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息苦しい世の中で 自由に語り合える空間を

自由でも民主でもない この日本を もっともっとよりよく変えていくことができるように たくさんの知恵を語りましょう。

コロナ対策も働き改革もこれではねえ

2020年09月29日 06時47分34秒 | 教育を考える
通勤時の混雑を避ける時差勤務を申請しようと、10月の予定表を見たらびっくり。隙間なく16時20分から会議が埋め尽くされている。簡単な打ち合わせの夕刻会も、「いないと学校運営に支障がある」として、その日の時差勤務を認められなかったので、10月は時差はほとんどとれないことになる。
私は朝しか元気になれないため、また混雑を避けるために、いつも7時前には出勤している。つまり、時差勤務を認められないでいると、それだけで月に20時間以上のオーバーワークとなる。もちろん自宅での「持ち帰り残業」は含まれない。
それでいて、教務からは「ノー残業デー」なるものが、平気で下ろされてくる。学校を出ても仕事は減るわけではないのに。
コロナも残業も、口先だけの対策。「どうせ誰も異議を申し立てないだろう」と、思われているなら情けない。
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主権者ではなく臣民を作る学校に成り下がった

2020年09月11日 06時35分02秒 | 教育を考える
明日の世界の創造者を育てるはずの学校が、権利にとり都合の良い臣民を製造する機関に成り下がっているとしか思えなくなっている。もちろん、昔から権力は、そうしたい願望があることは、分かってはいたが、今は、オブラートに包まれたように「甘い束縛」に飼い慣らされてしまっている。
議論はさせない、忙殺される毎日、生き甲斐は自分を守るだけに収斂されていく。そんな狭い生き甲斐を持つしかない「師」に教わる子どもたちが学ぶものは、「権利は我儘」であり、せいぜい「上手く生きていけよ」のビジネス書ばりの処世術。
日本の凋落は、学校の、教師の堕落が一因であることは疑いない。
「みなさん仲良しで、いい学校ですね」「チーム一丸となって、素敵な学校になりました」という欺瞞も、寒々しく感じている教師が、どれほど残っているか。
泣きたいほど堕落した学校に、毎日笑顔で通い続ける辛さ。
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ブラック 隙間のない担任

2020年09月10日 06時28分43秒 | 教育を考える
今日は六時間授業。
授業はもちろん、その合間に、宿題のチェック、トラブルがあれば聞き取り、分掌の細々の処理などをしなくてはならない。
よく40年も勤めあげたなと、自画自賛(笑)
ブラックの学校は、果てしなく続く。
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バーンアウトなのかなあ

2020年09月04日 22時11分41秒 | 教育を考える
9月に入り、急速にやる気が失せてしまう。
この学校は3月までとは決めていたにも関わらず、まだ半年も残っている勤務が、これまでのテンションで維持できるか自信がなくなってしまった。
けっして体力の問題でなく、気力。
10年いた学校だが、何も魅力を感じないものに思える。
自分の落ち度にならないように、服務を至上とし、ことあるごとに職員をチェックする管理職。着任して2年もたつのに、まだ一言も仕事以外で話しかけてこない校長。私が4日も休んでいるのに、何も働きかけをしない校長。前回書いた、「都合の悪い意見は抹殺して」憚らない校風。物言わぬ職員。意見があれば、「主任を通せ」「主幹に言え」とする閉塞した職場。
「意見交換の場ではない」という職員会議。

都教委が、この20年で「巨悪の集団」になってしまった成果が、まさにうちの学校で完成されつつある。

そんな歴史的経過を知らない若い教員は、今のあり方が当たり前として、何も考えないで、管理職、主幹、指導、主任、平の縦社会を疑うこともしない。
良心的な教員は、依るべき組合にも結集せず、または個人で闘いながら、疲弊し、諦めていく。または教職を辞める道を選ぶ。

かすかな私のモチベーションは、その歴史的経過をまとめること。
どのようにして、東京の教育が、こんなに堕落してしまったかを、まとめること。

都教委の堕落は、今の中国にも匹敵するほど、支離滅裂な論理や、「でっち上げ」による策謀などを積み重ねたものだ。

それをていねいに解き明かしていきたい。

細々とした、残された気力で。
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地に落ちた学校にとどまって

2020年09月03日 00時13分05秒 | 教育を考える
明日で3日続けての休みをとる。
9月に入り、秋の気配が感じられた時期での夏バテ。普通に働いても、マスクによる酸欠は、如何ともし難い体力の消耗を呼び込む。
ただ、今回の休みは、それに加えた「失望感」からもある。
先日の職員会議。
例の如く「質問、意見交換は許されない」会議だ。
その中で、3月の卒業式についての反省まとめの発表があった。
予想通りと言えば、その通りなのだが、各学年から出された書き込み一覧表があり、次に引き継ぐもの、変更させるものが最後にまとめられている。
「予想通り」は、その一覧表に、私の書いたものが、きれいさっぱり消えていたことだ。
どこかにコピーして保存、保管しておけばよかったと思ったが、後の祭り。
私の書いたものは、
①コロナ禍にあっても、都や市からの卒業式に関して、日の丸、君が代は、なにがなんでも式に据えようとする「異常さ」があった。
②それだけ「珍重」されている式の内容は、「異常」と言うしかない。
③本来、学校行事は、各学校で、創意工夫をして作り上げるもので、儀式的行事とは言え、最終的には学校の教育課程に含まれる、学校作成の課題でもある。
④そのような異常さを招いているのが、強制力をもって、学校に影響を及ぼしている、平成15年10月23日の、都からの通達である。それを知っている職員は、多くはない現状である。
⑤したがって、これからの式の実施計画には、巻末資料として、この通達も添付したらどうか。

このような趣旨で書き込みをしたのだが。どの段階で消えたのか、いや消されたのか。
職員会議では、消されたこともあり、誰も気づかないままで進行する。
さらに、その担当の説明には、消えたことも、その理由も言及なし。

力が抜けてしまった。
管理職には、いやな文面であることは分かるが、そんな意見を「抹殺」する権利など、彼らにはあるのか。
わが校は、ここ数年で、「意見は主任を通せ」「個人的な意見なら管理職に直接言え」「会議は議論する場ではない」という雰囲気が醸成されてきている。
主幹は管理職の下請け。主任は、平のお目付け役。平は、「いつかは主任になって」と、体育会ばりの臥薪嘗胆。
重苦しい職場になってしまった。

力が抜けた。
いや、ここで踏ん張らずにどうする?
考えて、考えて、疲弊、消耗。仕事も読書も、ライフワークも、なにも手につかず。

いや、下を向いてはいけないな。
負け犬ではない、非は私ではない。
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理不尽な「愛国心強要」に勧告

2020年08月13日 07時48分13秒 | 教育を考える
ILOとユネスコは昨年春に日本政府に「愛国的な式典に関する規則に関して教員団体と対話する機会を設ける」ことなどを内容とする勧告を出した。卒業式・入学式での「日の丸・君が代」の強制によって教職員の思想・良心の自由が侵されている問題を、「アイム89東京教育労働者組合」が、ILO・ユネスコの合同委員会に申し立てたことを受けてのもの。

 勧告は「起立や斉唱を静かに拒否することは…教員の権利に含まれる」とのべ、教員団体との対話は、起立・斉唱したくない教員にも対応できる合意をつくることや起立・斉唱しなかった教員への懲戒処分を避けることを目的とするよう求めている。
「勧告は、下記の6項目で、日本政府および教育委員会に対して是正を求めている。

(a)愛国的な式典に関する規則に関して教員団体と対話する機会を設ける。その目的はそのような式典に関する教員の義務について合意することであり、規則は国旗掲揚や国歌斉唱に参加したくない教員にも対応できるものとする。
(b)消極的で混乱をもたらさない不服従の行為に対する懲罰を避ける目的で、懲戒のしくみについて教員団体と対話する機会を設ける。
(c)懲戒審査機関に教員の立場にある者をかかわらせることを検討する。
(d)現職教員研修は、教員の専門的発達を目的とし、懲戒や懲罰の道具として利用しないよう、方針や実践を見直し改める。
(e)障がいを持った子どもや教員、および障がいを持った子どもと関わる者のニーズに照らし、愛国的式典に関する要件を見直す。
(f)上記勧告に関する諸努力についてそのつどセアートに通知すること。

勧告は(a)~(c)において「国旗掲揚や国歌斉唱に参加したくない教員」の立場に慮り、「懲罰を避ける」ために教員団体と対話せよと言う。「国旗掲揚、国歌斉唱時における強制はやめよ。平穏な不起立に対する懲戒処分は避けよ。」という主旨である。

(a)は国際人権基準における「市民的不服従」を教育労働者に適用したもので重要だ。教師が市民としての権利とともに、その専門性を十全に発揮できる地位と環境が保障されてこそ、子どもたちの学びと成長が実現して行く。子どもたちもまた生涯にわたって市民的不服従が保障されるべきことは同じだ。

(e)に障がいを持つ子どもや教員のニーズに留意を促した意義も大きい。式典が障がい者にも画一的な強制力を及ぼす弊害を受けとめたものと言えよう。

アイムの渡辺厚子氏のレポートによれば、勧告をふまえて9月にアイムと文科省とで交渉を持ったところ、文科省は以下のように回答したという。
①(勧告を)日本語訳はしない。
②関係の地方自治体にのみ英語のまま勧告を伝える。いつとは言えない。
③セアートは日本の国内法を理解せず勧告を出した。例えば懲戒処分については地方公務員法上教職員団体とは話し合えない。
④地方公共団体へ出すべき勧告を日本政府にむけて出している。地方公共団体で対応してもらいたい。」(雑誌「法と民主主義」より)

まだ文科省は後ろ向きで旧態依然の姿勢を変えてはいないが、たとえこれが針穴ほどの小さなものだとしても、こじ開ける糸口にはなりうるだろう。
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東京都も最悪教科書不採択

2020年08月13日 06時37分12秒 | 教育を考える
20年近くにわたり使用し続けてきた「新しい歴史教科書をつくる会」系の教科書は、今年は不採択になった。これまで採択されていた特別支援学校、中高一貫校、すべてで不採択である。
過半数の得票で決定するのだが、その結果には、育鵬社や日本教科書の票もちらほら現れて予断を許さないものだった。
しかし、この採択のための会議が「討議抜きの無記名投票」となっている点は、納得いかないし、危惧すべきだろう。「発言は他の委員の投票に影響を及ぼすから」という理由には呆れてしまう。意見を出し合い、個々の考えをよりよく変えていくことが、「会議」本来のあり方ではないのか。
そんな「教育委員会」が、何の質問もなく開催されていること自体、東京の教育のレベルの低さを象徴しているのだろう。
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名古屋市も不採択

2020年08月09日 08時15分58秒 | 教育を考える
七日、名古屋市教育委員会の定例会で、育鵬社の教科書が、歴史、公民ともに不採択になった。
市長が民主主義を我流に解釈している自治体だから心配していたが、まあなんとか採択されずにすんだ。月末の会では育鵬社を推す委員もいたようだが、その後意見を変えたらしい。
めでたしめでたし、と楽観してはいられないが、まずは市民運動の成果だと言える。
過去の負にも目を背けず、謙虚に学び、反省をし、教訓を絞りだし、未来を構想する社会科であってほしい。
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コロナ禍で改めて分かったPTAの存在意義

2020年08月07日 03時31分13秒 | 教育を考える
みなさんの学校のPTAは今、なにをしているのだろうか。
私の学校では、年度末から休校になったために、役員の改選をあわただしくオンラインで行い、さらに新年度になり、その結果のお知らせのプリント、さらに「今年度の職員の紹介」として、のどかに顔写真つき、よろしくメッセージつきの広報誌を配布しただけ。
まったく問題意識の欠けた活動を行っているとしか思えない体たらくである。
このコロナ禍で、たくさんの問題が生じている学校現場に、PTAは何もアクションを起こしていない現実。
PTAの役割、存在意義とはなんなのだろうか。
学校再開まで、孤立して家に待機していた子どもたちの実情はどうなのか。再開後、40人近い密の学級が、はたして安全、安心と言えるのか。85%習得すればいいとされた学習の進度ははたして適切な措置なのか。休校中での学習が格差を生み出しているが、それはどう是正させるのか。オンラインでの活用を推進させると市の方針が出されているが、中学3年生優先として、小学校のタブレットがほとんど「拠出」されたままの状態でどう対処したらよいのか。在宅により健康を維持できなくなった子ども、肥満の体になった子どもがいるが、家庭の課題も含め、どう考えたらいいのか。
きりのないくらい問題、課題が浮き上がる。
このようなときに、PTAはなにを考え、なにをなすべきなのか。
PTAは、本来独立した任意団体である。学校の賛助団体、下請け団体ではない。
「子どもがよりよい学校生活を送ることができる」ために、いっさいのしがらみから解放されて、考え活動するべき団体である。
ぎゅう詰めの学級があるなら、「子どもの命に関わる最重要課題」だとして学校に行政に、要請すべきだろう。タブレットがまったくないのなら、都で知事が約束しているにもかかわらず反古していると抗議すべきだろう。この半年の異常な事態で、子どもが家庭が被った数々の問題点を、たんねんに調べ、課題を明らかにすべきだろう。

なんのためにPTAはあるのか?
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教科書をめぐる攻防

2020年08月04日 06時34分13秒 | 教育を考える
事実からも教育的価値からも、最も遠いところに位置する育鵬社の中学歴史、公民の教科書が、神奈川、藤沢市で不採択になった。
当たり前の結果なのだが、それが通らないねじ曲がった現実だったのだ。
今日は横浜市の採択が決定される。
油断大敵。
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全生研への無知か歪曲 速やかに訂正を

2020年07月23日 18時50分01秒 | 教育を考える
私は現在、全生研(全国生活指導研究協議会)の会員ではないが、ネットで読んだ記事で、あまりにもひどい内容のものがあったので、会員の方は
厳重な抗議と訂正・謝罪を求めていただきたく、ここに紹介します。

ツーブロックの禁止が、都内の高校で広がっていることが新聞で報道されていたため、それに関してネットで情報を集めていたときのことです。
<スピン経済の歩き方:「新人は白シャツ」「ツーブロック禁止」 会社や学校で、“謎ルール”が存在している事情 >と題する記事が目に留まりました。
なかなか内容としては面白く、校則に関して歴史的に調べ、多角的に考察されていると思えた。しかし、後半の段になり、戦後、管理的な教育がはびこってきた背景として、次のような気になる記述が目に付いた。以下、引用。

「1963年、神宮第二球場に、都内の小学生たちが参加した「スポーツの日」というイベントがあった。それを視察した瀬尾弘吉文部大臣は思わず、「だらしないな……」とつぶやいた。行進がグダグダだったのだ。取材をした新聞記者も同じ感想を抱いたようで、こんな感じで子どもたちをディスっている。「校庭に集まるのも三々五々。なにをやらしてもダラダラ、バラバラ、戦後の子供に集団性と規律がないというのは定評のあるところだ」(読売新聞 1963年7月1日)当たり前だが、60年代の日本を支えたおじさんたちはほぼ例外なく、戦前教育を受けている。それはつまり、鬼畜米英が来たら槍(やり)をついて戦えというバリバリの軍隊教育を叩き込まれた世代である。そういうおじさんたちからすれば、ピシッと行進もできない子どもは、「ロクでもない大人予備軍」に見えてしまったのだ。
かくして、日本社会の中に「秩序を乱す問題児」が増えることを危惧したおじさんたちが立ち上がる。「集団主義教育」の普及を目的とした「全国生活指導研究協議会」が、東大教授の宮坂哲文氏を中心として結成されたのである。当初は200~300人程度だったこの会は瞬く間に会員を伸ばし、63年には2000人にのぼった。
そしてほどなくして、「気をつけ」「前ならえ」が学校教育で復活する。戦後生まれの子どもたちにとっては「謎ルール」以外の何者でもないが、おじさんたちは「これで子どもたちの未来も安泰だ」と大満足だった。これが世代を繰り返すうちに「ルールに従う教育」として定着、現在に至るというわけだ。
つまり、日本の教育というのは、おじさんたちが「自分が従っていた理不尽な謎ルールを下の世代にも強要する」ことを繰り返して成り立っているのだ。」(https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2007/21/news042_5.html)

 これでは、全生研は、現在の「管理教育」の先兵として発足し、校則強化の推進役を担ってきたと思われることだろうと思います。
 私の記憶では、まったく逆ではないのか。管理教育に対する批判勢力として研究会が設立されたはずである。若かった私は、そのような趣旨で会員になったのだから。
 曲解の是正を求める。また是正を求めるアクションを。
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主権者の意識が欠如した教員が管理職になると

2020年07月19日 06時02分14秒 | 教育を考える
よりよい社会を創りあげていく大人を育てていくことが教師の仕事だと思って、40年も仕事を続けてきた。
言われたことにただ従い、「良い子」になるのではなく、「なぜそれをするのが必要なのか」「それが本当に正しいものなのか」を考え考え、ときには立ち止まり、反抗することも大事なことだとも話してきた。
そしてそれが「口先」でない、「私自身」の課題でもあると考え、組合活動も含め、十分とは言えないまでも、社会に向けて声を挙げる努力をしてきたつもりである。

先週の職員研修で、主幹が服務について講師を務め、職員会議について説明をした。職員会議は、意見を述べる場所ではない、挙手は行わない、これは「ずっと前から決められたもので、守っていくのは私たちに課せられている」と。
話す彼の顔を見ながら、それを黙々と聞いている職員を見ながら、「ああ、学校という組織は、もうこんなところまで堕落してしまっているのだ」と悲しくなる。すでに個人的に職場新聞を発行し、職員会議は、ここ20年で大きく変質させられていることを知らせていたので、これを読んでくれた先生からは、私に向けて、「あ、またひどい研修をしてますね」「また服務、うんざりです」といった「アイコンタクト」を送られてきます。
「服務しか話さない管理職」になり、一年と少し。「服務を守ることはみなさんを守ることです」と毎回真顔で話すが、本当に彼は守ってくれるのか。毎月の服務チェック表の提出の指示は、もちろん服務違反を未然に防ぐためだろうが、もし職員から違反者が出た場合に、「私はこれだけ指導してきた」と弁解し責任逃れをするためのものにちがいないと勘ぐってしまう。先月のチェック表で、「職員室のパソコンを退勤時に電源を切る」で△=ときどき忘れる、と書いたが、提出しても何もコメントも声かけもない。出せば終わり、「指導してますよ」のパフォーマンスにしか過ぎないのだろう。
私のクラスは、校内一の過密学級である。毎日マスクをしたまま授業をすると昼までに体力がガクンと落ちる。毎日「強い倦怠感」と健康チェックの返信を繰り返している。帰宅したら、とにかく食べて寝る、その毎日だ。子どもたちは1mのスタンスも確保できない。日々の実践で都や市から出されている「ガイドライン」は完全に私の学年は破綻している状況である。ここ何日かは300人に迫る都の感染者の発生から、いつ私の学年から感染者が出てもなんら不思議ではない。そうなれば、私はおそらくいちばんバカをみるだろう。高齢、喫煙、肺炎の既往症など、志村けんとあまりにも似た人体構造であるから。しかし、こんな学年、学級、個人的危惧について、校長から、何も言葉をもらったことがない。驚くべき鉄製管理職。
「ま、密にはなりますが、予算からして、しかたないのです。」「くれぐれも気をつけて」と全体には話すが。
ここではじめの記述に戻る。管理職が本当に私たちを守る気持ち、気概があるのならば、密を作り出す国や都や市の教育行政に対して、なんらかのアクションを起こして当然ではないのか。
彼はなぜ怒らないのか。あなたは主権者として、考えを周囲に、「お上」に、なぜもの申さないのか。あなたはこれまで、子どもたちに、「ま、理不尽なことには、我慢が大事」と話続けてきたのか。そんな青臭い(私はフツーだと思うが)ことを考え、嘆いてしまう。
そんなことを考えたら、管理職にはなれないのだろうし、また「考えることすらできない」者もいるに違いない。
自分の頭で教材を分析することなく、指導書に頼り、板書の参考書を真似、ネットで指導案を盗み見し、テレビ画面に画像を出して授業をすれば、なんとなく「体裁が整う授業ができた」と考える風潮。私の周りでは、教材の分析に着目した授業が皆無に近い。「なにを身につけさせる授業か」「そのためにこの教材はふさわしいか」自分で、まず教材を自分で学習してみる。いま、誰もやっていないことだろう。
だらだら書いてしまった。
それほどたまっていたものがあるのだろう。

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管理職の度量、資質に関して

2020年06月13日 22時11分06秒 | 教育を考える
コロナに纏わる学校現場の話題から。組合の仲間に出したメールです。

○○さん、ありがとうございました。
昨日、副校長と話し合い、6月も時差勤務が継続されていることを確認しました。通知を2週間も職員に告げることなく、「ひた隠し」していることも指摘して、改めて遅い「告知」を今日の夕刻会で説明していただくことも約束しました。
さて、今日のことです。たまたま私が日直で司会でしたので、約束を反古しそうな副校長に、「あ、時差のこともお願いします」と、強引に話すように促しました。
「あ、それはあとで個別に」と逃げようとしましたので、「これは個別の問題ではないですから、みなさんにお願いします」として、やっと説明に及びました。
内容は、「時差勤務は6月も継続するという通知でした」止まり。
まあ不十分ながらも、みなさんにようやく話をした次第です。
ただ、問題がそれで解決したわけでなく、①通知を職員に伝えなかった、これまでの、無駄にした2週間分に対する謝罪の言葉がいっさいないこと。②今週の時差勤務を申請したところ、申請は前の週に出さないと受理でしないとしたこと。管理職が告知せず、私が近隣の学校や○○さん、さらには市の教職員課に確認して、ようやく継続が分かったのが今週はじめです。なにか本末転倒な不受理であること。③前週申請の要件ならば今日が来週の締め切りであるにもかかわらず、報告の約束から逃げようとしたこと。④時差勤務は「学校運営に支障のない場合」が条件だが、校長判断として、「夕刻会」のある日も、時差をとることは支障ありとしたこと。これにより、私は来週から月末の時差勤務の申請は五回しかないこと。
など、問題点だらけです。①から④は、また来週、諦めないで追及します。
⑤については、夕刻会出席必須は、校長判断として仕方ないのか、解せません。他校は、こんな厳しい条件なのでしょうか。

もうひとつ聞いてください。
朝の健康調査のメールです。私も含めて職員の数人が、毎回、「倦怠感」「眩暈」「咳き込む」「朝、起きられない」と記入していますが、なんの声かけもされていません。私も、マスクで六時間授業をすると、酸欠状態になり、子どもたちの下校後はぐったりしてしまい、家に帰り、寝るしか防御するすべがなく、いつ倒れてもおかしくない毎日です。似たような職員もいるのですが、管理職の意識は職員の健康には全く向いていません。
来週は、それも含めて管理職と話すつもりでいます。
休業中に、たくさんのグループラインができたおかげで、私の異議申し立てを、かなりの数の先生が支持、応援してくれています。思わぬ恩恵です。
とはいえ、組合員が私一人だけしかいないのは辛いですね(笑)
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虚しい「ノー残業デー」

2019年11月04日 23時44分33秒 | 教育を考える
管理職から、「学年ごとに、ノー残業デーを決めてください」という提案がなされた。

みな虚しい笑いを浮かべて聞いている。
もう、みんなは知っている。
「早く帰ったところでどうするんだ」
「そんなこと言ったって」
と。

仕事の総量を減らさないことには、何も解決はしない。

私も、結局、「持ち帰り」が増えただけだ。

業務調査とやらが、市の調査で来た。
自宅持ち込みによる時間は記入しないとのこと。
これ、ペテンではないのか。

案の定、「ノー残業デーの実施で、総勤務時間は、1人平均で、なんと月に16時間も減りました」
との報告があった。
当たり前だ。
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特別支援 同調圧力 スタンダード

2019年09月08日 11時53分18秒 | 教育を考える
夏の研修で、講師にお礼状を書いた。その一端を。

「夏休み中のお忙しい中でのご講義、本当にありがとうございました。
時間が足りなく、質疑応答(これこそ大切なものなのに)、が能わず、先生には大変失礼だったなと、お詫びも兼ねて、ここで私なりの感謝と感想とを述べさせてください。

なにから書いてようのか、たくさんありすぎて迷っているのですが、ランダムに思いついたことを脈絡を度外視して書きます。

①特別支援のお考え。「ひとりひとり」の基本的なお考えにまったく同感です。自分としては「特別」支援という用語は、かなり違和感があり、正確には「個別支援」「個々対象の支援」といった風に考えてはいるのですが。どうも現場では、「特別」という言葉で、クラスの中での「特別な存在」「特殊な子」といった風の受け取られ方がいまだにあり、クラスの中の「ひとにぎりの」子に視点があてらけがちなところがあるからです。私のクラスは27人ですが、自作のカルテでは、すべての子に、なんらかの「援助」が必要なところがある。みな「特別なニーズ」を持っていると考えて学級経営をしています。もちろん、その中でも、緊急性があったり、程度の違いがあったり、優先順位をつけながら対処はなくてはならないこともあるのですが。

のっけから、いまくまとまらない感想ですね。すみません。

②「「みんな一律に同じラインを求められる」こと、「子どもを<普通>にしない」こと、この記述に、これまで思ってきたこと、悩みながらも教師を続けてきたことと重ね合わせて、思わず「その通り」と声を上げそうになりました。(笑)現場は、ほとんどの行動様式で、「同調性」が求められます。(教員にも)
たしかに、子どもたちが一斉に同じ行動をとると、「見栄えがいい」「親の評価が高い」と言われます。これについても、ずっと違和感を持ちつつも、「折り合い」をつけながら抵抗してきたことでもあります。
今、現場は、この特別支援の考え方が学校に浸透してきているのと、軌を一にして、「同調圧力」も強化されているといった矛盾した「坩堝」のようなものとなっています、
その背景となっているものは、ここ何年かで急速に、自治体、学校に広がりつつある、「スタンダード」です。親に対して、子どもに対して、「これがふつうです」「こうすれば力が伸びます」「みんなこんなルールを守りましょう」といった、指標が生活・学習を問わず提示され、点検されるようになってきていることです。
昔から、その兆候はあるにはありました。「靴箱の靴は、後ろ向きにして、きちんとそろえましょう」とか「早寝早起き、朝ご飯」などです。最近では、「ノーテレビ、ノーゲームの日をお家で設定して、結果と感想を書いて学校に提出すること」「いきいきキッズ大作戦ーーお家で生活リズムの点検を」といったものもあります。ここ何年かで、それが「丸ごと」セットとなって、親に、子どもに課せられてくるようになってきています。新宿区の教育委員会では、生活リズムの「模範」「崩れている層」を示して、その家庭の子が「学力調査」では、「こんなに差がつきますよ」といったパンフレットを作った事例もあります。

③そして、その「スタンダード」は、教員にも広がってきている昨今です。板橋区では。「指導のスタンダード」を教員に課しています。「授業のはじめには、必ずめあてを板書して子どもに説明する」「途中で、必ず一人で考える時間を確保する」など、何項目もの「約束」があるようです。授業の展開は、この学習内容によって、それこそ「創造」されるべきものなのに、です。
私の学校にも「はいたつです」という「決まり」があります。「はい」と、大きな返事をする。自席からきちんと立ち上がる。語尾に「です」をつけるという約束です。それを完璧に実施している教員は少ないのですが、やはり「同調」こそ美徳といった圧力を感じざるを得ません。

講義を受けて、「ラブレターを書きます」と公言した以上、書かなくては・・・と思いつつ、ここまで怠けてしまいました。

本当は、もっともっとお話ししたいことが山のようなのですが、長文による迷惑もありますので、いったん、ここでタイピングを止めます。先生のプレゼンの資料をファイルに収めて、いつもカバンの中に潜めては、時折眺めています。

一方的な感想となっていますが、それも先生に触発されてのもの。どうかお許しください。

ご活躍をお祈りしています。

また機会がありましたら、お話を伺わせてください。」




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