観たいと思っていた「トランボ」が、池袋の新文芸座で封切りされていたので、先週に行ってきた。
マッカーシズムの時代。
国民を巻き込んだ赤狩りの時代。
映画界の脚本家、俳優など、「ハリウッド・テン」と呼ばれる「最注意人物」の中の1人であるトランボの苦難、苦悩、闘志の物語。
まず、このような内容自体が、アメリカにおいて「商業ベース」の乗ることの驚きだ。
国民の懐の深さ、大きさなのだろう。人権に対しては、日本よりもずっとずっとはるか先を行っているなと感じる。
日本でも、レッドバージを背景にした映画は、独立プロなどでは制作はされているが、メジャーではない。
人権感覚、民主主義の思想、その体現という意味では、日本は後進国だから。
「ローマの休日」にまつわる話は聞いてはいたが、映像になって改めて見ると、それがいかに困難を伴ってのことかよく分かる。
トランボの生き様は、並みのものではなく、私からすれば、スーバーヒーローとしての存在である。
不屈、といってしまえば一言で済んでしまうが、時代の重苦しさや周囲の圧力を思うと、筋を曲げないで生きていくことはまず「不可能」に近い。
「私がディズニーランドに行かないわけ」の記事にも書いたが、そういう点ではディズニーは、時代の波に抗することはできなかった人物である。
彼は「ノンポリ」に近いとの評論もあるが、自ら「チクリ」をしたことは、その言葉以上に浅はかな人間性を感じる。
時代が時代だけにしかたなかったという意見もあるだろう。今の感覚で、当時の行動を断罪するなという考えもあるだろう。
その時代、ディズニーは、もちろん自分が、後世にどう評価されるなどとは考えてはいなかっただろう。
「今」を必死に生き抜くことしか考えてはいなかっただろう。
今、私たちがやるべきことは、その時代の制約の中で、彼の行ったことが、現時点の私たちの「知恵」から見て、どこが進歩だったのかを発見し、どこが課題であったのかを「評価」することだと思う。
それなしに歴史の進歩はないし、人類の進歩もないと思えるから。
ディズニーも、トランボも、私たちにとっては「貴重な教材」なのである。
重い心で、しかし充実した気持ちで、劇場を出ることができた。
歓楽街に放り出された私に、痛いくらいの寒風が襲いかかってきたが、それすら心地よいものに思えた。
マッカーシズムの時代。
国民を巻き込んだ赤狩りの時代。
映画界の脚本家、俳優など、「ハリウッド・テン」と呼ばれる「最注意人物」の中の1人であるトランボの苦難、苦悩、闘志の物語。
まず、このような内容自体が、アメリカにおいて「商業ベース」の乗ることの驚きだ。
国民の懐の深さ、大きさなのだろう。人権に対しては、日本よりもずっとずっとはるか先を行っているなと感じる。
日本でも、レッドバージを背景にした映画は、独立プロなどでは制作はされているが、メジャーではない。
人権感覚、民主主義の思想、その体現という意味では、日本は後進国だから。
「ローマの休日」にまつわる話は聞いてはいたが、映像になって改めて見ると、それがいかに困難を伴ってのことかよく分かる。
トランボの生き様は、並みのものではなく、私からすれば、スーバーヒーローとしての存在である。
不屈、といってしまえば一言で済んでしまうが、時代の重苦しさや周囲の圧力を思うと、筋を曲げないで生きていくことはまず「不可能」に近い。
「私がディズニーランドに行かないわけ」の記事にも書いたが、そういう点ではディズニーは、時代の波に抗することはできなかった人物である。
彼は「ノンポリ」に近いとの評論もあるが、自ら「チクリ」をしたことは、その言葉以上に浅はかな人間性を感じる。
時代が時代だけにしかたなかったという意見もあるだろう。今の感覚で、当時の行動を断罪するなという考えもあるだろう。
その時代、ディズニーは、もちろん自分が、後世にどう評価されるなどとは考えてはいなかっただろう。
「今」を必死に生き抜くことしか考えてはいなかっただろう。
今、私たちがやるべきことは、その時代の制約の中で、彼の行ったことが、現時点の私たちの「知恵」から見て、どこが進歩だったのかを発見し、どこが課題であったのかを「評価」することだと思う。
それなしに歴史の進歩はないし、人類の進歩もないと思えるから。
ディズニーも、トランボも、私たちにとっては「貴重な教材」なのである。
重い心で、しかし充実した気持ちで、劇場を出ることができた。
歓楽街に放り出された私に、痛いくらいの寒風が襲いかかってきたが、それすら心地よいものに思えた。