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息苦しい世の中で 自由に語り合える空間を

自由でも民主でもない この日本を もっともっとよりよく変えていくことができるように たくさんの知恵を語りましょう。

夏休みの補習に寄せて

2018年07月23日 21時05分41秒 | 教育を考える
 「うるさい子は呼ばないことにしたの」
 「そうよね、邪魔する子はいてほしくないし」
 「うるさいし、全然勉強しようとする気持ちがないものね。」

 そんな会話を聞いていて、暗澹たる思いになった。

 「あっ、この人たちは教師として失格だな」

 それでは、その「うるさい子」は、いったいどこで学習をしたらいいのだろうか。
 家で保護者の監視のもと、または1人きりでやればいいと思っているのか。

 職場でも、このような話がよくされることがある。

 「そういう子ほど、学ぶ楽しさを求めているのではないのかなあ。そして、大変ではあっても、そんな子をやる気にさせることこそ、
  私たちの仕事だと思うよ」

 そんな言葉を投げかけているのだが、それで改めようとする教師は半分くらいか。

 どうしようもない教師が増えている。
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40年やって これかよ!

2018年07月16日 19時59分15秒 | 教育を考える
 通知表作成やらなにやらで、休みが続いてしまった。

 とにかく忙しいのだ。
 
 教務は、ただ空白に会議をはめ込めば仕事をしていると勘違いしているようで、
 成績処理日で、特別の時程にしたのにもかかわらず、会議を入れてしまう。
 
 昨年の職員会議で、7月上旬とした「成績表締め切り」を撤回させて、11日(これでも早い!)にした
 はずが、今年になって、「所見だけは早く出すように」と。
 しかも、学年で読み合わせ、副校長に提出、返ってきたものを訂正して校長に提出、直されたものを本番の紙にプリント。
 それを専科でチェック。
 これを、昨年の合意を反故して、前倒しした日程で提案してきた。
 
 私の学年には、臨採の若い女性教師がいるが、新人に関しては、7月3日に出せと言う。
 その日に所見を学年で読み合わせして提出だと。
 その日は保護者会だというのを、あなたが決めたのでしょ。
 どうやって読み合わせをしたらいいのでしょう。

 管理職(側も含めて)、「念には念を」と、日程をきめ細かくして、「親切」めいたことをしたつもりだろうが、
 立場が違えば、「親切」が反対に「強制」と変じてしまう。

 哲学なき教務。

 理念なき管理職。

 従順な教師たち。

 私たちにとって、1番大事な「授業」を基軸にした学校のスケジュールを立てられない職場は、いずれ腐っていくことだろう。
 いえ、もうすでに。
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私が教職を去るのではない 「教師」という仕事が私を去っていったのだ

2018年06月23日 10時41分38秒 | 教育を考える
 40年の教職経験を経た後に辞職した先生の辞意表明。アメリカでの話だが、
 私も同じような心境である。

 Mr. Casey Barduhn, Superintendent
Westhill Central School District
400 Walberta Park Road
Syracuse, New York 13219

Dear Mr. Barduhn and Board of Education Members:

It is with the deepest regret that I must retire at the close of this school year, ending my more than twenty-seven years of service at Westhill on June 30, under the provisions of the 2012-15 contract. I assume that I will be eligible for any local or state incentives that may be offered prior to my date of actual retirement and I trust that I may return to the high school at some point as a substitute teacher.

As with Lincoln and Springfield, I have grown from a young to an old man here; my brother died while we were both employed here; my daughter was educated here, and I have been touched by and hope that I have touched hundreds of lives in my time here. I know that I have been fortunate to work with a small core of some of the finest students and educators on the planet.

I came to teaching forty years ago this month and have been lucky enough to work at a small liberal arts college, a major university and this superior secondary school. To me, history has been so very much more than a mere job, it has truly been my life, always driving my travel, guiding all of my reading and even dictating my television and movie viewing. Rarely have I engaged in any of these activities without an eye to my classroom and what I might employ in a lesson, a lecture or a presentation. With regard to my profession, I have truly attempted to live John Dewey’s famous quotation (now likely cliché with me, I’ve used it so very often) that “Education is not preparation for life, education is life itself.” This type of total immersion is what I have always referred to as teaching “heavy,” working hard, spending time, researching, attending to details and never feeling satisfied that I knew enough on any topic. I now find that this approach to my profession is not only devalued, but denigrated and perhaps, in some quarters despised. STEM rules the day and “data driven” education seeks only conformity, standardization, testing and a zombie-like adherence to the shallow and generic Common Core, along with a lockstep of oversimplified so-called Essential Learnings. Creativity, academic freedom, teacher autonomy, experimentation and innovation are being stifled in a misguided effort to fix what is not broken in our system of public education and particularly not at Westhill.

A long train of failures has brought us to this unfortunate pass. In their pursuit of Federal tax dollars, our legislators have failed us by selling children out to private industries such as Pearson Education. The New York State United Teachers union has let down its membership by failing to mount a much more effective and vigorous campaign against this same costly and dangerous debacle. Finally, it is with sad reluctance that I say our own administration has been both uncommunicative and unresponsive to the concerns and needs of our staff and students by establishing testing and evaluation systems that are Byzantine at best and at worst, draconian. This situation has been exacerbated by other actions of the administration, in either refusing to call open forum meetings to discuss these pressing issues, or by so constraining the time limits of such meetings that little more than a conveying of information could take place. This lack of leadership at every level has only served to produce confusion, a loss of confidence and a dramatic and rapid decaying of morale. The repercussions of these ill-conceived policies will be telling and shall resound to the detriment of education for years to come. The analogy that this process is like building the airplane while we are flying would strike terror in the heart of anyone should it be applied to an actual airplane flight, a medical procedure, or even a home repair. Why should it be acceptable in our careers and in the education of our children?

My profession is being demeaned by a pervasive atmosphere of distrust, dictating that teachers cannot be permitted to develop and administer their own quizzes and tests (now titled as generic “assessments”) or grade their own students’ examinations. The development of plans, choice of lessons and the materials to be employed are increasingly expected to be common to all teachers in a given subject. This approach not only strangles creativity, it smothers the development of critical thinking in our students and assumes a one-size-fits-all mentality more appropriate to the assembly line than to the classroom. Teacher planning time has also now been so greatly eroded by a constant need to “prove up” our worth to the tyranny of APPR (through the submission of plans, materials and “artifacts” from our teaching) that there is little time for us to carefully critique student work, engage in informal intellectual discussions with our students and colleagues, or conduct research and seek personal improvement through independent study. We have become increasingly evaluation and not knowledge driven. Process has become our most important product, to twist a phrase from corporate America, which seems doubly appropriate to this case.

After writing all of this I realize that I am not leaving my profession, in truth, it has left me. It no longer exists. I feel as though I have played some game halfway through its fourth quarter, a timeout has been called, my teammates’ hands have all been tied, the goal posts moved, all previously scored points and honors expunged and all of the rules altered.

For the last decade or so, I have had two signs hanging above the blackboard at the front of my classroom, they read, “Words Matter” and “Ideas Matter”. While I still believe these simple statements to be true, I don’t feel that those currently driving public education have any inkling of what they mean.

Sincerely and with regret,

Gerald J. Conti
Social Studies Department Leader
Cc: Doreen Bronchetti, Lee Roscoe
My little Zu.

 グーグルで「直訳」してもらう。

親愛なるBarduhnさんと教育委員の皆様:

今年の終わりに退職しなければならないことは、2012年〜15年契約の条項の下で、6月30日にWesthillで27年以上奉仕することを終わらせることが最大の後悔です。私は実際の退職の日以前に提供される可能性のある地方や州のインセンティブを受ける資格があると考えています。私は代替教師としていつか高等学校に戻ることができると信じています。

リンカーンやスプリングフィールドと同じように、私は若者から老人まで成長しました。私たちは両方ともここに雇われている間、私の兄弟は死んだ私の娘はここで教育を受けていました。私はここに触れてきました。ここで私が何百人もの人生に触れたことを願っています。私は幸運にも、地球上で最も優れた生徒や教育者の中の小さなコアで働くことができたことを知っています。

私は今月40年前に教えに来て、偉大な大学である小規模なリベラル・アーツ・カレッジとこの優れた中等学校で働くには十分に幸運でした。私にとっては、歴史は単なる仕事以上のものであり、本当に私の人生であり、常に私の旅を運転し、私の読書をすべて案内し、テレビや映画の視聴を指示しています。レッスンやレクチャー、プレゼンテーションで私が勉強したいことを気にせずに、これらの活動に参加することはほとんどありません。私の職業に関して、私は本当に「教育は人生の準備ではなく、教育は人生そのもの」であるというジョン・デューイの有名な引用(私とまったく同じように、私は非常に頻繁に使ってきた)を生きようとしました。トータル・イマージョンは、私がいつも「重い」、「頑張って」、「時間を費やして」、「研究」、「細かいことに」、「決して満足していない」ということを教えています。私は今、私の職業へのこのアプローチが評価されていないだけでなく、嫌がらせを受けており、おそらく、いくつかの四半期で軽蔑されていることがわかります。 STEMはこの日を支配し、「データ駆動型」教育は、妥当性、標準化、テスト、そして浅くて一般的なCommon Coreに対するゾンビのような遵守と、単純化されたいわゆるEssential Learningsのロックステップを求めています。私たちの公的教育制度、特にWesthillではなく、何が壊れていないのかを修正するために、創造性、学問の自由、教師の自律性、実験、革新が抑止されています。

長い失敗の列車が私たちをこの不運な道に導きました。連邦税の追求において、私たちの立法者は、ピアソン教育のような民間企業に子供を売却することによって私たちに失敗しました。ニューヨーク州の教会組合連合会は、同じ費用がかかり、危険な大惨事に対してより効果的で勢いのあるキャンペーンを展開することができないため、会員資格を失いました。最後に、ビザンティン最高で最悪の厳しいテストと評価システムを確立することによって、私たち自身の行政が非伝播的であり、私たちのスタッフと学生の懸念やニーズに無反応であると言うことは悲しいことです。このような状況は、これらの緊急の問題を議論するための公開フォーラムミーティングを拒否したり、情報の伝達以上の会議の時間制限を制限するなど、行政の他の行為によって悪化しています。このレベルのリーダーシップの欠如は、混乱、信頼の喪失、劇的で急激な士気の低下を招くだけでした。これらの悪意のある政策の影響は、今後何年にもわたって教育の犠牲を告げるものとなり、響くであろう。このプロセスは飛行中に飛行機を建てるようなものであるというアナロジーは、実際の飛行機の飛行、医療処置、または家の修復に適用されるべきであるならば、誰の心にも恐怖を打つでしょう。なぜ私たちのキャリアと子供の教育で受け入れられるべきですか?

私の職業は、教師が自分のクイズやテスト(今はジェネリックな「アセスメント」と名づけられている)を開発し、管理することや、自分の学生の試験を格付けすることを許可することができないという不信感が広がっています。計画の策定、授業の選択、雇用される教材は、特定の科目のすべての教師に共通することがますます求められています。このアプローチは創造性を阻害するだけでなく、生徒の批判的思考の発達を鈍らせ、教室よりも組立ラインに適したワンサイズの考え方を前提としています。教師の計画時間も、APPRの暴君に私たちの価値を「証明する」という絶え間ないニーズ(私たちの教授からの計画、教材、「成果物」の提出を通して)が大きく減ってきています。学生の仕事を慎重に批評し、学生や同僚との非公式の知的な話し合いを行い、研究を行い、独立した学習を通して個人的な改善を求める。私たちはますます評価され、知識駆動ではありません。プロセスは、企業のアメリカからのフレーズをひねるために、私たちの最も重要な製品となっています。

このすべてを書いた後、私は自分の職業を去っていないことを実感します。それは私を残しました。それはもはや存在しない。タイムアウトがコールされ、チームメイトの手がすべて縛られ、ゴールポストが移動し、以前に獲得したポイントと栄誉が全て消滅し、すべてのルールが変更されたように、私は4/4の途中で試合をしたように感じます。

ここ10年ほど、教室の前の黒板の上に2つの看板がぶら下がっていて、「Words Matter」と「Idead Matter」と読みました。私はまだこれらの単純な記述が真実であると信じていますが、私は公的教育を推進している人たちが、彼らが意味するものを何か印象づけていると感じていません。

心から悔しくて、

ジェラルドJ.コンティ
社会科部リーダー
Cc:Doreen Bronchetti、Lee Roscoe
私の小さなズー。
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○○させていただきました 聞き苦しい「ていねい語」の連発

2018年06月01日 21時57分06秒 | 教育を考える
 若い教師が、最近よく使う。

 「机上にプリントを置かせていただきましたが、」
 「授業を、見させていただきまして、」
 「それでは感想を述べさせていただきます」

 とにかく「させていただきます」の連発である。

 若い教員に聞いてみると、「いいとは思っていないのですが、先輩の中には(体育会系の主幹教員の名を挙げて)敬語を使えと言う人もいるので、
 まあ、指摘されたくないので」という言い訳。

 「させていただく」とは、許可を得て行動するという言葉ではないのか。


 お伺いを立てて、○○していますという、なんとも卑屈な、情けない態度ではないのか。
 
 教育現場では、もともと「対等」なものではないのか。
 平の教諭だろうが、主幹だろうが、こと実践のレベルでは上下はないものではないのか。
 主幹が言うから正しいのか。
 否である。
 主任が言うから正しいまか。
 もちろん否である。

 この聞き苦しさは、現在の学校現場を象徴しているのだ。

 縦社会と成り下がった学校の職員室なのだ。

 
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自分の実践を記録してますか? 学級通信のすすめ

2018年06月01日 21時17分59秒 | 教育を考える
 私の勤務する学校で、学級通信を出している人は極めて少ない。
 「あっ、出しているな」と思っていたら、学期に1回か2回であったり。
 写真を数枚貼り付けて、1行程度のコメントが書いてあるだけだったり。
 
 頻繁に出ているな、と思って、見せてもらうと、毎週の予定表、持ち物の一覧だけであったり。

 日常、日々のクラスの子どもたちが、どのように教室の中で成長しているか、担任はどこに力点を置いて、「今」頑張っているか、
親は、どんなことで喜び、また悩んでいるか、それはなにをきっかけにして克服していったらいいのか・・・そんな記事を書いている教員が、
残念ながら、私以外にいないのである。

 教師が、何を「自分の得意分野」「目玉」として勝負していくのかは、それぞれだろう。

 ただ、「担任」として、受け持った子どもたちの課題や成長を、1年間きちんと記録している教師はどれくらいいるのだろうか。

 正直言って、同僚で「自分の文章」を書ける人は、校長だけである。
 あとは、以前のファイルの手直し、マニュアル・書式通りの文章作成。
 自分の考えや思いを、したためられる教師は、情けないほどに周囲から消えてしまった。
 
 歳をとり、現在は1週間に3号を目安に発行しているが、このくらいの頻度にしなければ、日々の子どもたちの、クラスのダイナミックな成長は
描ききれないのである。
 たまーに出す方は、おそらくそれだけで、「エッセンス」の記事として、スカスカの「面白くもなんともない」ものになってしまうのだ。

 「くそ」忙しいことは認めるが、それだけが「出さない」「出せない」教師の増加の理由ではないはずだ。

 保護者との関係が希薄となり、それだけに「なにかが起これば」泥沼になってしまう現場で、一緒に子育てをしましょうと、繋がりを濃くしていくことにも繋がる通信は、大きな武器にもなるはずだ。

 保護者とのつながり、自分の実践の記録、子どもの成長の紹介により、親も子どもも学び、喜ぶ、ものの見方が鍛えられる・・・
 一石十鳥ほども、有効なものなのである。

 若い教員よ。学級通信を出しなさい。

 
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体育に関する疑問は無尽蔵

2018年06月01日 19時27分38秒 | 教育を考える
 体育系の教師の勢いある「一声」で決まり、その後ずっと学校の、授業のルールとなって定着していく。
 そんなことは、今に始まったことではなく、外部からの「疑問」「問い合わせ」「批判」によって、あわてて改められることは
よくあることだ。

 朝日の夕刊に、体操着についての記事が載っていた。

「運動会シーズンが本格化するなか、小学校でのこんな「ルール」がSNSで話題になっている。学校側は、肌着を着たまま汗をかくと体が冷えるためだと説明するが、女児の胸など肌が透けて見えることを心配する親も。なぜ学校が子どものプライバシーにまで立ち入るのか、と疑問視する声もある。」

「「肌着禁止の理由ってなに?」「すれたら痛いし、意味が分からない」「これもう性的虐待では」……。5月半ば、ツイッターで女児の母親が懸念を投稿したのを機に、「うちの子も」といった声が拡散した。

 「着替えるのに時間がかかるから、下着は脱いでいこうかな」。都内の母親(39)は5月初め、運動会の朝練習に出かける前に、小学4年の長女がつぶやいた言葉に驚いた。理由を尋ねると、長女が通う区立小では、体操服に着替える際に肌着を脱ぐことがルールになっていた。「女の子なのに、体操服1枚になるのは心配」と、担任に相談。校長にも、ルール化はおかしい、と伝えた。
 担任は「汗をかくと体が冷えるから」と説明したが、校長は「汗臭くなるから」。結局、校長は「検討します」と応じただけで、今もルールの廃止にはつながっていない。
 同じ学年の女子には、ブラジャーをつけている子もいる。また、インターネットのサイトには、体操服姿の女児の画像を集めたサイトも散見される。「子どもにとって、自分の発育は初めてのこと。大人が気づいて言わないと、子どもの体が無防備にさらされることになる。なぜ学校が、プライベートなところまで立ち入るのか」と憤る。
 制服・体操服メーカーの菅公学生服(岡山市)が昨年3月、東京都と神奈川県に住む、小学生がいる母親1千人を対象に行った調査では、14・4%が「下着(ブラジャーや肌着)の着用が認められていない」と回答。1、2年生に限ると19・9%にのぼった。担当者は「下着が透けない体操服の需要を調べるために調査したが、下着の着用禁止がわりと多いなと感じた」と話す。
 トンボ(同市)も「体操服はアウターとして作っている。中に下着を着ることを想定し、サイズはゆったりめにしている」という。」

 学校は、とにかく全体を同じ色に染めていることで、安心してしまうという傾向がある。
 整列、行進、体育座りなど、正直、私は大人になって、これらの「鍛錬」が役に立ったという記憶がない。

 むしろ私の内部に蓄積されたものは、批判的な精神をそぎ落とされた「従順」の精神であり、思春期以降は「屈辱」でしかなかった。
 「人によって違うだろう」と言われるとも思うが、周囲に「同調する」ことで得られるものとは、いったいなんなのだろうか。
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一応の証拠として・・・ 「水からの伝言」に騙される人たち

2018年05月27日 15時26分44秒 | 教育を考える
 竹内さんの「信奉」について、ちょっと気になったので、ネットで検索したら、
残念ながら、続々出てきました。

 ひとつだけ。アルペンスキーの清澤恵美子さんに関する記事。
 「――リハビリ中にもいろいろと学ぶ経験があったのですか?
一番、刺激を受けたのは、これもまた竹内さんでした。気持ち新たにリハビリを始めましたが、足が思ったよりも痛くて、私自身、完全には復活を信じ切れていない部分がありました。そんな中、竹内さんと食事をする機会があったんですが、その時、こう言われました。「水の話、知ってる?水が入ったコップが2つあって、片方には『綺麗な水だね』、片方には『汚い水だね』って言っていると、『綺麗だね』って言っている水は美味しくなるんだよ。それって血液も細胞も一緒じゃない?自分の体に対して『膝がんばろうね、トレーニングがんばろうね』って声かけてるのと、毎日、恵美子ちゃんみたいに暗く生きているのでは、治り方も違うよ」。そこで、また気づかされました。これじゃあだめだ、前に進むのは私の意識次第なんだと。そう思ったら、『何があっても私は選手を続ける』と自分自身に強く言えるようになりました。」

 その説明は、次の引用につきます。すみません、お借りします。
 「 『水からの伝言』とは、江本勝による水を結晶させた氷の形状からメッセージを読み取ることができるという主張の著書です。
 水に「ありがとう」などとよい言葉をかけると結晶は美しい形となり「ばか」などと悪い言葉をかけると結晶も醜い形となるというのです。
 人間の言葉は波動であり、それを水が理解するといいます。
 その理由に、水も振動している波動であり万物は波動からできているからとまともではない主張です。

 日本の道徳教育の現場でこの書籍が取り上げられたことから、多くのまともな人々や科学界から反論や反対があり話題になりました。

 著者の『水からの伝言』でも実験はなく実験じみたことがあるだけと述べていて再現実験じみたこともしていません。
 その実験内容はまともな実験ではなく、実験結果の画像なのでも容易に改ざんできて他人が行い検証された確かな証拠はありません。
 「ありがとう」を見せた水と「ばか」を見せた水の違いに代表される水の結晶の違いは、言葉の効果によって水の結晶が変化したことを示すのではなく、実験結果が不安定であるために撮影者の都合の良い物を選んだ物と考えられます。

 著者は『水からの伝言』の主張は、「科学的に証明された」とうそをついていて、のちにを「ファンタジーあるいはポエムである」、つまりフィクションであり物語であると述べていますが、いずれは証明されるものとも語っています。
 著者は詐欺が目的か、よほど頭が悪く科学知識が足りてないのか、詐欺ではなく信じているなら、統合失調症などの病気や知的障害がある疑いがあります。
 信者も同様によほど頭が悪く科学知識が足りてないから信じるのでしょう。

 日本化学会や日本物理学会の会員たちは「科学的でない」という見解を表明しています。
 液体の水は記録媒体にはまったく適していません。
 水が人間の意識や言葉を理解することはありません。

 世界の科学者の中には、信者や正しいと主張している人もいますが、いまだに科学界では認められていませんし、証明されてもいませんし証拠もありません。
 証明や証拠とされているものも再現できなかったり不確かなものです。

 『水からの伝言』は、波動測定器、波動転写器なる物の商業的価値を高めるための意図が隠されていると指摘されていて、実際に詐欺的な商売として利用されています。

 知的障害や精神病がある人々は別にして、基本的な科学知識不足や調べることをしない人々がだまされます。」
   (http://blog.livedoor.jp/hideki4612/archives/1065452117.html)
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あ ここにも「水からの伝言」信奉者が・・・ 竹内智香さん あなたもか

2018年05月27日 15時06分18秒 | 教育を考える
 スノーボードの竹内智香さんが、テレビ東京でインタビューに応じていた。
 彼女の実績は、頭を垂れるほど立派なものである。

 が、その中に気になる発言が。
 
 「水は人の言葉がわかるんですよ。人間の体は水分がたくさんありますから。いい言葉を投げかけると、きれいな結晶の氷になるんです。
  これは証明されているんですよ。だから、私はいつも、ありがとうと何度も声を水にかけているんです。」
 趣旨の引用だが、
 「ああ、ここにも似非科学の犠牲者がいるのだな」とがっかり。

 まあ、きれいな言葉を発することには、なんら問題ないが、人には押しつけないでね。
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えっ、いつのまに? 宿題の丸つけはおうちで・・・

2018年05月20日 08時57分38秒 | 教育を考える
 久しぶりの低学年を持ち、最初の学年会で。
 宿題は、音読、計算ドリル、漢字練習などは、毎日取り組ませようということに。

 その際、「宿題のチェックは、空き時間のない低学年は大変だよねえ」と話をすると、
 「あっ、宿題の丸付けは、おうちでやってもらっているから」との答え。

 おお、そうなんだ。
 しかし、きっとできないお家もあるだろう。家庭の状況で、すぐに格差が現れるのは必至だろうなと思う。

 これは保留して、しばらく様子見をしてみると・・・

 やはり、丸付けをしてこない子が何人もいる。
 そのお家は、やはり家庭では余裕のない家だ。

 それは子どもの学校の生活にもはっきりと出てきている。

 なんとか改善しなくては・・・
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異動の時期に

2018年03月25日 10時13分27秒 | 教育を考える
 今年も同僚が、新たな職場に旅立っていく。
 
 いやだいやだと行っている間に、私が1番の最古参となってしまった。
 つまりここ何年かは、「送り出す」側でいる私だ。

 卒業生や、1年生同様に、新しい職場に対しての期待と不安とを抱えての旅立ちなのだろう。

 みなさんの軟着陸を祈る。
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ブラックな学校現場に、人材は集まるわけなし

2018年02月25日 18時59分28秒 | 教育を考える
<国公立大入試の2次試験が25日に全国で始まる。今年の志願者数は168大学582学部の募集10万547人に対し、前年より5078人少ない延べ46万5708人。近年は好景気を受けて就職先の選択肢が多いと言われる文系の人気が続く中、教員養成系学部の志願倍率は下がっている。専門家は「教員の過酷な労働環境が知られ、敬遠されているのでは」と分析する。
 2次試験は25日に前期日程、来月8日に中期、同12日に後期が始まる。文部科学省によると、少子化などの影響で志願者数はセンター試験が始まった1990年以降で最も少ない。志願倍率も前年比で0.1ポイント減の4.6倍で最低となった。
 学部系統別で見ると、教員養成は3.9倍と前年から0.1ポイント減り、人文・社会の4.9倍、理工の4.4倍より低い。教員養成はリーマン・ショック後で公務員人気が高かった2010、11年度は4.6倍だったが、その後は低下傾向にある。
 駿台教育研究所の志望動向調査によると、私立大でも教員養成系学部の倍率は低下傾向にあり、13年度の14.97倍から17年度には11.47倍に下がった。
 教員の職場環境を巡っては、文科省の16年度の調査で公立中の6割、公立小の3割が「過労死ライン」を超えて勤務していることが判明。不登校やいじめなどさまざまな問題への対応が日常化しているとも指摘される。
 同研究所の石原賢一・進学情報事業部長は教員養成への志願傾向について「高校生は身近で見て教員の仕事の厳しさを知っている。少子化で教員という職業そのものへの不安もある。景気が回復しつつある今、わざわざ『いばらの道』を歩きたくないという意識が働いているのだろう」と推測している。【伊澤拓也】>(毎日)

 アフターファイブを自分の趣味や特技、家族のために使いたいと思っている若者には、絶対にすすめられない教員だ。
 無制限とも言える勤務時間に加え、上意下達の組織化が進められ、入った瞬間から、親にも子どもにも、先輩教員と同じ責任のもとに働かせられる。
 また校長やら副校長やら、主幹やら、先輩やら、上から「助言」という名の指示や命令が降り注ぐ。
 
 未来を語るべき教員が、「今」すら生ききれていないのだから、けっしておすすめの職業とは言えない。
 
 魅力あるべき職業なのになあ・・・
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新しい指導要領での「混乱」が始まった

2018年02月17日 21時17分17秒 | 教育を考える
 金曜日に立川で、多摩地区の研究、研修主任、そして一般教員向けの「報告会」が行われた。
 出席は約900人だという。

 東京都多摩地区教育推進委員会 第23次計画報告会
 <「主体的・対話的で深い学び」の視点に立った授業の創造--「深い理解」の実現を目指して-->
 が表題である。

 簡単に言えば、新しい指導要領の目指すものを先取りして研究し、それを伝達する会である。

 「いやー、むずかしくって」「なんか、わけわからなくなりそうで」
 終了後、会場の外にある喫煙所で、何人かの教員が、苦しい笑いを浮かべて話していた。
 
 多摩地区から選ばれた(応募した?)16人が、それぞれ小学校部会、中学校部会に分かれて、表題に書かれた主題を、実践を通じて論理構成していく・・・の成果の報告なのだが、苦笑の教員の言う、内容が「むずかしくて」というよりも、むしろ彼ら彼女らが「難しくさせている」といった印象であった。
 悪く言えば、この報告者は、もともと「支離滅裂」な文章(新しい学習指導要領のことである)を、「きっとこういった趣旨のはず」とばかりに、つじつま合わせをし、それを現場の授業に、無理矢理当てはめる「使命感」で展開しているからである。
 なぜ批判的な見解が出てこないのか。
 批判すべき知識も力量もないのか。それとも勇気がないのか。
 指導要領についての「私見」がないのである。

 内容に目を向けよう。
 「主体的・対話的で深い学び」 
 つまり、3つの要素が組み込まれた学習をさせろと要領は言う。

 「主体的」は、自分の意思で、問題意識をもって学ぼうとする「姿勢」「心情」である。
 「対話的」は、自他の意思の交流、つまり「方法」である。
 「深い学び」、これは「浅い学び」とは異なり、「知っている」ではなく「わかっている」「できる」「活用できる」「概念を形成できる」というレベルの「学び(方・のレベル)」である。(報告書では「深い理解」という言葉に変えているが、それはそれで、また別の意味だと思える)

 このジャンルの違ったキーワードを、まとめて追求せよというのである。
 それ自体、この報告者は疑問に思わないのだろうか。

 宇佐美寛氏も書いていたが、指導方法にまで学習指導要領に入れるべきではない。
 要領に「教育目標」「学習内容」を盛り込むことは、まあよいとして、今回のように「指導方法」「学習活動」を入れ込むことは越権である。
 ある学習すべきものがあるとして、それを子どもたちにどのように学ばせていくかについては、現場の教員にしか分かるものではないはずだからである。
 「ここは、話し合いではなく、1人1人が自分の頭で考えてまとめていくことが、うちのクラスにはふさわしい」

 「アクティブラーニング」という言葉が、突然現れるや、大きな書店には、それに便乗した「雨後の竹の子」本が、書店に何種類も積まれるようになった。パラパラとページをめくって立ち読みすると、なんのことはない、これまで出されてきたものの「手直し」程度の内容で、話し合いやグループ活動について焼き直したものばかりで、目次を立ち読みするだけで、概要が分かってしまうほどだ。

 話をもどす。
 「アクティブラーニング」が、定義できない、多義である、誤解を招くとして、要領に盛り込めず、代わって出てきた「主体的」「対話的」「深い学び」を、ひとくくりにして私たちに理解させよというのでは、現場がただ混乱するだけだ。
 現に、今回の報告者の「苦悩」を見よ。

 分野の違った言葉を組み合わせているのだから、報告者は、いったんこれらをバラして注釈を加え、さらにそれらを結びつける作業に四苦八苦している現状である。わけもない。

 ずっともどろう。
 そもそも、「主体的に学ぶ」ことも「対話的に学ぶ」ことも、「深く学ぶ」ことも、なにも新しい発見ではない。これまで私たちが追求してきたものに他ならない。
 
 こうやって、空虚な言葉の「おもてなし」感覚で受けいれ、強引に、さも「新しい学び」だと、外にはしたり顔で喧伝し、内では混乱し困惑するであろう未来の学校現場がが見えてくる。

 指導方法まで口をだすな、と文科省に言いたい。
 
 
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西原博史氏の死亡記事に驚く 

2018年01月28日 10時53分28秒 | 教育を考える
 あの雪の日に、西原氏が交通事故で亡くなった記事を読んで驚いた。
 
 「22日午前0時10分ごろ、東京都三鷹市新川4丁目の中央道上り線で、早稲田大学社会科学総合学術院教授の西原博史さん(59)=中野区鷺宮6丁目=がトラックにはねられた。西原さんは全身を強く打ち、搬送先の病院で死亡した。西原さんは単独事故を起こした後、車外に出て走行車線上ではねられたという。
 警視庁はトラックを運転していた運送会社員の高原充宏容疑者(50)=八王子市滝山町1丁目=を自動車運転死傷処罰法違反(過失運転致傷)の疑いで現行犯逮捕し、容疑を同致死に切り替えて調べている。「停止している車に気を取られた」と述べているという。
高速隊によると、現場は片側2車線。西原さんは約10分前、乗用車で中央分離帯に衝突する単独事故を起こし、追い越し車線に停止。事故を通報した後続車の男性とともに中央分離帯に避難していたが、何らかの理由で走行車線まで出たという。
 西原さんは憲法学が専門で、思想・良心の自由に関する論考を多数発表。教育現場での「君が代」斉唱問題などについても積極的に発言してきた。著書に「良心の自由と子どもたち」など。父親は刑法学者の西原春夫・元早大総長。」(朝日デジタル)

 卒業式の「日の丸・君が代」強制に抗する論客として、著書では大変にお世話になった。
 残念でならない。

 ご冥福を。
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形骸化する職員会議 物言わぬ若い教員 追従するヒラメ教員

2018年01月05日 22時44分32秒 | 教育を考える
 今頃は、どこの学校でも、「学校評価」「年度末反省」と言われる議題での職員会議が行われている。
 1年間の教育活動を総括して、来年度の計画を立てていくというものである。

 内容は、私たちの教育活動の全て。
 あらゆることを俎上にのせて、話し合う会議である。

 1年間の全てを対象にするものだけに、まともに話し合っていたら、何時間あっても足りないくらいのものだ。
 しかし、驚くなかれ、この職員会議、なんと一時間半で終わってしまった。

 もちろん、議題を整理し、部会で話し合い、提案事項をまとめ、さらにそれを「経営会議」と言われる管理職、主幹で行われる会議で、さらに篩にかけられた末の職員会議である。
 そんなに、理路整然とした中身の反省と提案がなされたのか。
 否である。

 新しい指導要領の移行期間に入る来年度のためには、きちんと話し合うべきことが山ほどある。
 3年以上が週1時間、外国語の授業が増えるために、ただでさえぎゅうづめの時間割をどうするのか。
 ということは、放課後の「私たちの会議」「教材研究」の時間がなくなることを意味する。ならどうするのか。
 「働き方改革」が出されているにもかかわらず、実態はむしろブラックを維持・推進させるだけの施策にならないか。
 土曜日に何回も学校公開をせよという方針が下りてきている。それをどう受け止めたらいいのか。
 道徳が教科となるが、どう授業を進めるのか。通知表でどう評価を伝えるのか。

 きりがないくらい課題がある。
 にもかかわらず。

 結局、各部会の長が提案し、「ではいかがですか」と司会が投げかけるが。ほとんど発言がない。
 B4の裏表にびっしりと印刷された、提案なのだが、発言したのは、私と管理職を目指す男性教師だけ。
 無理もないこともある。この印刷物、配布されたのが、会議の始まる直前。会場に置いてあるのをもらうと、すぐに会議が始まるのだから。
 早く終わるはずだ、中身を読んでもいないところでどんどん進行していくのだから。
 私は前日に入手して、どこでどんな発言、質問をするか考える余裕があった。当日ぽんと手渡されて、いきなり始められたら、とても発言どころではなかったはずだ。
 
 いつから職員会議が、こんなふうになってしまったのだろう。

 2006年4月、「東京都教育庁は十三日、職員会議で「挙手」「採決」などの方法で、教職員の意思を確認する運営を行ってはならないとする中村正彦教育長名の通知を二百六十三校の都立学校長に出しました。・・・「学校経営の適正化について」とする今回の通知は、企画調整会議や職員会議などの運営について「一層の適正化を図る」よう求めています。その内容は、校長、副校長、主幹で構成される企画調整会議が、学校経営の「中枢機関」で、「職員会議の場で議論し、教職員の意向を挙手等で確認するような学校運営は許されない」というものです。

 職員会議は校長の補助機関と明文化した二〇〇〇年の学校教育法施行規則を受け、都教育庁は〇一年、「校長が決める事項を、職員会議が制約するような運営で意思決定してはならない」との通知を出しました。今年一月に都立校にその後の状況を報告させたところ、十数校で校務に関する内容を職員会議での挙手や採決で決めていたことが判明したとし、また学校経営支援センターが四月に始動したことも踏まえ、今回の通知を出しました。」

 つまり校長の下請け機関、校長の意向を確認するための会議が職員会議となったのだ。「話し合い」など、基本的には必要とされないのである。

 平の教員、主任教諭、指導教諭、主幹教諭、副校長、校長、統括校長

 なんとまあ、私が教員となってから、こんなに職階が増えたものだ。学問や教育は、本来は「上意下達」になじまないもののはずである。

 そんな状況が長く続いたせいだろう、若い教員はいたって従順だ。そつがない。つまり「世渡り上手」になっていく。
 職員会議では発言しない。それこそ「信頼関係を損なう」ことに繋がるかもしれないからだ。
 
 道徳が教科になるという。彼らは、子ども達に、どんな「価値」を教えるのだろうか。

 
 
 
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萎える感覚が分かった瞬間

2017年12月15日 23時02分56秒 | 教育を考える
 通知表の締め切りの翌日、「学年での学校評価」という会議があった。
 教育目標、重点目標、年間行事計画、生活指導、特別活動など、1年間の総括を全ての項目にわたって総点検する会議である。

 職員室で、各学年ごとに寄り集まって話し合いがはじまる。
 ただ、なんとなく活気が感じられないのは、昨日までの通知表完成を目指した「激務」のせいだろう。
 また、完成していない職員もいる。

 私の学年は3人で。
 ひとつひとつの項目について、自由に意見を述べ合って、まとめていくという作業だ。

 体がだるく、頭が固い。

 約45分の会議で、1年分を総ざらいすること自体、どうかと思うが・・・

 年間の行事計画では、「大きな会議の前には、会議をいれないこと」
 研修では、「市の教育研究会、研修会の終了時刻を4時にするか、または各学校独自に休憩がとれる指導をしてもらいたい」
 そんな意見を入れてもらう。

 しかし、根が続かない。
 「道徳の教科化に伴う評価を、人格否定や、徳目強制にならないような話し合いを行う」
 「学校のきまりが肥大化し、また<きまりだから守る>という発想ではなく、職員も子どもも、きまりを総点検する必要がある」
 「10.23の都の通達について知らない職員が多いので、きちんと学習する必要がある」
 「都の働き方改革についての学校の現場にいる教職員の意向を吸い上げて欲しい」
 などの意見は、今年は出さないまま会議を終えてしまった。
 正直、若い職員に1から説明する意欲が湧いてこないのである。
 いけないとは思いながら、ついつい「終わらせる」ことを優先させてしまう気持ちが第一になってしまうのだ。

 ああ、こうして先輩たちは、職場の世代の溝を埋められないまま、働こうという気持ちを萎えさせていくのだな。
 同世代がほとんどいなくなり、組合の仲間もほとんどいなくなってしまった現場。
 少し下の教員は、自分の「職務」と「校長の顔」とを最優先した仕事に専念するだけで、よりよい職場を作っていこう、校長の意向に意見を申し立てることなど、ほとんど見られない「そつないおりこうさん」ばかりだ。

 絶望としか言えない現場の風景だ。
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