息苦しい世の中で 自由に語り合える空間を

自由でも民主でもない この日本を もっともっとよりよく変えていくことができるように たくさんの知恵を語りましょう。

公明党はいらない

2015年03月21日 17時32分44秒 | 教訓
公明党員、支持者、創価学会員は、思考停止状態なのか。
今回の武力行使法の合意について。
公明党は、「自民党の暴走に歯止めをかけた」と言っているのだろうが、私はそうは思わない。
戦争に参加できる国作りに手を貸した。
そうとしか考えられないのだ。
ゴールを目指すランナーに伴走して、ちょっとだけ引っ張り、速度を遅くした。それだけの役割だ。
ランナーを止めたわけでもなく、ましてUターンさせたわけでもない。
伴走して、ゴールを目指すランナーには、たかだか「もう少しゆっくり走りなさいな」とアドバイスをしている程度の役割だ。この伴走者は、恐らくゴールまで付き合ってしまうことだろう。
そのときになって、「私には罪はない。私は引き留めたのに」と、詭弁を弄するのか。

流れの中で、ずるずると、戦争に向かう道の加担役にはならないでほしい。
今の公明党は、まったく必要がない。
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人数をそろえましょう

2015年03月15日 20時11分12秒 | 教育を考える
通知表の季節だ。
みなさん追い込み、お疲れ様。
前回の言葉と同じように、これもよく言われる言葉。
均等に分けたはずだから、通知表の評定に、クラスごとにアンバランスになるはずがない。
主観!を排して、より公正にしていきましょう。
そんな軽い気持ちなのだろう。

もともと通知表に、幻想を抱くほうがどうかなと、私は思っている。
いい加減にやっているという意味ではない。
そもそも厳格な評定など、現在の学校では土台無理な話だと言っているのだ。

たとえば、「ことばのきまりを正しく習得し、新しい漢字の読み書きができる」という項目があるとする。
ある子は、「お母さんわ」「けしごむおもらいました」と書く。しかし漢字は、書き取りは満点に近い。
さて、これをどう評定にむすびつけるか。さらに、その子は、宿題の漢字の練習ノートをほとんど提出していない。
頭が混乱するほどの計算式でも作るほかない。
結果オーライにするのか。提出物は加味するのか。授業中の態度はどうするか。漢字を80%にし、文法を20%にして
考えれば万全なのか。
こんなことを、緻密に議論していたら、通知表などできるわけがない。

「理科の学習に対して、興味・関心を持ち意欲的に学習する」といった「態度」の項目もしかり、教員がつまらない授業を
したときは、みな軒並み下がるものであるから、この項目について、子どもだけを評価することは、なんとも心苦しい。
まして子どもの「内面」などわかるはずもなく、活発に発言する子、提出物を真面目に出している子が、高い評定をいただくことになる。
しかし、これもよくよく考えれば、それが「興味・関心」と言えるのか、私にはよく分からない。

人数をそろえるよりも前に、「基準をしっかり揃える」ことが必要条件だ。
しかし、それはこの超過密・多忙の学校現場では、叶えられることはない。
そこそこ「じゃ、漢字は9割できていたら・・・言葉のきまりは、あまり極端に間違っていなければ、あえて評価には入れないで・・・」
といった、おおまかな妥協案で進むしかない。

さて、それが合意できているなら「人数調整」など無用だろうと思う。
あとは、担任の見ている範囲でのものだから、多くなるときも、少なくなるときもあり、そんな大雑把なスタンスでは、保護者は
不満、不安なのだろうか。

とにかく通知表は、担任のオリジナル作品である。
そう考えてるけどなあ。
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これでは差がつきませんねえ

2015年03月15日 15時12分34秒 | 教育を考える
私の軽蔑する教師の言葉の中で、ベスト10にも入ろうか。
あ~、それ軽蔑してしまいますよ。
と私は吠えてしまうのですが。
テストを作って検討すると、必ずこう言う同僚がいる。必ず。
目当てにそった問題なら、みんなができたら万々歳じゃないの?
差をつけるために、あなたは存在してるの?
そうなら、あなたは道を誤ったよ。
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校長の肩書と資質

2015年03月08日 16時28分21秒 | 教訓
最近、校内の大事な案件について、「これは私が責任を持って決めます」と言い、その決定をなんら理由も示さずに私たちに投げ込む校長が増えてきた。
一応、都の試験をパスして、その資質を認められたはずの校長群なのだが、残念なことに、そうではない人材が多数現場に送り出されているという現実である。
来年度の人事のこと、研究指定校を受けることなどを中心にして、校長のリーダーシップは、その肩書を生かして存分に発揮されている。
人望があれば、資質に一目置かれるならば、「まあ、しかたない。そんなに言うなら」と、渋々黙認する職場ではあるが、そうでない校長となるとそうは簡単にはいかない。ひどい学校では、朝と退勤時間帯以外、職員室にだれもいない状態が日常的なところもある。私もそんな学校にいたことがあるが、無味乾燥を絵にかいたような職場だった。
しかし、さらに残念なことに、そんな学校にも校長の味方は必ずいるもので、副校長はもとより、教務主任やら生活指導主任やら研究主任やら、いずれは管理職をと、望んでいる職員が、表に立っては「私が校長に言ってやったよ」と恩着せがましく、裏では「校長のお悩み、お察しします」と媚びへつらう日参を怠らない。
新人は1年たっても、会議では黙りこくったままだし、私のような年配は、使えてもやっかいもの。
こんなベクトルの合力が、いまの学校の力なのだ。
話を戻そう。
理路整然と理由を指し示して、自分の決定を話せる校長はいないものか。
かつて、一人だけ私は、そんな校長に出会えた。
もう20年近く前のことだ。
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教育論議すらできない学校の堕落

2015年03月07日 20時47分27秒 | 教育を考える
 ふつうの感覚なら、「~を愛する」「~に敬意を表する」かどうかは、まったくもって個人の信条にかかわるものである。日の丸、君が代を愛するかどうかは、個々の判断にまかせるしかないものである。まして、それが「愛国心」につながるかどうかについても、個々の判定を尊重するしかないものだ。
 私は、この歌や旗については、なんの感慨をもつことはなく、むしろ「侵略のシンボルだという、薄汚れた手垢のついた」ものだと考えている。そしてまた、これは新しい日本のシンボルとして、これからの日本の未来には必要なのだいう意見も、渋々とは言え、認める立場でもある。
 教育の現場に持ち込むかどうかについては、「棚上げ」しませんかと思う。
 それが次善の方法ではないだろうか。
 結果的には、現象面では、「反対派」の主張する「持ち込まない」ことになるが、意味合いはまったくちがう。

 残念なことに、私の異動した学校では、話題にも議題にもならないで、旗と歌は、堂々と会場に設置されている。教育としてどうかの論議もないことは、学校の、教員の堕落であろう。若いものは、都教委の通達すら知らないものもいることだろう。


「卒業式のシーズンがきました。子どもたちが自らの成長を確かめ合い、新しい旅立ちへと決意を新たにするときです。その門出をみんなで祝う式にしたいものです。子どもの思いを台無しに「日の丸・君が代」への起立・斉唱の異常な強制によって、子どもたちの思いが押しつぶされ、教職員が監視され萎縮するような事態が、各地で起きています。

 卒業生と在校生、保護者、教職員が向き合い、壇上には卒業生の作品が飾られる。そんな卒業式が、東京都では教育委員会の2003年の通達で認められなくなりました。壇上には「日の丸」を掲げ、全員がそちらを向かなければならないというのです。
異常な強制は他の地方にも広がりました。大阪府では府教委が13年に、校長らが卒業生をそっちのけにして、教職員が「君が代」を歌っているか口元を確認するよう通知しています。北海道では道教委が、「君が代」を「他の歌と同様」の大声で歌うよう子どもたちに指導しろと校長らに命じています。いったい何のため、誰のための式なのでしょうか。

 「日の丸・君が代」については多様な意見がありますが、それらが侵略戦争に突き進んだ日本のシンボルであったことは歴史的事実です。起立したくない、歌いたくないという教職員や子どもは当然います。宗教上の理由で「君が代」は歌えないという人、日本の侵略を受けたアジア諸国出身の人もいます。政府は1999年の国旗・国歌法制定時に「強制はしない」としていました。「日の丸・君が代」の歴史やそれに対するさまざまな思いを考えると重要なことです。だから03年以前は、式の前に「君が代」斉唱について、「内心の自由がある」ので強制ではないことを子どもや保護者に説明する学校がありました。ところが都教委はこれも禁止してしまいました。

 「君が代」斉唱のさいに起立せず処分された東京都の教職員が起こした裁判では、12年1月の最高裁判決以来、減給・停職の処分は重すぎるとして、取り消す判断が続いています。これらの判決は、強制を「合憲」とし、戒告処分を容認しているという問題はありますが、起立しなかったのはそれぞれの「歴史観・世界観」によるものだということを認め、自らの信念に従って誠実に行動する教職員を重い処分で追い詰めるやり方に、一定の歯止めをかけています。
ところが都教委は、裁判で減給などの処分を取り消された教職員に対して、改めて戒告処分を出して、執拗(しつよう)に強制を続ける姿勢をとり続けています。その執念深さは尋常ではありません。都教委は一連の裁判の結果を真摯(しんし)に受け止めるべきです。

教育に自由な雰囲気を
教育は人間的ふれあいを通じて営まれるべきもので、自由な雰囲気が欠かせません。そのかけがえのない自由を奪うことは許されません。卒業式や入学式は、それぞれの学校で子ども・保護者・教職員が話し合って、子どもたちの新たな出発にふさわしいものにすることが本来のあり方です。
憲法や子どもの権利条約が保障する思想・良心の自由、表現の自由、信教の自由を侵し、子どもたちのための式を台無しにする強制は、直ちにやめるべきです。」(赤旗)
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中1男子殺害事件 たくさんの視点で

2015年03月01日 23時05分57秒 | 教育を考える
まだ捜査中で、軽々しくはコメントはできないが、不可解なこと、また解明させたいことは山ほどある。

①痣まで作った彼を、両親は、まわりの大人は、なにをしたのか。気付かないはずはないと思えるのに。
②学校の対応はどうだったのか。情報は入っていなかったのか。
③友人が18歳の少年宅に訴えに行ったときに、警察に通報されて、警官が訪問したのだが、なにも感じることはなかったのか。
④18歳の少年は、もと「いじめられっ子」だとの情報もある。典型的な転化だが、そこを掘り下げて検討したい。
⑤グループはどのようにして作られ、どういった活動をしていたか。結束のもとはなんなのか。どんな「掟」があったのか。

痛ましい、そして繰り返してはならない事件である。
とくに学校教育との関連では、他人事ではない。
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「残りの人生で、今日がいちばん若い日」盛田隆二

2015年03月01日 23時00分49秒 | こんな本を読みました
佐川光晴と並んで、彼の作風は誠実そのものである。
だから、自分が少し「堕落したかな」と思ったときには、最高の特効薬となる。
今回もしかり。
冴美という女性の描き方には、少し違和感があるが・・・
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