息苦しい世の中で 自由に語り合える空間を

自由でも民主でもない この日本を もっともっとよりよく変えていくことができるように たくさんの知恵を語りましょう。

「雪ぐ人 冤罪弁護士 今村核の挑戦」

2021年05月29日 21時31分54秒 | こんな本を読みました
佐々木健一 著
新潮文庫
有罪率99.9%と言われる我が国の刑事裁判で、冤罪事件を14件もかち取ってきた今村弁護士のノンフィクション。国民救援会、自由法曹団など、懐かしい組織も出てくる。
やはり私たちもプロでなければならないのだと思う。
妥協してはならないのだ。
一人一人の子どもと対する場のシナリオを作り上げる準備が後回しになっている、現在の学校に妥協してはならないのだ。
ああせい、こうせい、それはやってはならないと、上から押し付けてくる、あらゆる命令や「大きなお世話」を、改めて検討し、批判し、議論の俎上に載せなければならないのだ。
と、勇気を得た本だ。
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やはりブラック

2021年05月16日 12時57分06秒 | 教育を考える
異動した学校でこんな実験をしてみた。
朝は6時半に出勤して、学年や授業の準備をして、ゆとりをもって子どもを迎える。放課後は、会議がないなら仕事をし、休憩時間はしっかりとる。定時になったら、退勤時刻の30分以内には必ず帰る。
しかし、これでは数日で破綻するのは明白。帰宅後は、教材研究、学級通信だけは頑張ってやる。
在宅も含めると、学校では1ヶ月で30~40時間、在宅でもやはり同じくらいの超過勤務である。過労死ラインすれすれだ。

さて、これを実験してから1ヶ月が過ぎた。
結論は、やはりこれでも「やり残し」がかなり出てきた。
連絡網の作成。クラスの顔写真のまとめ。面談資料の残り。時数計算。出席簿の先月分等々。したかなく、今日、「帳尻合わせ」に学校へ。
たかだか二時間もあればできるのだが、普段は集中してはできない。仕事をしていると、「あ、ちょっといいですか」「これはどうしたら」という話が横から差し込まれるからだ。
やはり、ブラック。
一刻の猶予もないのに。
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目が悪いと高くつく

2021年05月10日 00時00分22秒 | 教訓
白内障の手術から1ヶ月半が過ぎ、今日の検査で、新しいメガネ、コンタクトレンズがつけられるようになった。やれやれだ。
悪かった左目が、右目を逆転。これからは左目がご主人様となって生活することになる。矯正すると、左目が1、2にまで見える。これまではいくら矯正しても0、5くらい。右目、乱視があるためにこれまで通り、0、8見えるか見えないか。
これからは主従関係を反転させ、左目に頑張ってもらおう。右目、お疲れ様。
コンタクトレンズ、新しく1ヶ月分購入。約一万。メガネ、フレーム二万。レンズ三万。あわせて六万。
いやはや目が悪いと高くつくものだ。
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テレサ・テン あれから26年

2021年05月07日 23時40分16秒 | わたしごと
亡くなってから、もう26年になるのか。
5月8日。
情報、報道が錯綜した、あの日。
結局、死亡は確実。死因も喘息による~ということが、ほぼ確実となった。
私が大学時代に、錦糸町の喫茶店で初めて聴いた「空港」から、半世紀近くになるのだ。
楽屋を訪ねて初めて会えた日のこと。お忍びで、私のバイト先のバーに来てくれたこと。彼女の気まぐれとは言え、当時の私には夢のような短い日々の想い出だ。
ずっと彼女が熱望していた「自由で笑顔で暮らせる母国」は、いつやってくるのだろうか。

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篠田節子「田舎のポルシェ」

2021年05月05日 11時46分13秒 | こんな本を読みました
雑誌の記事を除いて、連休中に読了したのはこれだけ。
集中力がなくなったのだろう。傍らでテレビの音声があると、読めなくなった。若いときは、BGM流れる喫茶店が、一番集中できたのに。

三編の中編小説。登場人物が、それまで生きてきた重みをぶつけ、重ね、安堵する。どこにでもいそうな人物の登場であるからこそ、それがまた読み手にも返ってくる。
人は、ひとりひとり、この世にふたつとない道を歩いてきたこと。そのひとつひとつがかけがえのない宝なのだ。
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漂っているだけ?

2021年05月03日 22時24分56秒 | 教訓
午前中は、庭のバラの写真を取り続ける。例年より一週間も早く開花しているため、あと一週間もすればピークは超えてしまうかもしれない。そんな焦りから、100枚近くも撮り続ける。
 昼近くにようやく外出。憲法記念日にちなむ集会が予定されていたが、すべてオンラインのものとなった。あとからネットで、その様子は分かるであろうと、不遜ながらもライブは後回し。
 まず池袋に出て、腹ごしらえ。「スシロー」に入ると、驚くことに人でごった返している。スカスカの店内を予想して行ったのだが、まったく異なった風景。検温、アルコール消毒、アクリル板と、それなりに防御体制は整ってはいたが、それにしても人が多すぎる。早々に食べて退散。
 北口のVAPEショップに行き、「国内メーカー」「カートリッジ方式」「ニコチン、タールゼロ」の「タバコ代用品」について尋ねると、一品しか扱っていないと言う。「COOLBLACK」という商品名。コロナの影響で「試飲」はできないとのことで、えいとばかり買うしかない。メンソールのカートリッジとともに購入。4000円弱。店を出て、さっそく吸ってみる。強いメンソールの味は、なかなかのものだ。ただ、タバコのような、胸にキュッとするものがない。タバコの代用品となり、禁煙を決め込むところまで行き着くかは、なんとも言えない。アイコスも、プルームテクなど、一通りの電子タバコを試してみたが、それでもタバコは買い続けている。これが決定打になればいいが。意志が弱い自分が情けない。
 そのあとヤマダ電気で、変換器を見る。学校のパソコン事情が悪く、USB、HDMI、VGAをパソコンに繋いで変換するものが必要だと分かった。教室で子供と一緒に学ぶパソコンはchromebook、職員室はwindows、となにやら使い勝手が悪い。教室では、HDMIをつないでも音がでないらしい。それなりにあれこれつなぎ、うまく活用できるようになるまで、どれくらいかかるだろか。変換のハブを7000円で購入。
 今夜は、息子夫婦、孫とサンドウィッチをやろうと言われていたので、西武の地下、ガーデンで、パンに挟むものを物色。はちみつで煮詰め、原型をとどめているイチゴジャム。クリームチーズ。糖度7のトマト。合鴨のスモーク。生ハムなどなど。
 駅前で久しぶりに、「THE BIG ISSUE」の販売員さんと会う。元気そうでなにより。「駅前広場の喫煙スポット、閉鎖されてしまいましたねえ」と言うと、「みんなその前で吸ってますよ。」と言って励ましてくれた。私がそこで吸ったかどうかは内緒。
 連休中、唯一読んできた、朝井リョウの「正欲」を途中で投げ出す。嫌気がさしたわけではない。半分ほど読んではみたが、まだ複数の登場人物の関係性が見えてこないのだ。それぞれに興味深い展開が゛なされてはいるが、ちょっと疲れた。小休止である。代わりに、篠田節子「田舎のポルシェ」を読み始める。軽いから、という意味ではない。中編であること。登場人物が少ないこと。ただそれだけだ。それすら読了しきれないかもしれない、この連休。やろうと思っていたことは山程あったのに、である。

 あと2日。やれることを、地道に。
 
 
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ゴールデンウィーク前半も終わるが

2021年05月02日 21時17分42秒 | わたしごと
 倦怠感だけで過ぎてしまった前半。
 とにかく休養をとれればいい、とは思っても、やはり無為に過ごしている気持ちが
大きく、焦るばかり。
 地震もあった。雷雨もあった。コロナの感染者は、少しも減ることはない。
 我々の幾世代かの後に、もう生存できないような地球になってしまうのではないかと思ってしまう。

 「人類の危機」「種としての存亡の危機」であるはずの現在なのに、「国益」でしか動き出さない政治家と、それに追随する国民しか、私には見えてこない。
 いずれは、末期の、肥大した太陽に飲み込まれてしまう地球ではあろうが、もうその時には、ヒトの歴史の痕跡すらないのだろう。私利私欲に打ち克つことを忘れたための滅亡。科学を有効に活用できなかった、愚かな種。

 コロナによって、ヒトとヒトとの関係性が希薄になっている。
 ヒトはもともと「密」によって生き、成長し、文明を発展させてきたのだが、それがご法度となってしまった。「個」が、ただ散在しているだけの社会。情報は相互に素早く交換はできるものの、感情や「心のぬくもり」は伝えづらい。その希薄さが日常的になり、いつしか「ふれあい」は死語となっていくに違いない。
 極論だと思う。 思いたい。
 
 
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