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息苦しい世の中で 自由に語り合える空間を

自由でも民主でもない この日本を もっともっとよりよく変えていくことができるように たくさんの知恵を語りましょう。

議論させない職員会議

2019年08月31日 10時35分21秒 | 教育を考える
 誰も発言しない、というわけではないが、職員会議の議論が、著しく減ってきている。
 都では、職員会議は伝達会議であり、そこで話し合ったり、決めたりするものではない。単なる伝達の場なのだそうだ。

 昨日の職員会議も然り。
 会議室に、山ほどの提案文書が並んでいる。ざっと30枚はあろうか。
 学期に2回しか設定されていない会議だから、12月までの行事や、取り組みの提案がされるのである。
 それを、1枚ずつとり、席につく。
 会議はあらかじめ、時間設定がなされていて、「運動会関連は5分」「学芸会は3分」「個人面談関連は2分」・・・と、テレビ局の番組の
 進行の如く。
 最初は、校長からの経営方針改訂版の説明。もちろんプリントを参照させての説明だが、今見たばかりのプリント。コメントのしようがない。
 あげくのはては、「時間が足りないので、あとはみなさんでざっと読んでおいてください。」
 おいおい、この文書は、うちの学校の責任者が「こういう学校にしたい」という、1番「大事」な指針なのではないですか。
 ろくに読む暇もなしに、「ざっと」はないでしょう。
 一方的にまくしたてて終了。
 「働き方改革で、仕事量は変わらない、むしろ会議など、新しい名称のものが次々入れられているのに、6時には帰りましょうというのは、なにかおかしくありませんか」
 「PTAを下請けのように、行事などの手伝いをさせていることはおかしくないですか」
 「もっと職員室に来て、みなさんの声を聞いたいただきたい」
 「この文書、規律と服務が、ちょっと多すぎません?」

 ああ、こんな声は彼には届かないのだろうなあ。

 とにかく文書が多く、早口の担当者の説明。
 これでは、質問のしようがない。
 
 「あのー、運動会で、走る距離が短くなり、その分だけ同時になだれ込んでくる回数が多くなり、自信をもって審判ができるかどうか。
  なにかいい知恵はないでしょうか」
 「あ、それは話し合いだから、直接担当にあとで言ってください」

 職員全員が集まっている場である。これを越えた、話し合いの最良の場とはなんなのか。

 ほぼ全員が、配られた文書を理解していないだろう。ここでの提案までに、部会で話し合っているにせよ、途中の運営会議や提案調整会議、管理職の横やり、「天の一声」により変更したことも多い。しかも、十分な話し合いもなく。
 職員会議の文書も、あとからよく読んでみると、細かな間違い、矛盾が少なくない。
 
 しかし、論議はしない。決めない。
 あくまで、校長の承認を受けたものを確認するだけなのだ。

 言われた通り、だまって働け。
 そう言われつづれている、情けない教員が、子どもの前に立つのだ。
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絵に描いたような

2019年06月25日 21時41分26秒 | 教育を考える
モチベーションが上がらない。
ようやく校長と面談。まあ定例の面接だから、まだ彼とはインフォーマルには話したことはないとなるが。
私が、教師になって、未来の学校像を描いていたころ。当時失望した現場のアカデミックのなさは、払拭され、教育論議は、あちらこちらで繰り広げられ、夕方は、みな教材研究に励み、子どもたちは、互いに教え、教えられ、学校自体は原則「なんでもあり」、ルールはその都度、みんなで考え決めていく。みんなで同じことを考え
、行うことよりも、個性が尊重される。合点のいかないものには黙っていない。批判的な思考も、育てていく重要な要素だ。職員も、従順は軽蔑され、労働者として、また主権者としての資質を磨く。
もちろん、理不尽なことに対しては連帯して怒り、行動することも辞さない。

それがどうだ。
何一つ善くなりはしないではないか。

笑ってしまうのは、私の在職のあいだに、国が、都が目論んできた、上意下達の学校体系、もの言わぬ教員、従順と同調とを求められる子ども。全く馬鹿げた「進化」ぶりだ。
忙しいからと、会議は回数が減らされ、中身は伝達だけ。教育論議など、一欠片もない。だからといって、教材研究など、ほとんどできる時間も保障されない。指導技術が教材研究だと勘違いしている教員も出てきた。

校長面談で、40分ほど会話する。
この学校体系にするために、国が、都が目論んできた教師像。あまりにも彼が見事に体現していることに驚き、嗤い、そして底無しに哀しかった。
安心と安全、服務には厳格に。
彼の背骨である。
それ以外の中身ある言葉は、記憶に薄い。
夢がないなあ、ロボットと同じだなあ、葛藤はないのだろうか。そんな感慨がよぎる。

子どもと、わいわいガヤガヤしながら学ぶのは楽しい。
しかし、学校の中にあって、同調と多忙の日常と対峙することが、アレルギーの反応のように耐え難くなってきた。

長年勤めて、こんなのかよ!

そんなことを心の中で叫んでいる毎日だ。
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MI(マルティブルインテリジェンス)

2019年04月13日 23時53分35秒 | 教育を考える
「1983年、ハーバード大学教育大学院認知心理学教授、ハワード・ガードナーは Multiple Intelligences Theory (MI理論)を発表し(http://www.japanmi.com/)、従来の知能という概念を大きく前進させました。彼の理論によると全ての人間には
①言語的知能 (Verbal - Linguistic)
②論理・数学的知能 (Logical - Mathematical)
③空間的知能 (Visual - Spacial)
④音楽的知能 (Musical)
⑤身体運動的知能 (Bodily - Kinesthetic)
⑥対人的知能 (Interpersonal)
⑦内省的知能 (Intrapersonal)
⑧博物的知能 (Naturalistic)
という8つの知能が備わっていると明言しています。(Gardner,1983,1994)海外ではこの広義の知能が認知され、既に教育の世界にも導入されていると言えます。IQに代表される知能指数テスト等で計測される狭義の知能(上述の①言語的知能と②論理・数学的知能に相当) を養成するだけでは社会に出ても成功できないと考えられているのです。一方、日本では従来の狭い意味での知能概念が一般的であり、依然として学校教育では言語的知能や論理数学的知能のみに重点が置かれている授業が多いといえます。未来を見据え、早期に狭義から広義の知能への教育に移行すべきであると考えます」(http://www.futureedu.tokyo/education-news-blog/2017/1/2/multiple-intelligence-and-future-of-education)

 研修の際に、講師が「MI(マルティブルインテリジェンス)」について話をした。

 うっすらと読んだことはあるが、「ふむふむ」程度で読み過ごしてしまっていた。
 少し勉強していこう。

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全生研 存続を 切に切に期待

2019年03月31日 22時48分26秒 | 教育を考える
 うちの奥さんが関わっている「全生研」傘下の支部学習会が、存続の危機に陥っているそうだ。
 今日、話し合いがあり、「消すことなく、しばらくは頑張っていこう」という結論に達したようだ。

 今、検索をかけてみると、なんとか踏ん張って支部活動を続けているのは、京都、岐阜、広島、札幌あたりか。(記憶が根拠)
 かつては、埼玉には、阪本兄弟、大畑と、論客が揃っていて、理論的に引っぱっていたと思う。
 大西忠治の全盛期だったのだろうが、彼の「班・核・討議」作りの理論も独自性があって、それなりに惹かれるものがあったが、やはり「ボロ班」指導については、違和感があった。むしろ、埼玉の堅実な組織論に惹かれていた。
 まあ、昔話はいい。

 かつて書いたと思うが、私は村田栄一氏がいなかったら、とうに教員を辞めていただろう。
 そして、彼とはまた「論」が違うのだが、「全生研」がなかったら、やはり職を辞していただろう。
 
 4月からは、おそらく教師最後の年度になるだろうが、私の教師人生で、教育界が少しでも良くなったのかと質問させるならば、躊躇なく「ノー」と答えることだろう。
 最大の理由は、子ども達があまりにも「受動的」「従順」になってしまったこと。
 現実から学ぼうとする教師が、あまりにも少なくなってしまったこと。
 この2つが主な理由である。

 問いを発するより、些細なこと、理不尽なことを追及するよりも、摩擦は避けて、おとなしくしていたほうが得策である。
 子どもも、大人も。
 こんな雰囲気が、どこもかしこも蔓延ってしまった。

 虚しいが、しかし私の筋は通そう、そんな1年間である。
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孤独な虚しい卒業式

2019年03月26日 00時31分15秒 | 教育を考える
「感動した」「素敵だった」「涙がこぼれた」と、同僚たちが言い合っている中で、私1人が孤独感を味わっていた、昨日の卒業式。

副校長が、5年生に向かって、「みなさん、長い時間、よく動かないでがんばりましたね。もう、みなさんは立派な6年生です」と賞賛する。
5年の担任も、「よく、がまんできました。えらいなあ」と、褒めちぎる。

巣立ちの日を、ともに祝う気持ちは共有しつつも、どうも卒業式のあり方が、私には納得できないでいる。

まず、徹底して「形式」重視の式であること。
6年生の「叫ぶ」せりふも、ほとんどが去年の焼き直し。子どもたちの本当の気持ちは、どこにも感じられない。
もちろん、担任から印刷された台本を渡されて、詩文のせりふが割り当てられ、そつなく覚え、少しばかり表現の豊かさを加える。
これが当たり前となっているのだから、子どもたちは気がつくわけもない。
かつての卒業式が100%良かったとは思わないが、少なくとも式のねらいには、「最後の授業」であるとして、子どもたちと一緒に台本を作り上げたものだ。私の学校では、一応は「台本制作委員」とかいう6年の担当はあるにはあるが、それは形だけのもの。せりふをめぐって討論なんてものは皆無だ。去年の手直し担当というのが、本当の仕事である。
この式には「学びの場」といった視点がない。

2つ目は、教育的な効果という点で。徹底して「我慢」「礼儀」「同調」である。
2時間ものあいだ、それらを強いられる場でもある。
「規律」「礼」の際限のない繰り返し。軍隊の訓練と同じものだ。
ここにも、「個」を無視した、「集団」への同調を強いられる哲学が一貫して流れている。

3つ目は、やはり「国歌」「国旗」の問題。
百歩譲って、私たちは「君が代」を歌い、日の丸を仰ぎ見ることが強制されているとしても、(そうは思っていないが)、保護者に対して、子どもに対して、「あなたがたは、各人の思うままにどうぞ」と、ていねいに説明することが必要だろうと思う。
指導要領は、憲法の下にあるのであるから。
そんなことが職場でも議題にも話題にもならない。「こだわり」を持たない、しかも都の通達すら知らない教師だらけになってしまった。
相変わらず、校長も、来賓も、舞台に上がるときは、背面の「日の丸」に礼をする。これも、意味するところを知ってはいまい。

従順で、何も疑問に感じない子ども、教師、そして保護者。

ああ、日本は、いや日本人は、すでにこんな「ていたらく」になってしまったのか。

そういえば、最近、同僚と、「民主主義」という言葉を使った会話をしていない。

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教務主任 再び

2019年03月03日 23時27分50秒 | 教育を考える
 月行事の、日々の日程に「隙間」があると、すぐに会議を、OJTを、校内清掃を入れてしまう教務主任。
 ジグゾーパズルでも完成させているかのように、隙間なく埋まることが生き甲斐のようだ。
 
 もちろん、現在、学校に要請されていることを全て受け入れるならば、私の学校の教務主任のように、めいっぱいぎっしり詰まった行事予定にならざるを得ないだろう。彼の苦労も、経験者としてよく分かる。

 しかし、前回も指摘したように、それでも「ポリシー」がほしい。

 6時間授業の日に、夕会も予定されるのに、そこには「成績処理日」とある。
 子どもを帰すと、3時40分くらいになってしまう。
 つまり「成績の処理」は、3時45分までの・・・
 5分!

 何を考えているのか。

 3月の行事予定では、そんなインチキ「処理日」が5日もある。
 唯一可能だと思われるのは、5時間授業の日の1日のみ。勤務時間との関連で考えれば、1時間ちょい。

 つまり、5×5+65=75 1時間15分

 これで通知表を完成させよとのことだ。(笑)

 彼は、月行事の項目は発表するが、それを説明することはない。

 だれに向かって仕事をしているか。
 教務の仕事は、管理職同様、職員の志気を高めることも喪失させることも可能だ。それゆえ、学校の質をも大きく左右する。
 
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働き方改革は冷めないうちに

2018年12月29日 09時35分24秒 | 教育を考える
 文科省の「働き方改革」、変形労働時間制のパブリックコメントは、今月の21日であった。
 意図的か無意識下は分からないが、どちらにせよ、この「クソ忙しい」ときに、ゆっくり意見を書き込める教員は、ほとんどいないだろう。
 これだけを見ても、現場知らずの文科省と言われてもしかたない。

 さて、この変則勤務。
 簡単に言えば、教員に、夏休みに「寝溜めしろ」ということだ。
 忙しい時は馬車馬になれ。あとは夏にたっぷり休養せよという制度だ。
 私たちは、ロボットとはちがう。
 普段酷使しておき、あとは夏にメンテナンス・・・
 
 それならば、これまで通り、超勤をその都度調整するほうが、まだまし。
 もちろん「超勤4項目」も、ひどい基準だが。

 生身の人間は、そのときどきのコンスタントな休養、休日が必要なのだ。

 数字で帳尻を合わせて、「これでいいだろう」ではすまされないのだ。

 根本は、私たちの仕事の総量を減らすこと、または人的に補充していくこと。

 空母一隻改修する予算で、けっこうできることではないのか。
 
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喘いでいる同僚に

2018年11月17日 23時50分41秒 | 教育を考える
 同学年の同僚が喘いでいる。

 かたや、理不尽な保護者のクレームに。
 かたや、子ども達の「荒れ」に。

 どちらも、「もう、やめた」と宣言してもおかしくないほど、疲弊している。

 軽々しく「がんばれよ」とは言えず、後方から、側面から、応援するしかないが、絶対に2人とも守ってやるぞという意思は強い。

 現時点で、管理職に理解があるのは、心強い。
 しかし、あくまで「現時点」なのだが。
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自分の意思で管理職になれ

2018年10月24日 19時49分43秒 | 教育を考える
 私の同僚で、管理職になったものは、その理由や動機について、「なりたくなかったのだけれどね」「校長に、やれやれと勧められたからね」と、「言い訳」がましい言葉を発する。
 失礼ながら、「じゃあ、やめたほうがいいんじゃない?」と、嫌みな言い方をしてしまったこともあった。
 これまで勤務した学校で、9割方の「管理職の新人」がそんなことを言っていた。(今の学校も、「やりたい」と言って目指しているのは1人だけ)

 なんと夢のない「志望理由」なのだろう。
 主体性のない人たちなのだろう。
 と、悲しくなってしまう。

 私が労働組合に所属しているせいもあるのかもしれない。
 組合にとって、管理職は敵(そんなふうに思っていないのに)だから、穏やかに反応してほしいとの配慮なのかもしれない。

 私が、学級担任固執型の「堅物」なので、気を損なわないようにとの気遣いなのかもしれない。

 管理職になろうとする気持ちは、分からないこともない。
 上からの押しつけはありながらも、「こんな学校にしていきたい」「こんな管理職になりたい」とする気持ちは大事なものだと思う。
 
 それなしに、周りに押されて、いやいやなるのなら、それこそ「辞めたほうがいい」。

 管理職を目指すなら、自分なりの管理職像を、学校像をもってからにしてほしい。

 残念ながら、同じ組合員だった同僚が、管理職になったとたんに、上には忖度し、下には抑圧的な
 態度をとる、典型的な「転向」をしてしまった例もあった。

 
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目先を変えた 姑息な提案 教員の過密労働

2018年10月20日 11時34分27秒 | 教育を考える
「小中学校の教員の長時間労働が問題となるなか、文部科学省は15日の中央教育審議会の「学校における働き方改革特別部会」に、教員に1年単位の変形労働時間制(変形制)を適用した場合の勤務時間のイメージを示しました。1日9時間近い所定労働時間を学期中の一般的な働き方として想定しています。長時間労働の是正を求める現場の声に応えるものにはなっていません。
1年単位の変形制は、業務の繁閑に合わせて労働時間を調整するものです。労働者の労働時間管理を困難にすることで残業代未払いの温床になっています。現在、教員を含む地方公務員は法律で適用できないことになっています。
 文科省が示したイメージは、夏休みなどの長期休業期間の労働時間を短縮し、その分を学期中に割り振ることで年間通じた労働時間を平準化するもの。週3時間割り振ると年15日間、週4時間だと年20日間の休みが新たに確保できるとしています。
 現在、教員の所定労働時間は7時間45分ですが、文科省のイメージでは週5日のうち3~4日は労働時間が8時間45分になります。
 同日の部会では、労働組合のアンケートで変形制に否定的意見が多いことを挙げ導入に危惧を表明する意見や、長期休業期間も部活動や研修など多くの業務があることから本当に教員の休み確保につながるのかとの疑問が相次ぎました。」(しんぶん赤旗)

 ことの本質を見失う提案だ。
 根本は、教員の働き過ぎなのだ。
 教員の心身の疲弊、授業の質の低下、保護者とのトラブルの深刻化・・・などが引き起こされる「諸悪の根源」なのだ。

 それをかわすようにして出されたもので、いったい何が解決されるというのだろう。
 「夏休みにたくさん休めるから、今はとにかく身を削ってでもがんばろう」と、教員が納得するとでも思っているのだろうか。

 残業代は出ない。学年会、テストの採点、教材研究すら、時間外に行えば「私的なもの」として、勤務とはされない現実。
 
 私たちの、馬鹿正直な「真面目さ」を利用した、詐欺的なものでしかない。
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慌てふためく都教委 人権を語れぬ研修会

2018年10月04日 18時33分54秒 | 教育を考える
 研修会が終わり、会場を背にして歩きながら、
 「このハプニングは、いったい何人の教員が気付いたことだろう」と、淋しい思いがした。

 立川で行われた人権教育研修会。
 区部、市部の主幹、指導、主任、一般教諭の対象であるから、ほとんど各学校から1人は参加していることになる。
 会場の大ホールは、7割方埋まっているほどの大人数だ。

 「人権教育をさらに推進せよ」という趣旨の大研修会だ。

 都の方針について、指導部主任指導主事とかいう肩書きのえらい長い、若者が説明。

 続いて、奥多摩の小学校の実践報告。うーん、さしたる感銘はない。
 自己肯定感が上がったと報告があったが、この取組が功を奏したという確証はない。

 そして、「差別や偏見に立ち向かう~ハンセン病を生きて~」として、全国退所者連絡会副会長の石山春平氏の講演が行われた。
 隔離された生活の過酷さ、その中でも楽しいこともたくさんあったこと、職員の女性と結婚にまでこぎつけた苦労話など。
 最後に、「この世の中は、まだ差別や不自由がたくさんあります。たとえば、君が代のこと。いろんな考えがあっていいと思う。おしつけはぜったいにいけないと思います。」といった趣旨の言葉で締めくくった。
 人間味溢れた、楽しい講演であったと思う。

 そして、ここで面白い光景が。
 司会役の女性指導主事が(名前は忘れた)、最後の事務連絡と一緒に、
 
 「都教委は、学習指導要領と法令にもとづいた人権教育を行っていることを、あらためて確認しておきます」といった内容の言葉を(おそらく誰も気付かない程度の)小声で、追加説明したのだった。

 みな帰り支度、ほとんど聞いているようには思えない雰囲気の中でのもの。

 思わず嗤ってしまった。

 ああ、そうだよね。都は、人権人権と良いながら、日の丸は舞台正面に掲げろと命令しているし、君が代は歌え、歌わせろと、人権など吹き飛ばすような強い指導(威嚇)を繰り返しているし・・・
 そんなことは棚に上げて、ちょっと石山氏に突っつかれただけで、このありさま。
 太っ腹ではなく、すぐに「言い訳」をするなんて、よほどビリビリしているようだ。つまり、やましい。

 司会の指導主事は若い女性。みじめな、「ただのロボット」ぶりが、淋しいかぎり。勉強していないのか、出世のための演技なのか、はたまた本心で発したものなのか。

 帰り道、やはり「教育とはなんなのか」を、自問自答して、とぼとぼ歩いた。

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「職場を変えていく」という発想と素地のない若者と

2018年09月27日 22時32分21秒 | 教育を考える
 従順なこと
 愚痴が多いこと

 それもそうだろう
 「職場を働きやすく・働き甲斐あるものに変えていこう」とする発想にたどりつくことのないものたちには、従順と愚痴にしか「生き甲斐」を見いだせないものである。
 その発想は、「自分にとって」「我々仲間にとって」の範囲のものでしかなく、結局は「利己的な」行動しか思いつくことしかないだろう。

 ひっそりと「自分を守る」

 そんな若い教員が増えている。

 学びが貧弱であり、これまで生きてきた歴史に、微々たるものといえども、「社会を変革する」体験がなかったせいだ。

 そんな人間に説くことは、えらくしんどいものである。

 それでも諦めてはいけないことは分かっている。

 が。
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運動会まで 私は二重人格者になる

2018年09月20日 20時09分17秒 | 教育を考える
 5年ほど前のブログに、運動会に教育的な価値を見いだせるかと、次のような文書を書いた。
 もう何回も書いている内容のものだ。

「何回も書いていることだが、昨今の運動会は、児童の自主性を育てるというよりも、「いかに見栄えをよくするか」「統制のとれた動きをするか」「シナリオ通り、子どもが動くか」を主眼とするものばかりで、少しも教育的に価値のある行事とは思えない。
台本を渡して「せりふ通りに話しなさい・動きなさい」「歯をくいしばれ」
できない子には、容赦なく怒声が飛ぶ。
子どもも親も、完成品を見るだけで、「達成感に感動した」として、その取り組みを疑うことすら忘れてしまっているかのようだ。
「拍手をたくさんもらえてよかった」「みんなとひとつのものを仕上げた喜びがある」「かっこよかった」
それはそうだろう。
しかし、なにがそこから得られたのかは、誰も問わない。
どこかの国のマスゲーム。それとどこが違うのか。
軍隊の規律ある行進と、どこが異なるのか。」

 また運動会が近づいている。
 今朝も校庭で、応援係の子が、「声が小さい」「もっとビシッとせい!」という「罵声」に近い声が聞こえてきた。

 もう何十回も経験してきたが、「学力」の優劣をあげつらうことは御法度なのに、なぜスポーツの世界は許されるのか。
 お祭りだからいいじゃないかという声もあるが、それならなぜみんなが楽しむことを優先しないで、「統一のとれた行動」だけが指導されるのか。
 「楽しむ」のなら、そのためのアイデアを子ども達と一緒に考え。企画していくことが、それこそ教育的価値があるのではないか。
 創造性という点でも、教員がダンスの振り付けを考え、それに従って踊ることが共有される実態だ。
 応援も、毎年同じ台本で、オウム返しのせりふが交わされるだけ。
 気をつけは、足の開く角度は何度。「体操の隊形に」と言ったら、手を腰において、動く方向に体を向ける。
 「おはようございます」を言ってから、礼をしなさい。
 行進は、しっかり手をふって、脇目をしない。前後左右をそろえなさい。(自衛隊の予備軍を作っているかのように指導だ)

 毎年、批判しているが、なにも変わらない運動会だ。
 子どもには、「楽しもう」だけではすまない、逃れられない状況が、どんどん進んでいく。
 
 運動会は、私を二重人格者にする。
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憂鬱な道徳授業の幕開け

2018年09月12日 22時30分57秒 | 教育を考える
 今日、私の勤務する地区の一斉研究会が行われた。
 私の所属する道徳部では、6年生の研究授業を見ることになっている。

 若手の女性教師の授業だ。自ら立候補しての公開授業である。

 新しく「特別の教科」となり、教科書が中心となる授業での初公開である。

 総じての感想。

 やはり予想していた通り、憂鬱な授業を見た。
 そして、それを否定する教師が、ほとんどいない。
 論理的に破綻した、そしてすこぶる誘導的な授業の欠陥に、本人が気付いていない恐ろしさ。
 授業の手法がにいくら力を注いでも、それを支える学習内容については、まったく表面的であり、無知ともいえるしろもの。
 こんな授業をしている若い教師が、増えてきているのだなあと、ため息。

 授業は、「六年生の責任って?」
 学校で、「ぼく」が、置きっぱなしのぞうきんを見つけ、それをぞうきんがけにもどす。
 前にも、掃除用具入れからきみだす、ほうきも見た。
 学級会で、「六年生が見回って、かたづけをしよう」と提案する。
 それに対して、山本さんが「それは美化委員会の仕事だと思う。与えられた仕事をやることが六年生としての責任」と反論。
 横山さんが、「六年生だけがやっていたら、卒業したら元にもどるだけ。六年が片付けるのも、美化委員がやるのも反対」と表明。
 ここで、話は終わる。

 ①1番のねらいは、「よりよい学校生活にしていくために、六年生としてどんなことができるだろう」がメインの発問。
  の、はずだったが、いつのまにか、「これまでの自分をふりかえろう」が、まとめの感想になっている。巧妙なすり替えである。
  「よりよい学校生活」とは、いったいどんなことを言うのかの検討もなく、「それなら、あなたたちはこれまで帰任を果たしてきたの?」と迫ってい  く。「楽しい学校生活を、みんなが受けられる」のは、子どもたちの当然の権利である。楽しい、学び合いがある、一人一人に居場所がある、そんな  学校生活のためにやれること、ではなく、「あなたたちはちゃんとやってきた?」なのである。義務、規律を押しつける授業が圧倒的に多い道徳であ  る。いつの間にか、展開の内容が改変していることに気付かない授業者。そして、見ている教師の群れ。

 ②教材の文章が杜撰である。①で書いたように、「よりよい学校生活のためにできること」が、いつのまにか「六年生の責任」といった重苦しいものに  変わっている。ペテンである。また、上に書いた三人の子どもの発言を、「さて、あなたは、だれの意見に賛成ですか」と迫る。今回は、「さあみん  なで、学級会の続きをやってみましょう」として、三択による「話し合い」(いや、ただ意見を出し合うだけだったが)をさせたのだが、そもそも三  人の意見は対立もしていないし、それぞれの視点が違うものである。さらに横山さんの意見は、賛否の表明といったもので、対案ではない。それを子  どもに論議させるのだから、そり自体無理な、そして無意味なことなのだ。このような「討論」にならないものを平気で論議させている授業者の論理  的思考は、著しく幼稚なのだろう。残念ながら。

 ③授業者は、そうとうの自信家のようだ。そして、残念ながら、授業内容について深く掘り下げようとしないとてう致命傷も持ち、そんな授業を見てい  るうちに、「ああ、こんな教師が担任として1年間そばにいたら、さぞかし子どもたちは、従順で、与えられた課題や仕事に一生懸命に取り組むこと  こそ尊いと考えるようになっていくのだろうな」と、暗澹たる思いになってしまった。

 哀しいと思ったことは、授業者が真摯に教材と向き合って、苦しんで格闘した痕跡がまったく感じられないことだ。
 いつの間にか、「従順」で「受け身」にさせていく展開に気付いた様子が感じられないことだ。
 目の前にいる子どもたちに、どんな力をつけてもらいたいのか、どんなことを教えたいのかが、希薄なこと。
 授業者にとって大切なことは、いかにスムーズに授業を進めていくか、活発に子どもを「動かす」のか、そんなものなのだろう。
 教科書、指導書を越えた実践を行おうといった意思が感じられない、ひどく残念な授業であった。

 きっと、こんな道徳が増えてくる。こんな教師が増えてくる。 学校に未来はないなあ。

 
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自己肯定感 アンケート回答

2018年07月27日 23時12分25秒 | 教育を考える
 職場の研究テーマは「自己肯定感」。
 日本人はことのほか低いとされるものだ。
 奥ゆかしいからかもしれない。文化の違いだ。こればかり強調すると「ナルシスト」を生産する教育となってしまう。
 計ることのできないもので曖昧な概念だ。

 そんな懸念はなんのその。校長さんは、ただひたすら「自己肯定感を!」とハッパをかける。
 みな優しいが従順。したがって、言われたことには真面目に取り組む。
 会議では、中堅以上の五人くらいしか発言をしない、おとなしく頼りない職場。


 夏休みに入り、この研究に関して、全員に感想、意見を書いてもらい1冊の冊子にまとめた。
 なんだみんなけっこう、いろいろ考えているじゃないか。
 もっと発言しないとね。「わからない」「理解できない」も、立派な意見だよ。

 そんな学校の研究推進部長を務めている。

 なんでもありとしたアンケートで、私の書いた回答。

 「小学生時代に「自己肯定感」など考えたこともなかったように思う。また反対に「自分なんて」と自暴自棄にもなった覚えもない。両親と、子どものいない伯母達にそこそこ可愛がられ、仲良しの友達も何人かいて、楽しかったことが、遠巻きの「自己肯定感」だったかもしれない。ただ改まって「お前は自分のことを愛しているか」などと聞かれれば、なんと答えただろうと考えると、素直には「Yes」とは答えなかったとも思う。すこぶる自信のなかった私だったから。
小学生に「自己肯定感」を芽吹かすためには、人の中で「愛されている」「居場所がある」「みんなの幸せの一端を担っている」ことが認識されることでしょうか。生活指導面では、1人の子も見捨てないという姿勢を学校全体、学年、学級全体で貫いていくこと。学力もしかり、なのですが、現在の「学力偏重」のベクトルの中で、忙しい学校が「見捨てない」ことを実質的に実現できるか、私はちょっと絶望的に感じています。」

 
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