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道徳 これで子どもに何を教えるのか

2020年04月17日 22時52分09秒 | 道徳教育 人権教育
「身の程に振る舞う」若者を再生産させる道徳授業
 0 長い「はじめに」
 「特別」の教科となって、初めて道徳の授業を見た。教科化されるとの情報を知らされ、世間でも、また職場でも批判の大きかったこの変化の後、さて授業そのものはどのように変わったのだろうか、また授業者はどのような苦労をしているのかと思い巡らせ、興味深く会場校へと向かった。
 研究授業は、小学校5年。「きまりの意味――規則の尊重」がテーマとされている。担任は20代後半の男性教員。教員となって5,6年といったところか。ようやく学校の勤務や児童・保護者との関わりなどで、自分なりの位置がはっきりとしてくるころである。
 この地区では、教科書に、光村図書「きみがいちばんひかるとき」が採択され使用されている。その5年生版の中の、「お客様」が今回の教材だ。

 心おどる音楽が流れ、わたしたちの家族は、ショーが始まるときを待っている。
 わたしは、両親にたのみこんでやっとの思いでこの遊園地へ連れてきてもらった。わたしが大好きなキャラクターが出演するショーがもうすぐ始まる。わたしは夢中で両親にキャラクターの話をし、ビデオカメラを用意して待った。
 しばらくすると、ステージの前は混み始めた。どんどん人がやってきて、人と人の頭の間からのぞきこむか、背伸のびをするかでないとステージを見ることができなくなってきた。わたしたちの後ろにも、たくさんの人たちがショーの始まりを待っている。花壇のフェンスや木に登って待つ人も出てきた。係の人がやってきて、
 「危ないですから、花壇のフェンスや木に登らないでください。」
と、注意している。それから、
 「ショーの間は、お子さんを肩車したり、ビデオやカメラを頭より上に持ち上げたりしないようにしてください。」
と何回も大きな声で呼びかけている。
 周りの人たちは、
 「そんなこと言ったって、これじゃあ、よく見えないし、写真もとれないぞ。」
と、不満げだ。
 わたしも注意ばかりする係の人をこころよく思っていなかった。
 いよいよ、ショーの始まりだ。ところが、しばらくするとわたしたちの前に立っていた男の人が子どもを肩車し始めた。その子どものお母かあさんらしき人が、
 「やめなさいよ。さっき、注意があったでしょう。」
と、ばつが悪そうに言った。おかげでわたしはショーがまったく見えなくなってしまった。そこに、係の人がかけよってきた。
「お客様、肩車はおやめください。」
そのお父とうさんらしき男の人は、「えっ、でも……、うちの子がよく見えないんですよ。」
と、答えた。
 「危ないですし、後ろのお客様のご迷惑にもなりますので……。」
そう言われても、男の人は肩車から子どもを降ろそうとする気配はなかった。さらに、注意が続く。
 「お客様。肩車はご遠慮いただいております。すぐに降ろしてください。」
係の人の言葉で、ようやく肩車から子どもを降ろした。
しかし、男の人はむっとした顔で係の人に言った。
 「納得できないものを、勝手にいろいろおしつけるのはおかしいんじゃないですか。わたしたちはお金をはらって入場しているんです。お客様なんですよ。」
わたしが、その人の顔をびっくりして見たとき、
 「そうだ、そうだ。」
と、男の人に同調する声が出始めた。ショーは楽しい音楽に合わせて続いている。それなのに、わたしたちの周りは、いやな空気がただよっている。係の人は、少し赤い顔になって、
 「申しわけございません。ご協力ありがとうございました。」
と頭を下げた。
 (何か、変だ。)
と、わたしが思ったときだった。注意を聞かずに、こっそりステージの反対側にある木に登ってショーを見ていた人が、木から落ちたらしい。木の下には人だかりができて、さわぎになっていた。係の人は、急いでその木の方に走っていった。
 そのさわぎがおさまったころに、ショーも終わった。多くの人は「楽しかったね。」と笑顔で帰りじたくをしている。でもわたしは気持ちが晴れないまま、その会場を後にした。
 わたしはショーが始まる前の係の人の注意や、自分たちの周りで起こったことをもう一度考えていた。


この文章は、文科省で作成した「小学校道徳 読み物資料集」からの引用である。光村の方は、母親がたしなめる場面や、木に登っている客が落下するといった場面は、削除されているが、本筋は基本的に同じである。
 光村図書のホームページによると、この教材のねらいは「遊園地でショーを見るとき,きまりを守らず自分の都合を優先し,係の人に文句を言っている人を見たことで,気持ちが晴れない「わたし」の姿を通して,きまりは何のためにあるのか考えさせ,みんなで互いの権利を尊重し合い,必要なきまりを進んで守ろうとする実践意欲と態度を育てる。」とされる。

1.授業の概略
 授業の展開をすべて網羅することが本筋ではないので、特徴的なものだけを列挙する。
 ①「きまりと聞いて、どんなものを思い出しますか。」の発問から授業が始まる。それに対して「廊下を走らない。」「お年寄りに席をゆずる。」「盗撮しない。」などの意見が出される。
 ②係の人と、子どもを肩車した客とでは、どちらの意見に近いですか。」として、自分の名前の書かれたマグネットプレートを、黒板に書かれた数直線の下に貼らせる。(線分の右端には<係の人>、左端には<お客>と書かれている。)その結果は、左に誰も貼るものはなく、真ん中が数人、圧倒的に右に貼られていた。
 ③真ん中に貼った子に理由を聞く。「お客さんが見えなくなって、肩車をするのは分からないでもないから。」「ちょっとかわいそう。」という意見が出された。一方、右に貼った子の理由としては、「きまりを守れないのだから、注意して当然。」「お客は自分勝手だと思う。」「きまりがあるのを知っているのに、それを破るのは間違っている。」「肩車は、みんなのめいわくになるのだから。」と、活発に意見が出される。
 ④指導案には、「きまりは、理由があったら守らなくていいか」という補助発問をする予定が書かれていたかが、これは使われることはなかった。(指導案の「指導上の留意点」には、「きまりは、どんな理由があっても、守らなければいけないことを気づかせるだけでなく、きまりを守ることで、安全だけでなく、家族の団欒、一人一人の幸せを守るなどのあたたかな側面があることにも気づかせるようにする。」とある。)すでに「きまりを守ることは当然のこと」という授業の方向性が確実になってしまっていたためだろう。
 ⑤真ん中に貼った子の意見を、再び採り上げることはなく、したがって、何も「論争」が起きることもなく、授業は終了する。子どもたちの書いた「ふりかえりノート」の感想も、そのほとんどが「きまりは大切」「守れないのは自分のことだけを考えているから」「しっかりきまりを守れる人になりたい。」と、ステレオタイプのものばかりになっていた。
 ⑥最後の担任の「説話」は、家族の危篤の知らせを聞いて、スピードを出して車を運転し、人を轢き殺してしまった事件について話し、さらに「どんなときでもきまりを守らないといけない」ことを補強した。
 ⑦授業後の協議会では、導入の仕方の是非、マグネットによる個々の意見の視覚化についての是非、板書の是非など、「技術的な面」のみの話し合いとなり、教材そのものの分析については皆無であった。
 ⑧講師として出席された大学教授も、教材の検討については特に言及することはなく、「ねらいとする道徳的価値について、学習指導要領に基づき、明確な考えをもつことが大切」と、ノウハウ的な側面での講評しか述べることはなかった。教材についての授業者の立場の不公平性について述べたのは私だけであったが、「予想では、もっと子どもの意見がばらつくと思っていたのですが」と、結果的には、子どもたちのほとんどが「係の人」に寄ったことに満足しているかのような発言をした。
 以上が、この研究授業のあらましである。以下、私の考えを述べる。

2.授業者の授業は、「きまり絶対」の立場から始まっている
 授業者には「きまりは、みんなの安全や幸福を守るためにあり、絶対守るべきものである」という、堅い信念があるようだ。いや、授業者は、あれこれと「お客様」の指導案を集めて見ているうちに、そのほとんどが「きまり絶対」の内容であることを知り、その時点で思考停止に陥ったと思える。(後述するが、この教材文を普通に読んでも、あきらかにおかしな点が多々あるからして、気づかないはずはないと思えるからである)
 私も、インターネットで「お客様」の指導案を検索して閲覧してみた。すると、やはり意図的な「ねらい達成」のための伏線や発問ばかり目立つものばかりであった。
 例えば、こんな具合である。

 ※野球場で通路に座って観戦している人の写真、きちんと座って見ている写真を提示し、前者には、「きまりがあるのに、どうして守れないのかしら」との質問に、イラストの子どもたちが、口々に「○自分のことしか考えていないから。 ○欲だけで行動しているから。」と答えているものまで提示する計画がされている。(www.ypec.ed.jp/syoukai/doutoku/rei/s5/s5-2.pdf)
 ※気づかせることについて、「男の人が係の人に客としての権利を主張した場面で,男の人の言動を変だと思った「わたし」が実は男の人と同じ自分中心の考えをしていたことに気付かせる。」とている。(www.kumagera.ne.jp/center/plan/plan.../s.../dotoku_1.pdf)
 ※「私は、何が変だとおもったのでしょうか」では、予想される(「期待される」というべきか)意見として、「・係の人が正しいことを言っているのに、悪い方向・間違った方向に進んでいること。 ・係の人は何も悪くないのに、頭を下げて謝ったこと。 ・注意を無視して周りの人に迷惑をかけているのに、「お客様なんですよ。」と言っていること。」が挙げられていて、すでにお客は「自分勝手の悪い者」といった扱いである。
 (www.fuku-c.ed.jp/schoolhp/zelprinc/.../h26/h26doutoku.pdf)

 「道徳的価値について教える立場の教師であるからには、当たり前の事ではないか。」と思われる方もいるにちがいないと思うので、私のこだわる理由を述べる。
 まず、第一に、この教材文について「教材としての価値を疑う」からである。授業を見る前に渡された指導案の最後のページに載っていた「お客様」の文章を一読して、すぐに「なんと誘導的で、品のない作品なのだ。」と思った。会場の「きまり」に抗議している客の描き方が、すでに「悪者」として扱われている。(教材文の下線の部分は、客=悪者の印象を強める効果が明白な表現である。)この文章を読んだ子どもたちが、「いや、客のほうが正しい」と言えるのか。「お金をはらって入場している」と客に言わせることによって、「金さえ払えば何を言っても、何をしてもいいと思い込む、薄汚い輩」という印象を与えさせるように、読んだ子どもを意図的に、ある方向の考え、思いに誘導する品性の欠いた教材だ。

 第二に、ここで出されている「きまり」について、誤った扱いをしているからである。
ここで出されている「きまり」とは、主催者側による一方的な「お願い」ではないのか。
きまりがきまりとして誰もが納得して機能するためには、その意図することが現実と合致していると、構成される人たちに認証されていることが必要条件である。
 では、この教材の描く「世界」ではどうか。「ステージの前は混み始めた。どんどん人がやってきて、人と人の頭の間からのぞきこむか、背伸のびをするかでないとステージを見ることができなくなってきた。わたしたちの後ろにも、たくさんの人たちがショーの始まりを待っている。花壇のフェンスや木に登って待つ人も出てきた。」という状況なのである。
つまり、この「花壇のフェンスや木に登らない」「ショーの間は、お子さんを肩車したり、ビデオやカメラを頭より上に持ち上げたりしない」というきまりは、会場の設営の段階の時点で、すでに破綻している(どだい無理な)ものなのである。
 代金をみな平等に払っているからこそ、できるだけ同じような「快適さ」で鑑賞させるのは、主催者の義務ではないのか。それを見通すことができなかった主催者に主たる責任があるのではないのか。
 現実に合わない「きまり」を杓子定規に「守らせる」ことの欺瞞性こそ、この教材文の根本的な問題なのではないのか。
 きまりを守らなければ、「みんなの迷惑となる」とあるが、客はその「みんな」に入らないのか。きまりを守ろうと、我が子を林立する人の間に座らせ、見えないショーの音だけを聞かせることは、美徳なのか。
 このような考えは、授業のはじめから、授業後の「大人の話し合い」まで、話し合われることはなかった。

 (註)同じ根を持つ「私たちの道徳」の「やくそくやきまりをまもって」に対する批判は、そのままこの教材にも当てはまるだろう。
「第1の問題は、それが絶対的で疑問をはさむ余地のないものと考えられていることです。人間が共同体を営むとき、何らかのきまりを決め、成員がそれを守らなければならないのは当然のことです。しかし「きまり」は相対的なもので、おかしな「きまり」は変えていかねばならないはずですが、「私たちの道徳」にはそうした観点がありません。
 第2の問題は、子どもたち(国民)が「きまり」を与えられ、それを守るだけの存在としていることです。国民が主権者として「きまり」を作り、国に守らせる存在であることが説明されていません。主権在民を定めた日本国憲法に違反しているといわざるをえません。」(「こんな道徳教育では国際社会から孤立するだけ」半沢英一著 合同出版)

3.学習指導要領に戻って
 学習指導要領の道徳編では、きまりについて次のように記されている。

「(10)約束やきまりを守り,みんなが使う物を大切にすること。」(1,2年)
「(11) 約束や社会のきまりの意義を理解し,それらを守ること。」(3,4年)
「(12) 法やきまりの意義を理解した上で進んでそれらを守り,自他の権利を大切にし,義務を果たすこと。」(5,6年)
「(10) 法やきまりの意義を理解し,それらを進んで守るとともに,そのよりよい在り方について考え,自他の権利を大切にし,義務を果たして,規律ある安定した社会の実現に努めること。」(中学)

 これらの表現からも分かるように、「きまり」は、すでに絶対的なものとして存在し、それを遵守することこそ望ましいと考えられていることは明白である。
 このような発想では、「きまり」がどんな理不尽なものであろうと、また現実に合わないものであろうと、それを破る者は「自分勝手」「権利ばかり主張する者」として批判されることは目に見えている。
 今回の授業も、まさにこうした「きまり=絶対」の発想からのものであり、それを変えていくという発想は生まれることはない。そして、この発想こそ、今、子どもたちの身につけさせたい「主権者教育」「シチズンシップ」に他ならないだろう。
 このような「受け身」の授業を受け続けていくと、どんな大人になっていくのであろうか。これからの日本の国を「よりよく」作りかえていけるのだろうかと、憂鬱になってくる。

 
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<シンポジウム|「特別の教科 道徳」の現場では>に参加して

2019年02月16日 20時36分37秒 | 道徳教育 人権教育
 道徳が教科化されて、現場はどのようになっているのか、それは私の学校だけではないはずだ、と考えての参加。
 南池袋ミーティングルームに入ると、やはり馴染んだ雰囲気を感じる。
 みなさん、年齢層が高いのが残念だけれども、気持ちは私同様「青年」なのだろう。

 大田区の現状を村石さんが報告。
 モラロジー、倫理研究会(これは私もたびたび記事にしている、資本寄りの「自己犠牲」「何事にも感謝」を主張し、労使の対立など目隠ししてしまう主張を繰り返す、偽善団体)との関係が深いとされる大田区の教育行政の様子は、そんな理不尽な関係のない私の市でもまったく同じことが起きていることを知りました。
 ☆若い教員の「淡々とすすめている」といった現象。自らは思考停止、子どもには集団催眠のような「感動」の押しつけ。
 ☆「多様な意見を」と言いながら、最終的には、特定の価値観に収斂されるように誘導するようにしていること。
 ☆自主教材や、その時々の学級の課題を差し込むことが困難になってきていること。つまり「年間指導計画」に基づいた画一的なものになってきていること。
 ☆通知表の中に「評価」「所見」として記述が強制されていること。それも巧妙な表記で。
 
 やむなく途中で退席せざるを得なかったが、まだこんなにも「闘っている」人の存在に納得(こんなバカげた道徳の教科化など愚の骨頂と考えるのは当然なのに、なぜうちの職場では声があがらないのかと思っていたので)して、帰路につく。

 最後までいたかったが。
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やはり・・・道徳教科書の検定

2017年03月25日 10時31分58秒 | 道徳教育 人権教育
 「「しょうぼうだんのおじさん」という題材で、登場人物のパン屋の「おじさん」とタイトルを「おじいさん」に変え、挿絵も高齢の男性風に(東京書籍、小4)▽「にちようびのさんぽみち」という教材で登場する「パン屋」を「和菓子屋」に(同、小1)▽「大すき、わたしたちの町」と題して町を探検する話題で、アスレチックの遊具で遊ぶ公園を、和楽器を売る店に差し替え(学研教育みらい、小1)――。」(朝日デジタル)

 軽いジャブ。
 いずれは、もっとがんじがらめになっていくだろうと予感させる象徴的な検定だ。

 愛国心など徳目を「誘導させる」ための訂正要求。

 こうやって国は、国策に従順な「臣民」を作っていくのだ。

 
 

 
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道徳の教科化で何が変わるのか

2013年02月16日 08時12分46秒 | 道徳教育 人権教育
「教育改革を話し合う政府の有識者組織「教育再生実行会議」(座長・鎌田薫早稲田大総長)は15日、第2回会合を首相官邸で開き、いじめや体罰対策を審議した。子供の規範意識を高めることでいじめを防ごうと、道徳の正式教科への格上げを提唱する方針で一致した。」(日経)

第1次安倍政権の教育再生会議でも提案され、「道徳」から「徳育」へ名称変更し、成績評価の対象とする内容だったが、文部科学省内などに反発が強く、実現しなかった経緯がある。

道徳の学習自体に疑問を感じている私にとっては、「教科」として位置づけることで、ますます子どもへの「心の支配」が強まることしか思いつかない。権力者にとっては都合のよいことだろうが、「主権者」として「国の未来を作っていく」資質を養うこととは、明らかに逆行する考えだ。
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道徳 頑張れ頑張れの大合唱

2013年01月23日 23時26分47秒 | 道徳教育 人権教育
校内研究で、今年度最後の道徳の授業がありました。
参観しながら、「ああ、また同じ光景か」
そんな哀しい思いで見ていました。

資料は、九九の七の段をなかなか覚えられない子ども。
何回練習しても、うまくいかない。
お母さんに愚痴ると、「10回がだめなら50回、それでもだめなら100回」と鼓舞激励。
あきらめないで練習を続けた結果、やっと七の段を言うことができ、みんなの賞賛に涙するというもの。

要するに「もっと頑張れ」「あきらめるな」が、指導者の言わんとするところなのでしょう。

純粋無垢な子ども達は、最後に、「鉄棒をがんばって練習してできるようになって、嬉しかった」「ピアノの発表会の練習をあきらめないで
頑張ったので、いい発表ができた」など、自分のこれまでを振り返って発言します。

私はひねくれているのでしょうか。
こんな資料を読んでいくと、虚しくなってきます。

もちろん「がんばること」「粘り強く努力すること」は、尊いものに違いありません。
しかし、このような授業を、小学校の6年間で、手を変え品を変え、教え込まれたら、子ども達の心は、どのようになっていくのか。
つまり、「できない子」は、「ぼくの努力が足りないのだ」と思い込んでいってしまうのではないか。
いったんあきらめて、別のものに力を注ぐこと。
そんなことは許されないのでしょうか。
努力よりも、「やり方」を少し工夫することでできることもあるものだ。
そんなこともあることでしょう。

努力もいいが、努力しないで会得したいという本音も、私にはあるのですが。

不登校が話題になった際に、「がんばれの声かけは、かえって子どもを追い詰めることになるのではないのか」ということが、よく言われました。
これは、道徳の世界とは縁のないことなのでしょうか。

道徳の設置自体、懐疑的な私ですが、それでも「わくわくするような資料」があれば・・・と、あちこちにそれを求めてきました。
しかし、残念ながら、皆無といってよいほど、見つかりません。

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道徳教育 人権教育を考える

2012年05月21日 09時16分27秒 | 道徳教育 人権教育
新しいカテゴリーで、道徳教育、人権教育について考えていきたい。
このカテゴリーをおこした契機には、二つある。

①今年度の校内研究が道徳になったことと、市の委嘱として人権教育推進委員となったこと。やるからには、少しでも自分なりの知識、見識を持ち合わせていきたいと思ったこと。
 人権推進の最初の会合で、担当指導主事から、いきなり、このメンバーから、12月、1月に公開授業を行ってほしいと依頼された。年に五回しか集まらず、どう責任をもって、授業を行えばいいのだろう。市の教科研究会、校内研究会、経験年数による年次研、管理職に見せる授業観察など、網の目のように、私たちは「授業」を迫られている。市教委は、私たちの教育条件を整備することが本務だと思うのに、まったく反対の提案を次々と行ってくるのだ。しかたなく、私が世話人になり、この提案については次回の持ち越しにしてもらった。
 「あっ、都から出ている冊子に掲載されている実践例を、そのままやればいいことですから」「そんなに重く考えなくていいですから」そんな問題ではないだろう。指導案は、目の前にいる子供たちの実態に合わせて作成しなければならない創造的なものである。しかも、下書きをすれば、市に、講師に事前に提出し、「手直し」を何度もされることは必至である。事前にメンバーとの意見交換も必要だろう。テーマ自体重いのに、いくらなんでも、これでは、丸投げ同然ではないのか。
 委員を受けたからには、内容をじゅうぶんに吟味して授業に臨みたい。そんな願いもむなしくなる提案である。

 勤務時間内では、とうてい終わらない私たちの仕事を、市教委は、どう考えているのだろうか。
 そうした一方で、個々に道徳、人権について、あらためて考えを深めていきたい。(書いていて、そういえば私たちの人権はどうなっているのだろうと、素朴な疑問がわいてきた)

 
②道徳については、教員になったときから、推奨される指導内容、指導方法について違和感があったこと。さかのぼって、私の受けた道徳の授業について、驚くほど記憶に残っていないこと。(ただひとつの思い出は、中学生のときに、道徳の授業で、私の書いた授業の感想が、担任から「べた褒め」され、それがもとで、しばらく私は同級生から「いい子ぶりやがって」的ないじめを受けたことぐらいである。当時「優等生」だった私は、本音ではなく「こんな感じで書けば、担任も満足してくれるにちがいない」と思って書いたのである)
かつて三鷹で、道徳の研究発表をしている小学校の研究発表を見に行ったことがある。
 高学年では、研究主任の教員が、「手品師」の授業を行っていた。
 内容は次回に書くことにするが、この授業は、担任の「一方的な価値の押し付け」と、児童の「担任思いの意見・感想」の合体した「すばらしい」授業であった。
 アンケートに、私は「この授業は、児童が思考停止に陥っている」「指導の方法・方向が、子供たちに見抜かれていて、担任の思いに寄り添った感想を、子供たちは本音とは別の次元で書いているにすぎない」と書いた。
 後日、その教員から「反論」のお手紙をもらい、何度かやり取りをするのだが、こんな授業を推進している限りは、子供たちの本来の道徳性など育つはずはないと感じた。

 この一年間。私の考えるテーマである。
 
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