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これからの、私の読書環境2023年3月春

2023年03月04日 10時04分46秒 | 読書・本を読む事への楽しみ誘い。日蓮正宗御本。その他一般著作物電子書籍・辞書類
 今年の三月になり、私は私の読書環境を見直す事にした。
この三つの主要なキーポイントとして、今までの「積読」の弊害とはキッパリとお別れ、自身の重大な関心事として、これら三冊(うち、一冊は上下巻なので正確には四冊)をこれから読んでいく事にする。

まずは「竜馬がゆく(司馬遼太郎)」は、最初の巻、第一巻に又もや戻り、最初から読んでいく事にした。
この書は、歴史物であり、継続して読まねば、そのおおよその輪郭が判らない。いわば続き物であり、継続は力なり、の最たる小説だと思う。おまけに、この書は、全八巻であり、これを、途中で一度投げ出して、また、途中から読み進めるのは、話の筋が全く見えず、その継続性を何ら保証は出来ず、困難を極める事を予想して、そういう結論に至った。(註:やはり、ここに書いてある事は実行はしない。以前、この、最初の第一巻の第一頁に戻るやり方を、吉川英治著「三国志」でやり何度も大失敗したので、ここで表記し、書いたやり方は取らない。そのまま、第二巻をそのまま、読み通してゆく。)。

あとの、五木寛之先生の「青春の門」は、大体、非常に強い印象で、私の胸の中に、有り有りと、その文章、文体が心に強く印象付けて、残っているので、私の記憶力を頼り、早い事読んでしまった方が良い。

そして、長年の懸案であった、「遠き落日(渡辺淳一)」は、これは絶対に、福島県民ならば、世界的な医学博士、「野口英世」のお話なので、非常に興味深い。これを読まずして、福島県民を名乗れようか、って話。福島県民ならば、野口英世の事績が、とうとうと、立派に流れる川の如くに、この、野口博士の言葉や、人生を語れないならば、それはもぐりか何かと疑われても仕方がない。だから、私は、野口英世の、人と、なり、人生が知りたいし、これらを、これから、並行で読んでいくか、一冊ずつ、一書の人となり、読み込んでいくか、迷っているが、自分で決める事柄だ。

それにまだ、読む本は沢山あり、電子書籍の、アマゾンで購入した、kindle fire HDの中に入っている、著作群をも読み進めなければならない。

それから、和歌・短歌の、「古今和歌集」「新古今和歌集」をも、これは歌だから、いつでもどこでも読める気軽さ手軽さがある。これらは紙の本だが、電子書籍でも、俵万智の、「サラダ記念日」や、「はじめての短歌(穂村弘)」「考える短歌(俵万智)」等々、沢山、短歌の本、電子書籍を、アマゾンで私は買っている。それに、「万葉集」の電子書籍もダウンロードしたので、これも短歌・和歌であり、これも読まねばならない。
まあ、短歌・和歌は、そもそも、一首一首が、独立した単元なので、途中からでも、最初からでも、何度でも、没入する事が出来る。それが日本の和歌・短歌である。

それに、「バカの壁」の「壁シリーズ」の、養老孟司先生の「ヒトの壁」も購入。これも少し読み耽っている。

それから、齋藤孝先生の「心が強い人はみな、『支える言葉』をもっている」という御著書も購入、電子書籍でダウンロードした。これは、一か月三十日間で、偉人の遺した、素晴らしい言葉で、この三十日間をそれら名言を元に、メンタルを鍛えようという、素晴らしい御本である。これも、少し、読み進めている。

先日、郡山駅前にて、「男どき女どき」という、向田邦子さんの、短編プラス、エッセイを購入。

この時の、先日亡くなられた、「永井路子」さんの「北条政子」。これらは紙の本だが、この二冊、特に永井路子さんは、歴史物を得意として、女司馬遼太郎、女性目線から歴史をたどり、綴っている。

向田邦子さんの著作で、電子書籍で、多分エッセイ本だと思うのだが(違っていたらごめんなさい)短編集なのかも分からないが、とにかく、ダウンロードで「父の詫び状」というものを、これもアマゾンで購入。うちは昔から、アマゾン派である。

それと、メルヘンチックな「星の王子様(サン・テグジュペリ)」というのもダウンロードした。

この間から、私とお寺の諸先輩との、無用、無駄な争いごと、この一か月を過ごす原因結果と成ってしまった、その方の著書、Twitterで、私の言葉の用い方が非常に悪く、決してこの著者のせいではないのは百も承知。自分、私が疎く、バカ者であるから、そうなったが、その、精神科医Tomyさんの「一秒で不安が吹き飛ぶ言葉」という著作。これは、メンタルが弱っている時に読むと、非常に心がすっきりとする。しかし、このまま額面通りに、それをオウム返しに、人を炊き付け、人様を、「あんたはこうだ」と勝手にこうだ、との、書物を人様に攻撃する材料にする、私の心根は、非常に腐っている。大悪質だ。大遺憾だ。大反省だ。

「怒りが消える、心のトレーニング(安藤俊介)」というアンガーマネジメントの、怒りをコントロールをする御本も、図書館で見つけて、それを返却して、良い本だったので、再び、今度は、アマゾンから電子書籍で又買った。

「だましの手口を一挙公開、マインドコントロール(弁護士・紀藤正樹)」、この本は、カルトセクト宗教のコワさを懇々と説いている。凄い本。これも電子書籍、アマゾンキンドル。購入。

「死は存在しない、最先端量子科学が示す新たな仮説、人生が変わる一冊。死後、我々はどうなるのか(田坂広志)」も購入。電子書籍。

あとは、戦前戦中の教科書、「初等科修身」「初等科地理」「初等科国語」」「初等科国史」「中等歴史」「国民禮法」等々の、これらは、戦前の方が、道徳的にも優れていた、何よりの証拠の、電子書籍群。素晴らしいの一言。

あと、「遠き落日」でも出て来た、作家で医師の、渡辺淳一さんの「鈍感力」。この本は、一度紙の本で読んだが、いいことが結構書いてあったので、電子書籍で再購入。

国文学では、古文の「平家物語」「枕草子」「徒然草」「土佐日記」「古事記」先程も述べた「万葉集」等々。これも購入。

あとそれから、敵側宗教、敵性宗教、キリスト教の『聖書(口語訳・文語訳、旧新約聖書全一巻)』を、何と90円位で購入。アマゾンの特売か何かセールだったのか。うちのお寺の、日蓮正宗無量山寿海寺の、御住職様も相手、敵方を伺い知らなければ、何も誰も折伏も出来ない。だからそれらの、いわくつき、謗法の本などは、破折しながら読みなさいと直接指導教師・御住職様からの御指導、御教導、御教示を受け頂き、お墨付きを頂き得て、公認されているので、一安心だ。私には、指導教師・御住職様の言いつけを守り、ちゃんと、それら邪教に決して染まらず、折伏行のお供に出来得る、との確信を抱き、敢えて購入させてもらった。批判的に破折して邪教の情に流される事無く、何がキリスト教の悪、間違いか、をハッキリさせて、読みたい。

我が日蓮正宗の御書も、これは不敬かも知れぬが、御書が、電子化されたら凄いと思う。高くても、日蓮正宗の御為に、私は電子版御書をためらう事無く、購入するだろう。

そして、最後には、ナポレオン・ヒルの、「思考は現実化する」。これも電子書籍。これを読んで、人生成功した、と述べる人、多数。私も、その噂を聞きつけて、無事購入、ダウンロード成功。これ、この書籍から手始めに読んでも良いのだが、何分、いかんせん、読む本、電子書籍にしろ、紙の本にしろ、うちには、腐る程、大量の読む本があるから、大変だ。

中には、うちに来るヘルパーさんで、これ売ればお金になる、など、変な知恵をつけたがる人も稀にいるが、そんなお節介言われても困る。何でも、お金で換算して考えるのは、貧乏根性、乞食根性だ。全ては、お金では解決できない。そこには、その本達には、私の無限の、本を買うまでの数限りない思い出がある。一種の記憶装置だ。だから、絶対に手放せない。やっては成らぬ事だ。

以前、私は、小遣い欲しさに、我が家にあった大量の本類を、二十冊近く、近所のブックオフに、売りに言った事がある。
中には、母がこれから読もうと取って置いた本や、私もまだ読んでは居なくて、これから読もうとしていた本など、多数あった。

これを売ったのは、私の手落ち、失敗であった。今から取り換えしようにも、その題名も書名も、今では全く分からない。これは愚かとしか言いようがない。しかも二束三文で、全くの、スズメの涙の様な、買い取り額であった。これだったら、こんなのならば、初めから売る理由も結論にもならない。売るだけ無駄である。

私は、本というものは、本当に、一期一会の、大変な巡り合い、巡り合わせの妙がそうさせる、大変な、一生に一度の出会いに似ている気がする。とにかく、本を読む、という行為は、貴重であり、尊い。その姿勢を、本を読むという行為を、一貫して取り組み続けてゆくうちに、人格が陶冶されて、人徳も積めて、素晴らしい人生へと、人を向かわしめる事、請け合いだ。

人は、学ぼうとする意志を持ち続け、学び続ける限り、その人生の途上でも、一生、一介の名もなき学者である。万人が、老若男女が、学者と成れる、成り得る存在である。

学ぼうとする限りに於いて、人は皆、学者たり得るのだ。一生の間の全てが学びの機会であり、生涯学習・社会大学・人生大学の、人は皆、誰もが学者なのだ。誰もが学者に成れる。人の一生に、学歴など、へったくれもない、どこ吹く風、である。

松下幸之助さんは、小学校しか出ていなくても、立派な、松下電器、ナショナル、パナソニックの、大企業、世界企業の、卓抜なる稀代の企業経営者、経営の神様であり、その配下に、松下さんが率いる小学校卒業者が会長としてトップに君臨し、その下に大学出の、東大京大北大東北大、大阪大九州大早稲田慶応上智他などなどの、並み居る高学歴者を支配し、従えて、立派に統率した。これは、現代の逆転現象であり、詰まりは、学校学校の、学校学歴第一主義崇拝の敗北を意味する。面白い現象ではないか。実に痛快ではないか。

私は現代では、特にこれからの世は、学歴が無意味化する、私も一応、大学まで通い、中退した、学歴偏重社会の中の申し子、学歴には自分自身、結構こだわってきた方だが、学歴無意味化の、この世の趨勢には、逆らえなくなってきている。学校学校と、ガッコウが全ての人間の詰まらなさ、情けなさ。「ガッコウしか自慢できるものがない」哀れな人間達。

日本では、次第に、学歴は、大学医学部・医師などの、専門性、熟練を要する職種の学部以外は、これからの時代は見向きもされなくなる。特に文学部や経済学部、それから、合格者数・率が膨れ上がり、それだけ多数が法律家と成り、今では全く価値の無くなった司法試験における、その総元締めの、大学法学部、法科大学院なども、時代遅れ、趣味の一環で、それらのモノ好きが通う学校に成り下がる、という時代の訪れの予感が、大であり、今は実感として大いにある。今は、学校、通えんだったら、どこだっていいんじゃない。どうせ東大に行ったって、相当、悪知恵付けて悪人となり、重要な社会的ポジションの、役人や経営者等々が、悪事を為して、犯罪者で捕まる人もいる現代。犯罪者を生み出すために、わざわざ明治時代に東大を作った訳でもあるまいに。学校学校人間は、すこぶる現代では、情けない。ガッカリするよ。学校しか自慢できない人間は。自分含めて。これは最大限の、自己批判だよ。

閑話休題。それはさておき。…。話は代わる。

ことばは人を代える。人に革命を引き起こす、下した種の様なもの、その人を支配し、また、それら知性・知識が、何度も言うが陶冶されて、磨かれて、智慧ともなり得る。素晴らしい体験が、読書を通して行われ、花開き結実する。人生が、実り多きものとなる。知識が、智慧となる。熟成の時を待ち、ひたすらに、読書に打ち込む。趣味が読書とは、かようなものだ。

ろくに、労力など手間ひまなどいらずに、この場、この地点に居ながらにして、古今東西の、名著に触れられる。著者の皆が、時代を越えて、挨拶してくれるようなもの、否、それ以上の、人生をも、人としての生き方をも、教えてくれる。それらは、大変に得難い、貴重な体験となる。

読書をするだけで、人の何倍もの人生を代わって深く味わい楽しみ、その人の人生、生き様の、追体験が本当に出来る。

たかが読書、されど読書である。読書を笑う者は、己の無知により、読書に泣く事になる。それだけ、子供も大人も、老若男女の、皆に必須の、素晴らしい実りある体験を頂ける無量の最高至高の行為、所業、体験が、正に「読書」なのである。読書、万歳!!

あとは、私のユーチューブ動画で、撮影中に、別のカメラで、撮影中のカメラを撮った写真。
あとは、PCの待ち受け、というか、日替わりで代わる、マイクロソフト社の、パソコンの背景の絵、写真、壁紙。これが大層、白熊の親子が、かわいくて、パチリと写真に納めた。
あとは、kindle fire HDの、使い勝手の良いタブレットの画面表示です。
アレクサ、と呼ぶと、キンドルの中の「アレクサ」がいつでも反応し教えて答えてくれる。頼もしいアマゾンタブレット。そこで「日蓮正宗って知ってるか」と聞くと、こんな画面を、「アレクサ」は紹介して来た。大体の輪郭は合っていて、創価のように、御宗門を貶めてなんては全くない。偏っては居ない。これも、こういうのも、ありか。
手前は、一般出版社の「新書」の類。岩波新書、ちくま新書、PHP新書、新潮新書、角川…。

日蓮正宗ついでに、今年、否、去年暮れごろから、正宗・御宗門関連の書物、著作を購入し続けていて、まだ読んでいない本がこれだけ、多数に上る。それに加えて、何が忙しいのか、去年の十一月半ば分位から、読んでいない機関紙新聞がここ何か月分にもなってしまっている。これも、心して読まねばならぬ。私は、非常に忙しい。本当ならば、こうして、ブログ更新などに、うつつを抜かす、詰まりは、私の場合は、今現在は、何も自分の心の中が、空っぽの状態で、入力インプットが疎かで、出力、アウトプットばかり派手にやっている。

これは、大いに、読書の時を持って、自分の人生の肥やしにしなければいけない。こんな時にも、「ブログ」など書いているヒマなど、無い筈なのである。

しかも自分は、長文著述、長文著作の、駄文を書いて、一人悦に入る始末。これでは、自分の労力、手間暇が、失われてしまい、人生徒労に終わり、お寺にも満足に通えずに、人生が後悔の、人生が失われた時の大事さに、やっと気付いて来た。
しかし、いまだに駄文を書いていて、この反省は、今の私には、全然生かされてはいない。
恐らく、誰も読みはしない、読んではくれないこの駄文を書いて、人生とは、何と言っても、百年時代だとか言っても、それは建前であり、振り返れば、胡蝶の夢の如くに、過ぎ去って振り返り見れば、儚く、もろく、短い。
暫く、この、ブログ記事も、毎日更新じゃなくて、数日おき、或いは、十日置きでも、一向差し支えないのではないのか。
自身、あんまり、獲得読者数など、気にしない、気にしたって、元々が宗教ネタの、駄文を書き連ねた、文章群の弱小ブログであるからして、あんまり、期待もそれ程にはしなくなり、最近では、飽きてはいないんだが、飽きも来ようというもの。

他の、趣味も一杯持っている自分の事。このブログ製作も、ひとまず、一旦、保留というか、お休みは決してしないが、怒涛の如くの、毎日連ちゃんでの、怖ろしい程までのブログ更新からは、是非とも撤退したい。余計な他人様との軋轢を避ける意味でも。

何も、毎日、ブログを綴り、怠らずに更新してゆくのが、偉いという訳では無く、私は私のやり方があり、品格をもって、私の方式は、ブログ主題の下の方の「副題」にもある通り、「不定期ブログ」という形式を元々取って来た。それは、昔、以前の、2009年からこのブログ誕生まで続いた、「日々雑感、わたしが思う、あの事、この事」という、私の書いて来た、今がその延長線上にあるんだが、そこでも、不定期ブログの体裁を取り、マイペースで、文章を綴っていた。

私にとり、毎日更新は、時間のムダであり、時間を有効には使えない負い目を負っている。自分への、最大限の負担ともなっている。生活上、どうしても必要なモノ、要素は、何一つも無い。

ですから、ここらで、長文の駄文ばかり並べて、読者の皆様には、失礼に当たりますが、潮時というか、この辺で、またもう一度、初心に帰り、自身の時間の有効活用、時間の有意義な使い方、使い勝手の良い、生活に再び、「元に戻るだけ!」それは、何にも、皆様にも迷惑を掛けている訳では御座いません。それが言いたかった。今は自身かなりの無理を致して居ると。私は、これは一種の、文章書き、文章綴り、書き取り書き物依存症。ネット日記、ブログ依存症ではないのかと?症状、病気の一種だと今は思います。

是非、それ以前の自分に戻りたい。つきあいとか度外視して…。

とにかく、時間がない。全くない。人生、忙しいという文字は、心を亡くすと書くと、学校かどこかで習った記憶があるが、自分のお人好しから、自分の人生の有意義な時間まで、ブログに時間を割いて当てていいのか?と言う事。

段々、懲りて来ている私がいる。この長文も、きっと、私の一人相撲で、読者の皆様には、ろくに嫌われ、最後まで通して読む人も少ないかも知れません。

でも大事だから、述べたまでです。要するに、私の生き方が、不自由で、容易に言う事を聞かない、自由さが全くない、奴隷か何かの身分に過ぎないという訳です。囚われの身。

そう言っておきながら、こうした長文、駄文をキーで叩く、自語相違。自己矛盾点。これが、文章筆記依存症・まさしく奴隷と同じ事なんだ。

しかし、読者の方々に、勘違いして欲しくはないのが、話は代わるが、「日蓮正宗」の御教え、というものは、決して、「奴隷とか囚われ」とか、そんな、えげつないものでは全くない。

この信心の中にこそ、「自由」「博愛」「平等」「仏様の慈悲・慈愛」に包まれた、麗しい、お寺を中心とした、総本山富士大石寺を基調、根本道場とした、一大仏法仏教教団であり、そこにこそ、人類最終の、悩み苦しみの解決が図られ、皆が幸せになれる、方途が指し示されている。

これに一切の余塵なく、疑わず従えば、皆を救う仏様(末法の御本仏宗祖日蓮大聖人様)の遍く慈悲により、たちどころに皆救われる。

「地獄の苦しみぱっと消え」(御書)、一切衆生を、救い切る立派な御教えが、大聖人様の御教え、大聖人様直系の日蓮正宗にこそある。大聖人様も、我々日蓮正宗信徒僧俗一同、誰もが、最も一番に言いたかった事共なのが、これであります。その御教えの根本道場、宝城が、日本国東海地方静岡県富士宮市上条に厳としてある、日蓮正宗総本山富士大石寺の偉容誇る、一大聖地にまします、三大秘法の本門戒壇の大御本尊様、ただ、この一幅だけなので御座います、我ら全人類を見事、救わんとする大聖人様御遺命の御本尊様は、この、鎌倉時代、弘安二年十月十二日御建立の、あの、大御本尊様、御一幅、たったこれだけであります。
最後はビートルズの音楽。これも、購入済。

以上。よしなに。wainai、誠にまことに、非常なる、長文失礼、御無礼致しました。御免なさいませ。


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