、範囲の中で、それを公理として、その上でしか自分を見出せない。その意味では秀才だった。
本当は置かれた環境、範囲そのものを考えて欲しかったし、
環境、範囲を自分で作り出そう、変えていこうというスタンスが欲しかったのだけど、最終的には判ってもらえなかったみたい。

最初のアーティストは10日ほど前からまたメールを送り出した。
こちらは最初から自分が何を求めているのか、それがなぜなのかをはっきりと自覚し、主張してきた。異論を唱えても、自分の頭できちんと評価して受け入れるか、反論するか考えられる人だった。簡単なようだけど、日本人の作家でこれをきちんとやれる人は少ない。むしろ主張が単なるわがままで、自分の気持ちの奥底は見えていない人が多い。
ヨーロッパなどでは、子供のときから自分を主張する、自分が何を欲して、何をしたいのかをはっきりとさせた上で行動するというのが当たり前なのだけど、日本の場合、社会通念、社会的な評価、価値観を問答無用の最善のものとして受け入れているような人が多い。その上での小さな変化、改良だけしかできない作家は、本当は作家とは呼べないのだと思うけど。
そんなモンで一生を苦労するのなら、やめてしまえば、なんて激しすぎるね。


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