息苦しい世の中で 自由に語り合える空間を

自由でも民主でもない この日本を もっともっとよりよく変えていくことができるように たくさんの知恵を語りましょう。

ブレヒトの詩を どなたかご存知ありませんか

2021年03月14日 11時02分17秒 | 思い出を語る
私が高校二年生のときに、長野県の簗場というところにある学生村にご厄介になりました。夏休みの学生村は、私のように受験を控えた高校生、大学のサークルの合宿などが主流だったと思います。
同じころに同宿したのは、東京演劇アンサンブルの若手の役者さんたち。まだ人見知りをする私に、気軽に声をかけてくれました。男性二人、女性一人の三人組。
そんな中で記憶に鮮明なのが、私に詩をいくつも教えてくれたこと。みなさん、すべて暗唱しているようで、「あ、きっと発声や台詞の練習にもしているのだな」と思えました。
なかでも「おすすめだから、空んじるといい」と、教えてもらったのが、谷川俊太郎の「ネロ」、そして、ブレヒトの「けしてできないなんてお言いでない」でした。
この二つの詩は、それからの私にかなりの影響力をもったものです。
とりわけ、ブレヒトのほうは、私を演劇好きにさせるきっかけとなりましたし、ブレヒトを通して社会に目を向ける契機ともなったものです。

しかし、この詩は、どこからの引用のものなか、いまだに発見できないでいるのです。
当時、ブレヒトの「母」「肝っ玉おっかあ」という劇の話がでていたかと思い、その脚本を当たってみましたが、見つからず。もしかしたら、役の違いもあるかもしれません。
どなたか、お分かりならば。
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懐かしの大宮 深井崇史くん

2020年11月09日 20時16分41秒 | 思い出を語る
家族5人で大宮に旅行。
近場、補助、クーポン付き、車で行ける、そんな条件に見合うのが大宮だと、長男が判断して、私たちはただ相乗り。
去年の10月にオープンしたばかりのホテル。13階にフロントがあり、下が客室。14階の屋上が露天風呂というのも面白い。今や部屋の出入り、エレベーターまでカードでタッチである。
新しいだけに綺麗な部屋である。露天風呂も、ガラガラで余分な気遣いがいらない。喫煙室もふたつあり、まあなんとか紫煙の飢えはしのげる。
ホテルは素泊まりにして、初日の夕食、二日目の昼食は、外にくり出す。
夕食は、寿司。駅の北口にある店で、クーポンで特上を注文。サイドメニューとして、白子、穴子の一本、茶碗蒸しなども頼む。
翌日の朝は、駅弁。好物の牛肉弁当を買って食べる。
昼は、鰻やへ。全てクーポンの範囲で収まる。
長男のお薦めは、埼玉芸術祭2020であり、旧市役所、図書館での開催。一通り観たが、私の眼力の無さか、胸をときめかすものは、残念ながら。
図書館での観賞の合間に、外に出て、大門町の通りを歩く。
50年近く前に、下宿していた街、通りである。
立教中学から仲の良かった深井くんと、坂井さんという父の競輪仲間の家の隣に半年逗留した。古いお菓子屋さんの裏のアパートで、柱が傾いている長屋だった。私が新座に住んでいて、武蔵野線のない当時、浦和高校のある北浦和までは二時間もかかる。父が受験時期の半年、通学の負担を軽くするために、坂井さんに頼んでくれたものだ。深井たかしくんも吉川からだから似た条件なので、誘うとすぐに乗ってくれた。
夕食は、坂井さんの家か店で。店が暇なときは、坂井さんのお母さんが、凝った手料理を、忙しいときは「ごめんね、うなぎにしたゃうね」と。私たちは、忙しいことを毎日祈っていた。
坂井さんの家は、4人の子どもがいて、長女が私たちと同い年、下にまさおくん、ひーちゃんという、長男、次女がいて、一緒に食べたりおしゃべりをしたりしていた。

大宮は、50年もたつと、さすがに大きく変貌して、坂井さんの店やお菓子屋さんの片鱗も探すことができない。ただ、一軒だけ当時の坂井さん家に似た建物を発見。新築しても、玄関や窓、部屋の間取りは、ある程度引き継ぐこともある。50年前の電話番号で、その家の前でかけてみる。すごい通じた!
出てきたのは男性の声。かつて世話になったことを説明。「まさおくんですか?」と聞くと、「はい」の答え。奇跡!
玄関先で、懐かしい話をする。おばさんも入院中ながら元気にしているという。
コロナ禍が過ぎたら、改めて訪問することを伝えて、まさおくんと別れる。「まさおくん」とはいえ、私よりちょい下だが。
最後に、まさおくんから、「あの深井くん、もう定年になたけど大和総研の社長さんになってたのを知りました」と。
へ~、すごい。彼は私の一年あとに中大の法学部に入学したまでは分かっていたが、その後、付き合いがなかった。努力したんだなあと感動。深井くん、覚えているかな。
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松本善明さん いわさきちひろさん

2019年07月06日 14時54分16秒 | 思い出を語る
大学時代に、家にあがらせていただいたことがある。たしか選挙の応援のついでに招かれたと記憶するが、当時、津金さんという議員さんの応援で経堂でビラまきをした帰りだったと思う。(津金議員は、後に海の事故で亡くなり、ショックを受けた)
いわさきちひろさんも在宅していて、穏やかな優しい表情でもって迎えていただいた。米原いたる議員もいらっしゃったと思う。米原万里さんの父親。豊島区を地盤にしていた議員さん。

弁護士から議員になった松本善明さんは、話は決して上手だとは思えなかったが、演説の際には、恐ろしいくらいの熱気や強い意志が伝わる。
ただ、訪問時にはそんな「強さ」よりも、優しさが前面に出て、居心地がすこぶるよかった。

訃報を聞き、しばらく声が出なかった。
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人生劇場 まだあった!

2018年05月05日 22時17分47秒 | 思い出を語る
岩波ポールで映画を見たあとで、古本屋街をぶらぶらして、お茶の水に向かう路地に。
明大の裏に通じる路地だ。
すると、パチンコやの人生劇場を見つける。
駿台予備校に通っていたころに、時折行っていた店だ。
ここには、景品で、文庫本や単行本がそろっていて、当たりの日にはよく交換したものだった。
大月文庫の「資本論」は、ここで全巻揃えた。
まあ、得したのかどうかは忘れてしまったが。
懐かしの人生劇場。
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離れていても繋がっている風景

2018年05月05日 13時04分16秒 | 思い出を語る
岩波ホールに「マルクス エンゲルス」を見に。
お茶の水から神保町に下ると、私の時代が40年以上もワープする。
高層ビルが建ち並び、ゴーゴーカレー、ドトール、はなまるうどん、韓中経営のマッサージの店やらと、店や建物は驚くほど変貌しているが、道はたいして変わってはいない。
入り浸っていた「ソフィア」、天ぷらの「いもや」、喫茶「五城」、もう跡形もないが、私の目にはしっかりと映っている。
古本屋の一心堂先の路地から、きよみちゃんが、もぐが、ムロが、ほりが、やっちゃんが、まっちゃんが、まゆみちゃんが、メトメが、みほちゃんが、大五郎が、ペコが、ポンタが、今にも飛び出してきて、「さぼうるで、コーヒーでも飲もうぜ」と誘ってくるようだ。

もうそれは現在でも現実でもない。
しかし私だけの心の中では、今でもきらきらして輝いて息づいている「現実」。
これなくして今の私はなかったのだから。

涙を胸に秘めて、マルクスに向かう。
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メトメの娘さんへ

2018年02月17日 22時38分39秒 | 思い出を語る
 コメントを見てびっくりしました。
 大学の先輩のメトメの娘さんからの投稿があったからだ。
 すごいですね。よく見つけましたね。
 コメントの返事にも書きましたが、今度は娘さんが気がつかないといけないので、ここに転載してしまいます。
 どうか見つけて、気付いていただけるように。

 「1週間ほどブログに手をつけていないために、「発見」が遅れました。
きよみちゃんも、そしてメトメも、大学時代のサークルの先輩です。メトメは、いつも論理的で、しかし一方的に押しつけるのではなく、必ず「・・・と僕は考えるけど、君はどう思う?」と猶予をくれます。(たいていはメトメの論理が勝つのですが・・・笑)きよみちゃんは、絶対に人を区別・差別しない優しい「強さ」を持っていました。このころから2人は公然のカップルだったと思います。当時、私も「ああ、こんな恋人同士になれたらいいなあ」と思ったものでしたよ。正義感の集まりみたいなサークルでしたから、メトメが議員になるのは当然のことでしたでしょうね。私も教員になりましたが、メトメをはじめてして、このサークルで学んだことで、どれだけその経験が役に立ったか、数知れないくらいです。
それは、「ハウツー」の知識というものではなく、「人をこよなく愛すること」や「不正には黙っていない」という心情や勇気です。これをメトメたちから、学んだおかげです。
きっと、本当の意味で、優しく、そして厳しいお父さんだったに違いありません。
亡くなったことを知り、「いつかまた会って話し合う」ことを先延ばしにしてきたことを、心から残念に思い、家族に内緒で、風呂場で泣きました。涙が止まりませんでした。
子育て、がんばってくださいね。楽しんでくださいね。
一緒に成長してくださいね。」
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「宇宙家族ロビンソン」「タイムトンネル」「ルーシーショー」 アメリカへの憧れもあって

2017年04月03日 21時51分46秒 | 思い出を語る
 小学生時代によくテレビで見た、アメリカの番組です。
 
 他にも「名犬ラッシー」「突撃 マッキーバー」を思い出しました。
 もちろん日本語吹き替えのものですが、これら5つは、ほとんど毎回欠かさずに見ていたと思います。

 それぞれの面白さは違ってはいるのですが、「アメリカって、こんな楽しい娯楽番組があっていいなあ」「登場する家は大きくて、部屋が広くて、こんな家に住みたいなあ」といった、大国への憧れもあって見ていたことでしょう。

 「宇宙家族~」は、ドクター・スミス(熊倉一雄の声か)の妨害と戦いながら、宇宙の旅を遂行するという「ワンパターン」の話ながらも、最後にははねのけて、さらに未知の宇宙空間へと旅立つという毎回のストーリーにどきどきとていたこと。ここに登場するベニーは可愛くて、彼女を見るだけでも満足、といった人も少なくなかっただろうと思います。

 
 「タイムトンネル」は、2人の親友が、過去の大事件に遭遇するもの。今でもよくできたドラマであったと思います。

 「ルーシーショー」は、ルシール・カーマイケルという名前(間違っていないと思いますが)を今でも覚えているくらい熱く見ていました。
 サザエさんの「かつおくん」の声。ムーニーさんという銀行員。1番笑いこけていた番組でした。

 あっ、「ちびっこギャング」とかいうのもありました。

 内容の分散した文章となりました。

 思いつくままに、小さいときのお好みアメリカ番組の記憶を辿ってみました。

 これらを見ていた私のすぐ隣には、いつも「財布のおばちゃん」(母の兄弟姉妹の長女、つまり私のおばちゃん)が座り、一緒に笑って見ていた。

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「ヤング101」 その後

2017年03月30日 06時29分38秒 | 思い出を語る
http://gonbe-chu.my.coocan.jp/101/101m981101.htm
のサイトに「ヤング101」のその後という記事が載っていた。
1986年時点での記事のようだから、さらに「その後」がほしいが。
申し訳ないが引用させていただく。

相沢忠彦 S26/11/25生まれ スポーツマン、心の優しい男

青木マスミ 八月八日生まれ 努力家

井口典子 S23/7/12 Noko スキー水泳ショッピングが趣味

石岡ひろし S/22/3/13 いつも健康的

一条みゆ希 岩手県水沢で美しい北上川とともに育つ、ラジオ大阪の
「ふるさとバンザイ」のパーソナリティーもつとめる

伊藤三礼子 S/25/5/2/ フラメンコと詩が好き

井上稔 S/26/9/7/  なんとなくとぼけていて、何を考えているか分からない

江崎英子 S/25/12/12 グリ←江崎グリコより 絶えず動いていることとともに裁縫も好き
さみしがりやで夢はすてきな男性と気ままな旅に出かけること。
すてきなおばあちゃんになること

小原初美 S26/2/21 16歳からバトンをやっている。あまぐりが好物

温碧蓮 十月十一日生まれ ミュージカル「ファンタスティク」にも出演

加藤綾子 S/26/10/22 身長163.2体重52kgヤングのなかで一番足が太い
将来は何でも歌える歌手になるかお嫁さんになりたい

岸龍也 s/27/2/10パートはBass 前橋出身 高校卒業後一年のアメリカ留学
身長184 体重75

清須邦義 s/23/1/26 趣味はつり読書

串田アキラ s23/10/17 ニューロック、フォーク、R&Bというパターンにとらわれず!
良い曲なら何でも自分の歌い方で歌ってゆきたい!

黒沢裕一 s/23/2/16 Kuro 101のプレスリーorトム・ジョーンズorフンパーティンク

塩見大治郎 s/23/6/24二年前(s44)京都から上京NHk近くの代々木に
アパートを借り一人暮らし。料理が好き

宗大春男 s/23/1/9 釣りにかけては日本一

諏訪マリー s/23/7/29歌うことと踊ることがとてもすき

高木吾郎 s/25/11/4 スポーツ好きの日本男児

高野三千代 十月七日生まれ ソプラノ担当、ワンツーおじさんにいつもしぼられる

ザ・チャープス 竹内 まり子 二十歳 ゆり子十八 えり子十七
ジャズ、ポピュラー、ロックと幅広く活躍するコーラス・グループ CMも歌う

津島隆文 s/28/1/9 アー坊 趣味は車の写真集め特技水泳 
ヤングの中で一番若く一番おとなしい。ゴーゴーが好き

中川圭子 s/26/4/30 Dodo 見た目16本当は20小さくポッチャリ

西玲子  s/30/9/26 趣味は詩を書くこと、絵を描くこと、Lovelyでオセンチな女の子

バーズ 豊田順子 姉、豊田礼子 妹
浦和市生まれ 趣味は手芸といけばな(草月流)古風な女性

樋口康雄 最近は歌よりも音楽活動に力を入れている、将来は作曲家としてがんばりたい

広 美和子 s/25/12/13 166cm 50kg 将来難でも歌える歌手かお嫁さんになりたい

藤島 新 s/23/7/22 夏の九州の海と山がすき

牧 憲幸 s/24/4/22 熊本生まれ代表的九州男児 フォークグループ「オレと水車」
をつくってがんばっている

牧みゆき s/25/1/5/164cm/53kg 趣味は動物飼育 ミュージカルタレントをめざす

水木誠 s25/12/23/171cm/53kg/胸囲90cm/足の長さ80cm
趣味はプラモデル組立
串田アキラ 69年デビュー。ジムロックシンガーズ参加後ソロでアニメ主題歌等

八代かずみ s26/1/15 デコ おでこが広いので

山田美也子 s/26/10/16 趣味はピアノ、映画、レコード鑑賞、お花を見ること
詩を作ること。特技は英語、中国語、バレー、タップダンス、ピアノ

若子内悦郎 s24/3/30 オートバイとR&Bには目のない男、

和田昭治 ワンツーおじさん

中山久美 振り付け担当


井口典子 72年アルバム、73年シングル発売。アメリカ在住。

泉朱子 70年デビュー。レポーターとして活躍。

一条みゆ希 「おかあさんといっしょ」歌のおねえさん。声優DJとして活躍。

江崎英子 74年映画「ルパン三世」の峰不二子役。現在ダンス教室。

江崎和子 シングアウトのボーカル。ロビ-和田夫人。

小原初美 NHK「なかよしリズム」、75年デビュー。現在ジャズシンガー。

温碧蓮 宝塚出身。秋野大作夫人。

小林啓子 69年デビュー。高橋信之(高橋幸宏の兄)と結婚後、離婚。

高橋美千代 アメリカ在住。

ザ・チャープス 3人姉妹。結婚後各々CMなどで活躍。

ザ・バーズ 双生児姉妹。68年デビュー。「アティションプリーズ」の主題歌など。

長沢澄子 71年デビュー。サンフランシスコでピアノ教師。

牧ミユキ 68年本名(木下節子)でデビュー。70年再デビュー。

諏訪マリー 宝塚出身。70年デビュー。結婚後ミュージカルで活躍、

広美和子 惣領泰則のジムロックシンガーズに参加。現在はCMなど。

山田美也子 NETテレビ「とべとべパンポロリン」「おはようナイスディ」司会

八代かずみ 芹沢廣明夫人。

西玲子 72年デビュー。

中山圭子 コーラスグループ「ファニーズ」でライブ活動。

青木マスミ 73年映画「16才の戦争」でデビュー。現在八月真澄としてクラブなど。

中山エミ 73年デビュー。

湖東美歌 「シャイニーストッキングス」で再デビュー現在はミュージカル。

太田裕美 最初の頃は太田ひろみ名義。

北美奈々 71年デビュー。

岸じゅんこ 74年デビュー。

キャンディ浅田 映画主題歌「真夜中の招待状」でデビュー。現在ジャズシンガー。

池田美和 シングアウト解散後、惣領泰則のブラウンライスに参加。

石岡ひろし 70年デビュー。86年丘伸二として「J」発売。

上市光男 スク-ルメイツ出身

河内広明 ザ・バロン、ワカトヒロ、82年芹澤ヒロ「リングの接吻」、
芹澤廣明、チェッカーズの作曲を担当。
清須邦義 ザ・バロンのリーダー、渡米、松山千春プロデュース、ソロ発売

串田アキラ 69年デビュー。ジムロックシンガーズ参加後ソロでアニメ主題歌等

黒沢裕一 67年デビュー。76年藤島新とピーカーブー。CX「ファーストクラス」

塩見大次郎 杉田二郎らとジローズ結成して68年デビュー。現在司会等

宗台春男 ザ・バロンのドラマー、現在はスタジオミュージシャン

惣領泰則 シングアウト、ブラウンライス、ジムロックシンガーズ、作編曲家

高橋キヨシ 70年デビュー。現在大阪で活動

津島文 72年「まきのりゆきとこおろぎ’73」でデビュー幼児向けレコード

原田時芳 シングアウト、渡英、スタジオミュージシャン・プロデューサー

樋口康雄 シングアウト、ヤング101の音楽スタッフ、作編曲家、
ビルクラッチフィールド、現在はCMの作詞作曲
若子内悦郎 ザ・バロン、ワカとヒロ、郷ひろみのコーラス
石野陽子プロデュース
田中星児 「おかあさんといっしょ」の歌のおにいさん

水木誠 西野バレエ団出身。70年デビュー。現在ミュージカルで活躍

藤島新 72年デビュー。76年黒沢裕一とピーカーブー

まきのりゆき 70年デビュー。まきのりゆきとこおろぎ’73のリーダー、現在歌謡教室

山崎功 シャボン玉ホリデーのフォーメイツのメンバー
小柳ルミ子ステージ
斉藤あきひこ ラブサウンズ音楽祭グランプリ。現在CM作曲など

田頭信幸 70年「キャッシュボックス」ボーカルデビュー

庄司淳 現在ジャズコーラスなどで活躍

桝川譲治 現在劇団四季

藤村泰介 76年デビュー。後「屋根の上のバイオリン弾き」出演

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「ステージ101」 こんな人も出ていたんだ

2017年03月29日 22時27分21秒 | 思い出を語る
 前の記事で、「ステージ101」について書いたので、ちょっと調べてみると、思わぬ人も出演していたのだと知って驚いた。

 ついでに記録しておこう。

 私の覚えているのは、

 小林啓子、恩へきれん、泉朱子、「涙を越えて」、「比叡おろし」、「気になるわ」くらい。

 さて、こんな人も出ていた!


 ※『ステージ101』(いちまるいち)は、1970(昭和45)年1月から1974年3月まで、総合テレビで放送された大型音楽バラエティー番組。
  歌やダンスはもちろん、楽器もこなす精鋭メンバー「ヤング101」の若者たちおよそ40名(スタート時36名、最終回44名)を中心に、国内外の名曲  や番組オリジナルの歌を紹介した。「涙をこえて」「怪獣のバラード」「若い旅」など、この番組から生まれたヒット曲も少なくない。
 

  太田裕美、谷山浩子、田中星児

 前期(1970年1月~1971年3月)
 放送は土曜日。司会は、関口宏(1970年1月~9月)、黒柳徹子(1970年10月~)が務めた。

 36人の「ヤング101」を番組の軸として、有名歌手やコメディアンをゲストに、歌と踊りと軽快なおしゃべりでつないだ。ゲストには、浅丘ルリ子、美 空ひばり、ピンキーとキラーズ、植木等、渥美清、森光子、坂本九、越路吹雪など、当時の人気のスターたちが出演した。

 中期(1971年4月~1972年3月)
 放送が水曜日に変更。司会は、黒柳徹子(~1971年9月)、マイク真木・前田美波里(1971年10月~1972年3月)。「ヤング101」中心の構成とな 
 り、ファン層も小・中・高校生が目立った。

 後期(1972年4月~1974年3月)
 放送が日曜日に変更。司会は「ヤング101」の泉朱子・若子内悦郎。「ヤング101」の活躍は番組外にも広がっていった。

 私はいつごろのものを見ていたのだろう。

 最終回の「ステージ101」の動画だ。
 https://youtu.be/RvD6fyzOVmM?t=15
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「あと何回 逢えるのかな」と 老いた母

2017年03月29日 00時05分27秒 | 思い出を語る
 愛知に住む、私の妹からメールが届いた。
 私の母は、その妹家族と一緒に暮らしている。(母が妹を、父が私を連れることになったため)

 年に1度は、私の家族は「孫見せ」として遊びにいくのだが、母にとっては、その1年がとてつもなく長い時間であるのだろう。
 昭和7年生まれの母は、今年で85歳になった。
 
 高齢であることを考えれば、「あと何回」と思うのも無理はない。

 前回、私は「嫌い」「憎い」という感情について書いたが、もともとは、この母と、亡き父の、純な優しさからきていることは、間違いないのだから。
 とにかく「人が好き」な夫婦だった。
 損得は考えずに、「喜ばれる」ことが好きな夫婦だった。

 母と逢わなければ。
 たくさん話しておかなければ。

 
 

 
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ブレヒト けっしてできないなんてお言いでない

2017年03月27日 21時06分56秒 | 思い出を語る
 高校生の時に、出会った演劇研究生から、谷川俊太郎の「ネロ」と、ブレヒトの詩を
教わって、何回も何回も音読して覚えたものだった。

 ネロは、すでに紹介したが、一方の「けっして・・・」は、まだ全文が探し出せないでいる。

 生きている以上、「決してできない」なんてお言いでない!

 しっかりしているものだって、しっかりしてはいない

 いつまでも、いまのままではいない。


 ここまでは、東京演劇アンサンブルのサイトで見つけたが、その先がわからない。

 ブレヒトの「母」の中で使われているものだから、その本を見つければいいのだろう。

 私の精神形成に、大きな影響を与えた詩。
 執念深く探していこう。
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焼き鳥屋 トリスの小瓶 そして父

2017年02月26日 23時30分39秒 | 思い出を語る
 私が普段利用している駅の北口で、今、再開発が急ピッチで進められている。
 これまで、ぎゅう詰めの駅前のイメージが変わる。
 近隣とほぼ同じ光景となってしまい、なんとも没個性の再開発なのだが、どのような街並みになるか、ちょっと楽しみでもある。

 どのような理由かわからないが、その再開発に隣接したあたりに、最近「焼き鳥屋」(飲み屋のつまみのメインとした店)が、突如たくさんオープンした。私の知っているかぎりでは・・・5軒。なんでなのか、よく分からず。唐揚げ屋もオープンした。

 焼き鳥と言えば、小学校の低学年のころを思い出す。まだ自宅に風呂がなかったとき、父と銭湯に行った帰りに、屋台の焼き鳥をよく買ってくれた記憶がある。いつも1,2本。たいていは、鶏皮とレバー。
 父も同じものを頼み、ついでに通りの反対側の酒屋で、いつもトリスの小瓶を買っていたものだった。
 焼き鳥は、「匂い」で足が近づく。親子して、いつもその誘惑に負けていたというわけだ。
 トリスの小瓶は、厚紙の箱に入っていて、その裏側には、将棋盤の印刷がされていたと思う。
 2人で手をつなぎ、焼き鳥を食べながら、銭湯から5分の自宅までのんびり歩いて帰った。
 父は、1本しか食べないで、必ず残りの1本を、母におみやげとして持ち帰ったことも覚えている。
 幼い私は、2本ともぺろりと食べてしまっていたが。

 28日は、父の誕生日だ。生きていれば・・・そうか、90を越えている計算になるんだ。
 大正の終わりに生まれ、昭和を生き、平成のはじめに亡くなった父。
 もっともっと話したかったね。

 
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「まぼろしの翼とともに」 

2017年02月25日 23時42分39秒 | 思い出を語る
 大学時代、「遠い世界に」はずっとサークルのオリジナルソングだと思って歌っていたように、
 この「まぼろしの翼とともに」も、サークルの誰か先輩が作ったのだろうと思っていた。
 それくらいフォークに疎くなっていた時期。
 大学1年までは、クラスの岩本くんが、チェリッシュのえっちゃんが好きで、よく歌っていたり、私もテレサ・テンが「空港」を
歌っているのを見て、「なんて可愛い」と思っていたくらいだったから、歌が遠かったからではないはずだ。

 所謂フォークソングは、みな私の周りの友達から聞きながら詳しくなっていった。
 それまで知っていたのは、「赤い鳥」くらい。
 高校生の時に、小学生時代に「好き」だった「すのうちさん」をデートに誘って、渋谷公会堂でコンサートを聞いた。(本命は「よしざきけいこちゃん」だったので、どうして彼女を誘ったのかはよく覚えていない)

 「人とし生きるため」と同様に、いつも歌いながら、幼いながらも、自分の「生き様」を糺していたように思える。
 陽水も、拓郎も、私を変えることはできなかったが、上の3曲は、根が自堕落な私を、いつも鼓舞し、矯正してくれる役割を果たしてくれた。
 当時、私は、新宿二丁目でバーテンのバイトをしながら、一方で「正義の味方」たらんとする大学のサークルで活動していた。この分裂を、
この歌を口ずさむことで合理化していたに違いない。

 動画は、
https://youtu.be/Sdlb0tNLDH4?t=11



『まぼろしの翼とともに』 詞・曲 西岡たかし

今でもボクは思い出すのさ

あの頃の事 あの日の人

ボクと同じ学生だあった

国のために死んでいった

君は若くたくましく

短い命だったが

まぼろしの翼と共に

炎の中に消えてしまった

 

君はあの夜 私に言った

恋人と別れてきたと

ボクは今もおぼえているさ

あの時 君のまなざし

君が死んだ次の夜に

かなしい涙であの女(こ)は死んだ

 

もういやだこんな世界は

もう二度と見たくない

 

君が死んだ次の夜に

かなしい涙であの女(こ)は死んだ

もういやだこんな世界は

もう二度と見たくない

ラララ・・・・・・・・
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成人式 私は何を?

2017年01月09日 16時06分47秒 | 思い出を語る
街中で晴れ着姿が映えています
若いことは、それだけでも生命力に満ち溢れていて魅力的ですね
私は二十歳に何をしていたか。
う〜ん、思い出せないのです。

一浪したので、大学一年は19歳で成人の日。
つまり二年の正月。

もう新宿でバーテンのバイトをし始めた頃かもしれません。
学校とバイトとサークルの掛け持ち。かなり中途半端な生活をしていたような記憶です。

バイトのことは誰にも言わなかったから、なおさら、ちぐはぐな感じだったと思います。
そのころは、好きな子はいなかったはずだから、張り合いもなく、学校ではサークル室に入り浸り。
つまらない生活だったかも。

ただ、この3つの生活圏が、その後の私の人生を決めたことも事実です。

少しはblogで書きましたが、1000を越す記事の、どこに書いたか、もうわかりません。

blog、整理をしないと。
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尋ね人2

2016年11月23日 23時20分15秒 | 思い出を語る
残された年月が少なくなってくると、きっとだれしも思うことなのだろう。
亡くなってしまった人は、しかたないのだが、まだきっとどこかで生きている、活躍している、かつての友人、知り合い、恩人など、
消息を知りたいと思う。
ネット社会は、この情報が思ってもいない使われ方をするとも限らないので、大雑把にしか紹介、提示しかできないが、手がかりがあれば
少しでもありがたいと思う。

小学校の時に、転校していってしまった色白の美少女、しらいしさなえちゃん。(笑)
ずっと好きだった、よしざきけいこちゃんは、活躍していることを知ったけれども、詳細はまだよく分からない。
中学生のときに、ゲバラに心酔していた、あらかわくん。
高校のときに、いつも一緒だったみなみくん。
大学生の同じクラスの、よこたくん、ああ、名前が出てこない・・・馬橋に下宿していて、静岡の御茶屋の息子。ごめん。思い出すからね。
長野、飯山の同じ民宿でお世話になった東京演劇アンサンブルの研究生の4人のお兄さん、お姉さん。

書いてきて、名前すら出てこない自分に愕然。
失礼ですよね。がんばって記憶をたどってみます。
コメント
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