もう何年も前のこと。
クラスの子から、最初に、
「先生、忘れ物をしたら、やっぱりおかわりはなしですか」
という質問を、こっそりされることが、何回かありました。
「え、宿題と給食とは、ぜんぜん別のことだから、私はそんなことはしないよ」
の言葉に、ホッとした様子。
どうも、前の担任は、おかわりは、宿題や持ち物を忘れなかった子だけに許可していたようです。
鉛筆、消しゴムなども、たとえ1個でも忘れたら、「処罰」の対象であったらしい。
うすうす感じてはいたのですが、どうも、「●●をしたら、▽▽させない」といった懲罰的な強権指導を、ずっと続けていたらしいのです。
しかも、怒るとなると、所かまわず徹底的に叱る(いや、とことんこきおろす)と言います。
別の時にも、放課後に忘れ物をして、教室にとりにきた、わがクラスの子が3人、彼女(あ、女性教師です。しかも私とほぼ同年配)に、つかまって、説教をうけていました。
「もともと忘れ物をしちゃあいけないの、知ってるでしょ!」
「先生が許せないのは、こんな暗いところで、わいわい楽しそうにおしゃべりしながらいることなんですよ。」
「なに考えてるのよお。こんなときは、楽しくしちゃいけないの!」
かけつけた私の前でも、こんこんと叫ぶように指導している。男子1,女子2の面々は、その迫力に目をうるませている。
「先生、じや、あとはここで引き継ぎます。ありがとうございました」
と、私の手元に。
「もういいから、そっと帰りなさい。警備員さんにお礼とあいさつをしていきなよ」
涙目のこどもたちは、ホッとして帰って行きました。
私の教室とちがい、とにかく、静粛な教室です。こどもたちも、てきぱき動きます。
しかも、それに対して、親の評判もなかなかいいのです。
つまり「結果を出す」ことについて、手段を選ばない指導。
その結果という実績があるから、親は「とにかく忘れ物を絶対にしないようになった」「静かに話を聞いている」「勉強に取り組む姿勢がすばらしい」と、高い評価をする。(または、言えない)
ああでもない、こうでもないと、なかなか「結果」を出せないでいる私たちからすれば、なんともうらやましい光景です。ああ、楽だろうなと思います。
しかし、それを真似しようとは、これまで微塵も思ったことはありません。
少しも「教育」とは言えないからです。
これは「調教」でしかありません。
「叱られるから」「こわいから」「おかわりできないから」実行するのは、少しも自立を促すものではなく、担任が替われば、元の木阿弥。
こんな教員が増えてきた。
教室を見た目で評価する管理職も悪い。
それを放置する行政も悪い。
結果だけを求める保護者も悪い。
それを許す同僚も悪い。
もちろん、教育者とはかけ離れた、権威・恐喝まがいの命令だけで子どもを動かしている本人も悪い。
怒りながらも、一歩踏み出せないでいる私も、もちろん悪い。
クラスの子から、最初に、
「先生、忘れ物をしたら、やっぱりおかわりはなしですか」
という質問を、こっそりされることが、何回かありました。
「え、宿題と給食とは、ぜんぜん別のことだから、私はそんなことはしないよ」
の言葉に、ホッとした様子。
どうも、前の担任は、おかわりは、宿題や持ち物を忘れなかった子だけに許可していたようです。
鉛筆、消しゴムなども、たとえ1個でも忘れたら、「処罰」の対象であったらしい。
うすうす感じてはいたのですが、どうも、「●●をしたら、▽▽させない」といった懲罰的な強権指導を、ずっと続けていたらしいのです。
しかも、怒るとなると、所かまわず徹底的に叱る(いや、とことんこきおろす)と言います。
別の時にも、放課後に忘れ物をして、教室にとりにきた、わがクラスの子が3人、彼女(あ、女性教師です。しかも私とほぼ同年配)に、つかまって、説教をうけていました。
「もともと忘れ物をしちゃあいけないの、知ってるでしょ!」
「先生が許せないのは、こんな暗いところで、わいわい楽しそうにおしゃべりしながらいることなんですよ。」
「なに考えてるのよお。こんなときは、楽しくしちゃいけないの!」
かけつけた私の前でも、こんこんと叫ぶように指導している。男子1,女子2の面々は、その迫力に目をうるませている。
「先生、じや、あとはここで引き継ぎます。ありがとうございました」
と、私の手元に。
「もういいから、そっと帰りなさい。警備員さんにお礼とあいさつをしていきなよ」
涙目のこどもたちは、ホッとして帰って行きました。
私の教室とちがい、とにかく、静粛な教室です。こどもたちも、てきぱき動きます。
しかも、それに対して、親の評判もなかなかいいのです。
つまり「結果を出す」ことについて、手段を選ばない指導。
その結果という実績があるから、親は「とにかく忘れ物を絶対にしないようになった」「静かに話を聞いている」「勉強に取り組む姿勢がすばらしい」と、高い評価をする。(または、言えない)
ああでもない、こうでもないと、なかなか「結果」を出せないでいる私たちからすれば、なんともうらやましい光景です。ああ、楽だろうなと思います。
しかし、それを真似しようとは、これまで微塵も思ったことはありません。
少しも「教育」とは言えないからです。
これは「調教」でしかありません。
「叱られるから」「こわいから」「おかわりできないから」実行するのは、少しも自立を促すものではなく、担任が替われば、元の木阿弥。
こんな教員が増えてきた。
教室を見た目で評価する管理職も悪い。
それを放置する行政も悪い。
結果だけを求める保護者も悪い。
それを許す同僚も悪い。
もちろん、教育者とはかけ離れた、権威・恐喝まがいの命令だけで子どもを動かしている本人も悪い。
怒りながらも、一歩踏み出せないでいる私も、もちろん悪い。