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息苦しい世の中で 自由に語り合える空間を

自由でも民主でもない この日本を もっともっとよりよく変えていくことができるように たくさんの知恵を語りましょう。

無節操な国民の作り方

2015年07月31日 03時56分40秒 | 教育を考える
真実から目をそらす育鵬社教科書
 自己顕示欲の強い人と時折出くわす。いかに自分には能力があるか、こんな有名人と仲が良い、認められている、周りの人間は低脳だらけで、自分の力を認められないでいる。
かわいそうな人だと思う。もしあなたに力があるのなら、そんなに主張しなくても、認められているだろうし、時間とともにあなたの力はみんなに伝わっていきますよ、と思ってしまう。
 そんな人に限って、自分のことで反省することがない。意図的にしたのではなく、結果的に迷惑をかけてしまったことにも気がつかない。
 そんな人物を書物に譬えてみると、この教科書がぴったりとあてはまる。

「ロシアの東アジアでの軍備増強をこのまま認めれば、わが国は存立の危機をむかえる・・・」
つまり、ロシアが元凶?
「日本軍の勝利に、東南アジアやインドの人々は独立への希望を強くいだきました。」
「アジアの解放をかかげた日本は敗れたがアジアは植民地から解放され、独立を達成した。」
アジアの独立は、日本の遺産として達成された?
「国があなたのために何をしてくれるかを問うのではなく、あなたが国のために何ができるかを問おう・・・公民は、このように自分を社会などの公の一員として考え、公のために行動できる人のことをいいます。」
「憲法は、権利の主張、自由の追求が他人への迷惑や、過剰な私利私欲の追求に陥らないように、また社会の秩序を混乱させたり社会全体の利益をそこなわないように戒めています。」
 あなたは国のために尽くす一員であり、権利を主張する前に、義務を果たしなさい。あなたの生活している日本という国は、昔からとてもすばらしい国なのだから。
 一貫してこんな調子だ。
 先の人物が、誰からも相手にされず、疎んじられているのと同様に、こんな教科書は「百害あって一利なし」である。

 栃木の大田原市、東京都、大阪市河内長野市、四条畷市、東大阪市、神奈川県藤沢市などが、育鵬社の歴史、または公民の教科書を採択したらしい。

 現在審議されている「戦争法案」を、下から支えるものだ。

 すでに教育の現場では、「メーデー」という言葉すら「聞いたこともない」という若者が教壇に立つ時代となってきている。
 「そんな政治的なことはわかりません」「署名? ちょっと怖いです」「日教組って、政治のことばかり言っていて、現場を混乱ばかりしてきた団体ですよね」「日本人なんだから、君が代を堂々と歌えないのは、もう日本人としては失格じゃないですか」
 現実に私が聞いた言葉である。

 一億洗脳化のためのバイブルを使って、子どもたちを偏見と虚構に満ちたものにしてはいけない。

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おかしなおかしなおかしな教科書採択

2015年07月26日 08時39分22秒 | 教育を考える
次の東京新聞の記事を読んでいただきたい。
なにかおかしなことが見つかりませんか?

「東京都教育委員会は二十三日、都立の中学校や特別支援学校中学部が来年度から使う歴史と公民の教科書に、「新しい歴史教科書をつくる会」の流れをくむ育鵬社版を選んだ。同社は、つくる会に協力していた扶桑社の子会社で、扶桑社版などの教科書も含めると、二〇〇一年から五回連続での採択となった。
育鵬社の歴史、公民教科書は、都立中や中高一貫校など十校と、点字本が必要な視覚障害を除く都立特別支援学校(聴覚障害、肢体不自由・病弱)二十一校で、一六年度から四年間使われる。採択は無記名投票で行われ、教育長と教育委員の計六人のうち四人が育鵬社版、二人は別の教科書に投票した。
都立中などの教科書選定では、つくる会に賛同して教育改革を目指した石原慎太郎元知事が一九九九年に初当選し、〇四年に都教委の六人全員が石原知事の任命した委員になって以降、都立の中学や特別支援学校で扶桑社などの教科書の採択が続いた。
一二年には猪瀬直樹前知事、一四年には舛添要一知事が就任し、教育委員のうち石原元知事が任命した委員は二人に減っている。
委員会後に取材に応じた中井敬三教育長は「採択理由は各委員から聞き取りをして、一カ月後に都教委のホームページに載せる」と話した。
都教職員組合の木下雅英書記長は「現場の教職員の声を聞いて選んだのか、子どもたちにとって本当によい教科書なのか」と、採択結果に疑問を呈した。」

別のホームページで、採択時の委員会の様子をうかがうと、この委員会で、なにも論議することなく採択されたとのこと。

「検定済み教科書発行者一覧の中から無記名投票により、学校ごと、教科ごとに教科書を採択するということでお願いしたい」と、指導部長より採択の方法について提案がされた。都教委が各学校の教育目標に照らして作成し、選定審議会が承認した「教科書採択資料」(学校ごと、教科ごと。以下、「資料」という)が事前に配布され、それを参考にして各教育委員は投票をしたようだ。

無記名投票については、「都教委の考え、判断によるのであって、それを定める法令はない」とのこと(乙武委員の質問への回答)。

「資料」には、記述内容についての調査項目ごとに、その教科書が取り上げた箇所数を数え、数を記すとともに、数の最も多い発行者には☆印を4つ、数が少なくなるにしたがって☆を少なくし4段階で表示している(下欄は立川国際中等学校の歴史の調査結果の一部。箇所数は、2段目から略した)。「☆印の表記は、教科書の優劣を判断したものではなく」とただし書きがあるが、投票結果を見ると、教育委員が☆印を見て投票したことは歴然としている(教育委員が膨大な時間を使って、全ての教科書を読んだとも考えにくい)。」(レイバーネットより)

日本の文化・伝統を扱っている箇所数
歴史上の人物を取り上げている箇所数
国際関係・文化交流を取り上げている箇所数
神話や伝承を知り、…資料数

こんな観点でまとめた一覧表が配られ、数字が記されている。恣意的なもに思える、これは育鵬社版の点数が1位だ。

論議もされず、採択理由はあとから委員に聞いてまとめるという。
結論が先にあって、理由はあとから考える。
こんな話し合い、小学校でもしない。
無責任極まるものだ。
委員は、なぜ黙っているのだろう。都の、国のロボットなのか。
山口さんも、乙武さんも、もっともっと勉強するか、勇気を持つかしてほしい。
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管理職たるもの

2015年04月26日 23時13分02秒 | 教育を考える
どんな基準で昇格させたのか、疑問に思う管理職が多すぎる

「何を言っているか」
ではなく、
「誰が言っているか」
を基準にして学校を運営していく

そんな低レベルな者がどこにでも存在するのである

あえて反面教師として演じているのなら、敬服するのだが
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人数をそろえましょう

2015年03月15日 20時11分12秒 | 教育を考える
通知表の季節だ。
みなさん追い込み、お疲れ様。
前回の言葉と同じように、これもよく言われる言葉。
均等に分けたはずだから、通知表の評定に、クラスごとにアンバランスになるはずがない。
主観!を排して、より公正にしていきましょう。
そんな軽い気持ちなのだろう。

もともと通知表に、幻想を抱くほうがどうかなと、私は思っている。
いい加減にやっているという意味ではない。
そもそも厳格な評定など、現在の学校では土台無理な話だと言っているのだ。

たとえば、「ことばのきまりを正しく習得し、新しい漢字の読み書きができる」という項目があるとする。
ある子は、「お母さんわ」「けしごむおもらいました」と書く。しかし漢字は、書き取りは満点に近い。
さて、これをどう評定にむすびつけるか。さらに、その子は、宿題の漢字の練習ノートをほとんど提出していない。
頭が混乱するほどの計算式でも作るほかない。
結果オーライにするのか。提出物は加味するのか。授業中の態度はどうするか。漢字を80%にし、文法を20%にして
考えれば万全なのか。
こんなことを、緻密に議論していたら、通知表などできるわけがない。

「理科の学習に対して、興味・関心を持ち意欲的に学習する」といった「態度」の項目もしかり、教員がつまらない授業を
したときは、みな軒並み下がるものであるから、この項目について、子どもだけを評価することは、なんとも心苦しい。
まして子どもの「内面」などわかるはずもなく、活発に発言する子、提出物を真面目に出している子が、高い評定をいただくことになる。
しかし、これもよくよく考えれば、それが「興味・関心」と言えるのか、私にはよく分からない。

人数をそろえるよりも前に、「基準をしっかり揃える」ことが必要条件だ。
しかし、それはこの超過密・多忙の学校現場では、叶えられることはない。
そこそこ「じゃ、漢字は9割できていたら・・・言葉のきまりは、あまり極端に間違っていなければ、あえて評価には入れないで・・・」
といった、おおまかな妥協案で進むしかない。

さて、それが合意できているなら「人数調整」など無用だろうと思う。
あとは、担任の見ている範囲でのものだから、多くなるときも、少なくなるときもあり、そんな大雑把なスタンスでは、保護者は
不満、不安なのだろうか。

とにかく通知表は、担任のオリジナル作品である。
そう考えてるけどなあ。
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これでは差がつきませんねえ

2015年03月15日 15時12分34秒 | 教育を考える
私の軽蔑する教師の言葉の中で、ベスト10にも入ろうか。
あ~、それ軽蔑してしまいますよ。
と私は吠えてしまうのですが。
テストを作って検討すると、必ずこう言う同僚がいる。必ず。
目当てにそった問題なら、みんなができたら万々歳じゃないの?
差をつけるために、あなたは存在してるの?
そうなら、あなたは道を誤ったよ。
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教育論議すらできない学校の堕落

2015年03月07日 20時47分27秒 | 教育を考える
 ふつうの感覚なら、「~を愛する」「~に敬意を表する」かどうかは、まったくもって個人の信条にかかわるものである。日の丸、君が代を愛するかどうかは、個々の判断にまかせるしかないものである。まして、それが「愛国心」につながるかどうかについても、個々の判定を尊重するしかないものだ。
 私は、この歌や旗については、なんの感慨をもつことはなく、むしろ「侵略のシンボルだという、薄汚れた手垢のついた」ものだと考えている。そしてまた、これは新しい日本のシンボルとして、これからの日本の未来には必要なのだいう意見も、渋々とは言え、認める立場でもある。
 教育の現場に持ち込むかどうかについては、「棚上げ」しませんかと思う。
 それが次善の方法ではないだろうか。
 結果的には、現象面では、「反対派」の主張する「持ち込まない」ことになるが、意味合いはまったくちがう。

 残念なことに、私の異動した学校では、話題にも議題にもならないで、旗と歌は、堂々と会場に設置されている。教育としてどうかの論議もないことは、学校の、教員の堕落であろう。若いものは、都教委の通達すら知らないものもいることだろう。


「卒業式のシーズンがきました。子どもたちが自らの成長を確かめ合い、新しい旅立ちへと決意を新たにするときです。その門出をみんなで祝う式にしたいものです。子どもの思いを台無しに「日の丸・君が代」への起立・斉唱の異常な強制によって、子どもたちの思いが押しつぶされ、教職員が監視され萎縮するような事態が、各地で起きています。

 卒業生と在校生、保護者、教職員が向き合い、壇上には卒業生の作品が飾られる。そんな卒業式が、東京都では教育委員会の2003年の通達で認められなくなりました。壇上には「日の丸」を掲げ、全員がそちらを向かなければならないというのです。
異常な強制は他の地方にも広がりました。大阪府では府教委が13年に、校長らが卒業生をそっちのけにして、教職員が「君が代」を歌っているか口元を確認するよう通知しています。北海道では道教委が、「君が代」を「他の歌と同様」の大声で歌うよう子どもたちに指導しろと校長らに命じています。いったい何のため、誰のための式なのでしょうか。

 「日の丸・君が代」については多様な意見がありますが、それらが侵略戦争に突き進んだ日本のシンボルであったことは歴史的事実です。起立したくない、歌いたくないという教職員や子どもは当然います。宗教上の理由で「君が代」は歌えないという人、日本の侵略を受けたアジア諸国出身の人もいます。政府は1999年の国旗・国歌法制定時に「強制はしない」としていました。「日の丸・君が代」の歴史やそれに対するさまざまな思いを考えると重要なことです。だから03年以前は、式の前に「君が代」斉唱について、「内心の自由がある」ので強制ではないことを子どもや保護者に説明する学校がありました。ところが都教委はこれも禁止してしまいました。

 「君が代」斉唱のさいに起立せず処分された東京都の教職員が起こした裁判では、12年1月の最高裁判決以来、減給・停職の処分は重すぎるとして、取り消す判断が続いています。これらの判決は、強制を「合憲」とし、戒告処分を容認しているという問題はありますが、起立しなかったのはそれぞれの「歴史観・世界観」によるものだということを認め、自らの信念に従って誠実に行動する教職員を重い処分で追い詰めるやり方に、一定の歯止めをかけています。
ところが都教委は、裁判で減給などの処分を取り消された教職員に対して、改めて戒告処分を出して、執拗(しつよう)に強制を続ける姿勢をとり続けています。その執念深さは尋常ではありません。都教委は一連の裁判の結果を真摯(しんし)に受け止めるべきです。

教育に自由な雰囲気を
教育は人間的ふれあいを通じて営まれるべきもので、自由な雰囲気が欠かせません。そのかけがえのない自由を奪うことは許されません。卒業式や入学式は、それぞれの学校で子ども・保護者・教職員が話し合って、子どもたちの新たな出発にふさわしいものにすることが本来のあり方です。
憲法や子どもの権利条約が保障する思想・良心の自由、表現の自由、信教の自由を侵し、子どもたちのための式を台無しにする強制は、直ちにやめるべきです。」(赤旗)
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中1男子殺害事件 たくさんの視点で

2015年03月01日 23時05分57秒 | 教育を考える
まだ捜査中で、軽々しくはコメントはできないが、不可解なこと、また解明させたいことは山ほどある。

①痣まで作った彼を、両親は、まわりの大人は、なにをしたのか。気付かないはずはないと思えるのに。
②学校の対応はどうだったのか。情報は入っていなかったのか。
③友人が18歳の少年宅に訴えに行ったときに、警察に通報されて、警官が訪問したのだが、なにも感じることはなかったのか。
④18歳の少年は、もと「いじめられっ子」だとの情報もある。典型的な転化だが、そこを掘り下げて検討したい。
⑤グループはどのようにして作られ、どういった活動をしていたか。結束のもとはなんなのか。どんな「掟」があったのか。

痛ましい、そして繰り返してはならない事件である。
とくに学校教育との関連では、他人事ではない。
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建国記念の日は私にとっては「祝日」ではない

2015年02月11日 08時44分15秒 | 教育を考える
「建国記念の日(けんこくきねんのひ)は、日本の国民の祝日の一つ。2月11日。 神武天皇(その即位日だけでなく実在さえ現在の歴史学では、史実であるとは考えられていない)が即位した日を日本の建国された日として祝うこと(紀元節〔きげんせつ〕)は、戦後占領軍(GHQ)の意向で祝日から削除された。 しかしその後、紀元節を復活させようという動きが高まり、反対する動きを抑え建国を記念するための祝日を設けることになった。 その際「紀元節」から「建国記念の日」に改正され、1966年に国民の祝日に認められて、翌年から適用された。」(Wikipedia)

 休みの日というのは魅力的だが、平等という観点からして納得できない存在しての天皇の、しかも学問的にはなんの根拠もない「建国の日」を祝うほど、私はおひとよしでも愛国者でもない。
 前にも書いたが、天皇がらみの祝日には、自分に「仕事」を課している。
 
 日の丸、君が代のなしくずし的な許容の風潮もそうだが、戦争につながるだろうと思われる「芽」を感じたときには、それを丁重に固持する。そのくらいの矜持を持っていたい。
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「君が代・日の丸」を押しつけられて

2015年01月17日 09時21分30秒 | 教育を考える
東京「日の丸・君が代」処分取消訴訟(3次訴訟)原告団・弁護団の声明である。
「ちょっと処分は厳しいよ」程度の判決であり、本質的な「思想・信条の自由」「不当な支配の禁止」などについては合憲として認めているなど
たぶんに不満の残るものであるが、そんな「たいしたことない」裁判官をもってしても、都の処分は間違っていると認定したのだ。
良心は、なかなか裁判には反映されない。

「1 本日、東京地方裁判所民事第11部(佐々木裁判長)は、都立学校の教職員50名(以下、「原告ら教職員」という)が「日の丸・君が代」強制にかかわる懲戒処分(戒告25件、減給29件、停職2件)の取消しを求めていた事件について、各処分のうち、減給及び停職処分については、いずれも東京都教育委員会(以下、「都教委」という)の裁量権逸脱・濫用に当たり違法であるとしてこれを取消す原告ら教職員一部勝訴の判決を言い渡した。
2 都教委は、2003年10月23日通達(以下、「10・23通達」という)及びこれに基づく職務命令により、卒業式等における国旗掲揚・国歌起立斉唱を教職員に義務付け、命令に従えない教職員に対し、1回目は戒告、2、3回目は原則減給(1~6ヶ月)、4回目以降は原則停職(1~6ヶ月。例外的に4回目に減給6ヶ月あり)と、回を重ねるごとに累積加重する懲戒処分を繰り返し、さらに「思想・良心・信仰」が不起立・不斉唱の動機であることを表明している者に対しても反省を迫り実質的に思想転向を迫る「服務事故再発防止研修」を強要する「国旗・国歌の起立斉唱の強制」システムを実施してきた。
2012年1月16日、最高裁判所第一小法廷は、これらの処分のうち、「戒告」は懲戒権の逸脱・濫用とまではいえないものの、「戒告を超えてより重い減給以上の処分を選択することについては,本件事案の性質等を踏まえた慎重な考慮が必要となる」とし、実際に下された「減給」及び「停職」処分は相当性が無く、社会通念上著しく妥当を欠き、懲戒権の範囲を逸脱・濫用しており違法であるとした。本判決は、この最高裁第一小法廷判決の内容を維持したものである。
原告ら教職員の受けた減給以上の懲戒処分を違法としたことは最高裁に引き続き、東京都が実施してきた「国旗・国歌強制システム」を断罪したものであって、都教委の暴走に歯止めをかける判断として評価される。しかしながら、2006年度の規則改訂により、2007年度以降に戒告処分を受けた本訴原告らは、2006年以前に減給処分を受けた場合以上の金銭的な損害を受けているのであり、その実質的な検討をしないまま、形式的に2012年最高裁判決に従った判断を下したことは真に遺憾である。
3 更に、本判決は、10・23通達・職務命令・懲戒処分が、憲法19条、20条、13条、23条、26条違反及び教育基本法16条(不当な支配の禁止)に該当し違憲違法であるとという原告ら教職員の主張については、従前の判決を維持し、これを認めなかった。また、原告らの予備的主張(国家シンボルの強制自体の違憲性)には何ら言及しないまま合憲と結論づけている。さらに、原告らの精神的苦痛には一切触れることなく、都教委に国賠法上の過失はないとして、国家賠償請求も棄却した。
これらの点は事案の本質を見誤るものであり、きわめて遺憾というほかはない。」
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「毅然とした指導」「強い指導」に翻弄される教師たち 序

2015年01月15日 00時51分26秒 | 教育を考える
最近、「毅然とした指導」「強い指導」という言葉が、現場で行き交っている。
エスケープや非行など、教師側として「手に負えない」事態が進んでいるといった事情も、その背景にあるのだろうが、非常に違和感のある言葉である。
漠然とした言葉であり、その受け止め方は人それぞれで異なる用語であるが、簡単に言えば「有無を言わせぬ命令」とでも言うのだろう。
問答無用で、子どもを屈服させることは、教育の敗北を意味するものだろう。

しかし、それに対して異議を唱えるものは、ほんの一握りである。
もともと教員は「真面目」であるだけに、さらにやっかいである。その言葉を受けて、ひたすら子ども達に抑圧的に振る舞ってしまう。
違和感を覚えつつも、「これだけ熱意をもって指導した」とひた走るのである。
そうすると、ますます子どもとの距離は広がり、指導すればするほど、教室内の溝は深まっていくのである。

私の学校も残念ながら、管理職も生活指導担当も、一途に「きまりを守らせる」ことだけに突っ走っているようである。
「きまりだから守らせる」
そんな発想から抜けられないのである。

後日、さらに検討していこうと思う。
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学校の劣化を憂う

2015年01月10日 08時19分27秒 | 教育を考える
来年度の教育課程を話し合う中で、私にとってはおそらく初めて聞くような発言が飛び出した。

1つ目は、こんな発言である。
「みなさんは時間にルーズです。会議の時間にきちんと集まっているのは、全体の3分の1。教員として恥ずかしいことです。」
「会議に遅れないように、例えば体育などは着替えの時間もあるので、授業を少し早く終わらせるようにして、会議に間に合うように子ども達を
下校させてください。」
前者は校長から。後者は、それを受けての教務主幹から。

その発言のあとに、私が発言。
「会議のために、子どもの授業を端折るということは、本末転倒ではないか。時間のない中で、少しでも早く会議を始めたい、講師がいる場合など失礼に
ならないかということは分からないでもないが、授業を軽く扱って、会議を優先的に考える発想はやめてもらいたい。みんなそれなりに会議に間に合うように努力しているのだから。無理ならばやむなく開始時間を繰り下げるしかないのではないか。」

2つ目は、明らかに「個人攻撃」とも言える発言が、堂々と出てきたこと。
「学年で打ち合わせしたことを守らない人がいて迷惑を受けた」的な発言が、学年主任から。
これは発言ではなく、書面で書いてものをまとめてプリントした中にあった。
幸いに同僚が、
「こんな個人的なものは、ここの話し合いにはふさわしくない。ここでこのように書くこと自体間違っていると思う。」
と発言してくれた。私も言うつもりでいたのだが、この発言につきる。
ただ本人が欠席していたので、どう伝わるか。または伝わらないかもしれない。気になる学年であり、学年主任が、2人の若い教師に対して、
1人には「寵愛」し、1人にはほとんど「無視」のような対応をしている。主任のわがまま、気ままを放置してきた私たちも反省しないといけない。

相変わらず若い人の発言がない。
従順とまではいかないにせよ、批判的な精神と、教師としての誇り、怒りを失っているかのようなふがいない彼ら、彼女らである。

もっともっと私たちの背中を見せていかないと。
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同調せざるを得ない連鎖を断ち切る

2015年01月05日 23時32分39秒 | 教育を考える
私の学校でもそうだが、教師は「超多忙」といってもいいほど、過酷な勤務条件にあえいでいる。
したがって、例えば1人の親が担任に、我が子の指導の仕方、指導法の是非などで、執拗に問い合わせ、
食い下がると、連絡帳での返事、その前段階での学年での対策についての話し合い、管理職への報告をしたり助言を
受けたり・・・とで、あっという間に「容量オーバー」となる。それはそのまま日々の授業に反映し、目に見えて
クラスがガタガタとなってしまう。
さらに管理職から、「指導不足」「使えないわね」とでも言われようとしたら、同僚から「なにやっているんだ」「毅然
と指導しなさいよ」などと言われるものなら、なおさら致命的である。
クラスの指導は、突如管理的となり、担任の笑顔は消え、クラス崩壊は加速度を増す。
そんな事例を見ているものだから、軒並み「横並び」により「出る杭」にならないようになる。
問題が起きて、そこからが教育のしどころだという発想は後退し、「問題を起こさない」クラス作りへと軌道修正していく。
驚くほど静かなクラスこそが「すぐれたクラス」だという錯覚に陥る。
「きまりだから守る」といった発想で、子どもを縛り始める。
静かで、受け身の子ども、一糸乱れずに同じ行動をしているクラス、その大量生産だ。
残念なことに、それを「よし」とする親が増えている。

先生は、ちょっと先に生まれ、ちょっとだけ生きてきた兄貴、そんな立ち位置で教員生活をしてきた私には、最近の教師が
鼻を高くして、静寂で従順なクラスを作っていることに、我慢ならない。

政治的無関心が多いのも、国をどう変えていくかのビジョンも方法ももたない国民を大量に作りだしているのも、元はと言えば、みんなお前ら
が原因なんだよ。

そんな気分だ。
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また・・・

2014年10月31日 09時59分02秒 | 教育を考える
毎年、病休の職員が出る、不名誉な我が勤務校
今回も、女性職員が「とりあえず検査・手術」をと、今学期いっぱい休職することとなった
もしかすると、今年度いっぱいになる可能性もある

さびしいことは、
「まったく、こんな忙しい時に・・・」
といった管理職の姿勢である

補充をどうするか
この学年は、もう1人が代替の若い人
主任さんは、子育て真っ最中の方
すでに彼女は、不安の極致にある

来月は展覧会だから
具体的な計画・準備・打ち合わせも欠かせない
個人面談もどうするのか
通知表は?

きめこまかな対応の難しい管理職に
うさんくさいと思われながらも
注進していくしかない
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生徒の伴走者として

2014年08月21日 12時04分41秒 | 教育を考える
夏休みの最後の「研修」として、いまから楽しみにしている映画がある。
ちょうど、レーバーネットに映画評が掲載されているので、それを引用させていただきます。
私の見た感想は、後日に。

「私は、教育労働者である学校教師の仕事は「生徒の伴走者」であると、常々思っている。
 ジョゼッペ・ピッチョーニ監督のイタリア映画「ローマの教室で~我らの佳き日々~」を観た。マルコ・ロドリ原作「赤と青」のこの映画は、イタリアのローマにある公立学校に勤める3人の教師の半年間の物語である。
「教師の仕事は学校内だけで家庭には立ち入らない」というジュリアーナは、教師たちに苦言を呈しながら、自らも真っ先に出勤し学校内のトイレや施設を点検する真面目な女性校長。ある朝、体育館でせき込みながら寝ている男子生徒を発見し、病院まで連れていくのだが、その生徒のたったひとりの肉親の母親が何日も帰ってこないということを知り、どこまで面倒をみたらいいか悩む。
「生徒にやる気を起こさせる」と情熱に燃える男性国語補助新人教員ジョバンニは、教える詩の意味を考えさせようとして生徒たちから反発をくらうが、生徒全員の名前を覚え、やがて生徒たちから信頼を得始める。ところが一番反発する女子生徒の身の上に同情しすぎて、立場が悪くなる。
「生徒はみんな頭がからっぽ」と嘆く情熱を失った皮肉屋の老教師フィオリートは、短期間しかつきあわない生徒の名前を覚えても無意味、また詩の意味を生徒に教える必要はなくリズムよく朗読させることしかしない。ところが記憶にない女性の卒業生から留守電がはいり動揺する。
 そして物語はそれぞれ展開するのだが、3人はなかなか思い通りにならないのだが、最後に3人とも「少なくとも一人以上の生徒の伴走者」となっている。3人とも異なる個性を出しながら教師の仕事を果たすのである。
 そして、実は3人は、佳き仕事を果たすためのヒントを生徒から借りているのだ。 この映画はエンドロールが始まっても絶対に席を立たないでほしい。 そこに大切なメッセージが隠されている。
 さて、憲法違反の教育への政治介入により、理不尽な強制が押し付けられている現況の日本の教育現場で、教師たちは上意下達の指示の中でしか考えることができず、生徒たちから見ても没個性の金太郎飴になってしまっている。この映画の3人のように「生徒の伴走者」という教師の仕事を果たせるのであろうか。
 この映画の謳い文句は 「答えはひとつじゃない。人生色とりどり。それぞれ好きな色があっていい」である。 日本の教育労働者よ、生徒たちのために頑張ってほしい。」(ジョニーH)


「ローマの教室で~我らの佳き日々~」(配給・クレストインターナショナル)は、 岩波ホールで8月23日(土)よりロードショー
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介入

2014年08月17日 11時52分05秒 | 教育を考える
 子どもたちに「これは教えるべき」「教えてはならない」と、権力側が指図して、いいことはひとつもない。
 そんなことは自明の理だったはずが、神奈川で、東京で、堂々と行われている。
 ここにも、戦争による日本の犯した「加害」について、まったく反省することのない、事大主義の大人の存在がある。
 いまや、学校現場では、議題にすらなることのない「日の丸・君が代」。
 「国があるから愛せ」ではなく、「愛される国」にするために努力すべき大人が、こんな腰砕けでは、日本もおしまいだ。


「神奈川県教育委員会が、県立高校で使用する教科書について、実教出版の日本史教科書を選定しないよう副校長と教頭を対象にした5月の説明会で指示していたことが、16日までにわかりました。

 「公正な教科書採択を求める県民の会」(岡本清弘代表)が情報開示請求で入手した文書で判明しました。

 同教科書が「日の丸掲揚・君が代斉唱」について、「一部の自治体で公務員への強制の動きがある」と記載していることを県教委が問題視し、各学校での教科書選定に不当介入してきたことを裏付けるものです。

 今回、公開されたのは、5月14日の教育課程説明会に対する14校の復命書(校長らへの報告文書)です。

 これによると、川崎市内の高校は、県教委側の説明について「実教出版『高校日本史A』『高校日本史B』は採択しない。候補にあげることも不可」と報告。別の同市内の高校も「実教出版の日本史A、日本史Bは不採択にする。再考にならないよう候補にも載せないでもらいたい」としました。

 岡本代表は「教員は生徒の顔を思い浮かべながら教科書を決めます。県教委の指示は、各校の主体的選定作業を阻害し、教員の教育活動そのものを否定する暴挙です。指示の撤回、日本史教科書の選定のやり直しを行うよう求めていきたい」と話しています。」(赤旗)



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