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やはり・・・道徳教科書の検定

2017年03月25日 10時31分58秒 | 道徳教育 人権教育
 「「しょうぼうだんのおじさん」という題材で、登場人物のパン屋の「おじさん」とタイトルを「おじいさん」に変え、挿絵も高齢の男性風に(東京書籍、小4)▽「にちようびのさんぽみち」という教材で登場する「パン屋」を「和菓子屋」に(同、小1)▽「大すき、わたしたちの町」と題して町を探検する話題で、アスレチックの遊具で遊ぶ公園を、和楽器を売る店に差し替え(学研教育みらい、小1)――。」(朝日デジタル)

 軽いジャブ。
 いずれは、もっとがんじがらめになっていくだろうと予感させる象徴的な検定だ。

 愛国心など徳目を「誘導させる」ための訂正要求。

 こうやって国は、国策に従順な「臣民」を作っていくのだ。

 
 

 
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道徳の教科化で何が変わるのか

2013年02月16日 08時12分46秒 | 道徳教育 人権教育
「教育改革を話し合う政府の有識者組織「教育再生実行会議」(座長・鎌田薫早稲田大総長)は15日、第2回会合を首相官邸で開き、いじめや体罰対策を審議した。子供の規範意識を高めることでいじめを防ごうと、道徳の正式教科への格上げを提唱する方針で一致した。」(日経)

第1次安倍政権の教育再生会議でも提案され、「道徳」から「徳育」へ名称変更し、成績評価の対象とする内容だったが、文部科学省内などに反発が強く、実現しなかった経緯がある。

道徳の学習自体に疑問を感じている私にとっては、「教科」として位置づけることで、ますます子どもへの「心の支配」が強まることしか思いつかない。権力者にとっては都合のよいことだろうが、「主権者」として「国の未来を作っていく」資質を養うこととは、明らかに逆行する考えだ。
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道徳 頑張れ頑張れの大合唱

2013年01月23日 23時26分47秒 | 道徳教育 人権教育
校内研究で、今年度最後の道徳の授業がありました。
参観しながら、「ああ、また同じ光景か」
そんな哀しい思いで見ていました。

資料は、九九の七の段をなかなか覚えられない子ども。
何回練習しても、うまくいかない。
お母さんに愚痴ると、「10回がだめなら50回、それでもだめなら100回」と鼓舞激励。
あきらめないで練習を続けた結果、やっと七の段を言うことができ、みんなの賞賛に涙するというもの。

要するに「もっと頑張れ」「あきらめるな」が、指導者の言わんとするところなのでしょう。

純粋無垢な子ども達は、最後に、「鉄棒をがんばって練習してできるようになって、嬉しかった」「ピアノの発表会の練習をあきらめないで
頑張ったので、いい発表ができた」など、自分のこれまでを振り返って発言します。

私はひねくれているのでしょうか。
こんな資料を読んでいくと、虚しくなってきます。

もちろん「がんばること」「粘り強く努力すること」は、尊いものに違いありません。
しかし、このような授業を、小学校の6年間で、手を変え品を変え、教え込まれたら、子ども達の心は、どのようになっていくのか。
つまり、「できない子」は、「ぼくの努力が足りないのだ」と思い込んでいってしまうのではないか。
いったんあきらめて、別のものに力を注ぐこと。
そんなことは許されないのでしょうか。
努力よりも、「やり方」を少し工夫することでできることもあるものだ。
そんなこともあることでしょう。

努力もいいが、努力しないで会得したいという本音も、私にはあるのですが。

不登校が話題になった際に、「がんばれの声かけは、かえって子どもを追い詰めることになるのではないのか」ということが、よく言われました。
これは、道徳の世界とは縁のないことなのでしょうか。

道徳の設置自体、懐疑的な私ですが、それでも「わくわくするような資料」があれば・・・と、あちこちにそれを求めてきました。
しかし、残念ながら、皆無といってよいほど、見つかりません。

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道徳教育 人権教育を考える

2012年05月21日 09時16分27秒 | 道徳教育 人権教育
新しいカテゴリーで、道徳教育、人権教育について考えていきたい。
このカテゴリーをおこした契機には、二つある。

①今年度の校内研究が道徳になったことと、市の委嘱として人権教育推進委員となったこと。やるからには、少しでも自分なりの知識、見識を持ち合わせていきたいと思ったこと。
 人権推進の最初の会合で、担当指導主事から、いきなり、このメンバーから、12月、1月に公開授業を行ってほしいと依頼された。年に五回しか集まらず、どう責任をもって、授業を行えばいいのだろう。市の教科研究会、校内研究会、経験年数による年次研、管理職に見せる授業観察など、網の目のように、私たちは「授業」を迫られている。市教委は、私たちの教育条件を整備することが本務だと思うのに、まったく反対の提案を次々と行ってくるのだ。しかたなく、私が世話人になり、この提案については次回の持ち越しにしてもらった。
 「あっ、都から出ている冊子に掲載されている実践例を、そのままやればいいことですから」「そんなに重く考えなくていいですから」そんな問題ではないだろう。指導案は、目の前にいる子供たちの実態に合わせて作成しなければならない創造的なものである。しかも、下書きをすれば、市に、講師に事前に提出し、「手直し」を何度もされることは必至である。事前にメンバーとの意見交換も必要だろう。テーマ自体重いのに、いくらなんでも、これでは、丸投げ同然ではないのか。
 委員を受けたからには、内容をじゅうぶんに吟味して授業に臨みたい。そんな願いもむなしくなる提案である。

 勤務時間内では、とうてい終わらない私たちの仕事を、市教委は、どう考えているのだろうか。
 そうした一方で、個々に道徳、人権について、あらためて考えを深めていきたい。(書いていて、そういえば私たちの人権はどうなっているのだろうと、素朴な疑問がわいてきた)

 
②道徳については、教員になったときから、推奨される指導内容、指導方法について違和感があったこと。さかのぼって、私の受けた道徳の授業について、驚くほど記憶に残っていないこと。(ただひとつの思い出は、中学生のときに、道徳の授業で、私の書いた授業の感想が、担任から「べた褒め」され、それがもとで、しばらく私は同級生から「いい子ぶりやがって」的ないじめを受けたことぐらいである。当時「優等生」だった私は、本音ではなく「こんな感じで書けば、担任も満足してくれるにちがいない」と思って書いたのである)
かつて三鷹で、道徳の研究発表をしている小学校の研究発表を見に行ったことがある。
 高学年では、研究主任の教員が、「手品師」の授業を行っていた。
 内容は次回に書くことにするが、この授業は、担任の「一方的な価値の押し付け」と、児童の「担任思いの意見・感想」の合体した「すばらしい」授業であった。
 アンケートに、私は「この授業は、児童が思考停止に陥っている」「指導の方法・方向が、子供たちに見抜かれていて、担任の思いに寄り添った感想を、子供たちは本音とは別の次元で書いているにすぎない」と書いた。
 後日、その教員から「反論」のお手紙をもらい、何度かやり取りをするのだが、こんな授業を推進している限りは、子供たちの本来の道徳性など育つはずはないと感じた。

 この一年間。私の考えるテーマである。
 
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