Kaettekita 私が思う あのこと このことReturn(Get Back Part2)

進取究明。日々の雑感を気ままに綴る私なりに思い考え行い実践する不定期の記録。写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ。

ヤマハの白い電子ピアノP-225WH、我が家の台所兼書斎に鎮座まします。私の音響機器・PC・ラジオ・TV事情。日蓮正宗信徒としての留意・注意点。多感だった中学時代を振返り想う※長文失礼

2024年02月24日 12時38分42秒 | 音楽楽器・演奏・歌・楽典楽譜・ハーモニカ・電子ピアノキーボード

 我が家の台所でもあり、私の書斎とも化している部屋空間に於いて、昨日、届いた88鍵のヤマハ電子ピアノP-225WHホワイトが、私の愛用のこれもこたつの上に鎮座ましましている。


 今までPCがその場に大威張りで居ったものが、今ではそれは、簡易の、伸縮式小机上に置かれている。我が家での主役の座が、しかし、パソコンも非常に大事で、重要視はしてはいるが、ここへ来て、その立場が逆転してしまった。

 とにかく、しかし、音楽等を聴く時は、PCか、アマゾンタブレットを立ち上げて、うちのJVCのシステムコンポーネントへ、Bluetooth経由で音楽を聞いたり、ラジオを聴く時は、FMラジオ対応の、AMラジオのワイドFM放送局のラジオ福島、FMふくしま、NHK‐FM、等はこのコンポでいつも聴いている。他にも、CD等も掛けられるので、今度掛けてみようとも思っている。

 AMラジオのNHKの第一と第二放送は、ソニーのポータブルラジオ、AMだけしか聴けない、SONY・ICR-S71という、これは伝説にもなった、名機のラジオで、音もまろやかな、私のお気に入りのラジオで、AMのNHK専用機として使用している。
 まあ、そういう訳でもあり、私は、音の世界では不自由はせずに過ごしている。

 これに、映像のシステムは、我が家では東芝の去年買った、32型のTV、ネット対応、といっても、ユーチューブや、アベマ位しか見られないが、これも非常にお安く、アマゾンで調達した。自分で全部組み立てて、しかも、設定も自分でこなした。衛星放送から、地デジから、皆、私一人でテレビの設定をした。機械には慣れているので、何不自由なく、自分でこなせた。
 とにかく、私は今は、一人の生活を満喫している。本当に何一つ、不自由はない方だろう。

 しかし、ここで重要な点、事と言えば、信心、日蓮正宗の信仰を貫く者にとっては、これらは皆、仮に、時には「魔」ともなり得る、という捉え方で、間違いはないのであろうと思っている。
 それはそうであろう。お経、お題目、勤行唱題、自行化他にわたる、折伏育成にも、やるべき事に何一つ、取り組まずに、そんな自分の趣味の事ばかりを追っかけてやっていたって、それらは詰まる所、六道輪廻であり、どんなに努力をしても本末転倒であり、そんな事ではそれらは決して、今後も公私共に、絶対に身には付きはすまい。
 それだけは大事な点なので、ここで強調して置きたい。それは、今現在の趣味の短歌であろうと、音楽でも、以前のモノの、ハーモニカやカリンバにしろ、私の全ての趣味全般にわたって言える事なのだ。
 時として、「魔」と言うものが、とんでもないモノの身代わりとなって現われ、立ちはだかって来る時がある。
 これらの「魔」が、宗祖日蓮大聖人様も御書で仰られている通り、自分の眷属、親であろうが兄弟であろうが、伴侶であろうが子であろうが、信心の邪魔をして、それはそれは、親であれ女房であれ、心を心底から尽くして、その人を信心から遠ざける如くに、骨の髄までしゃぶり尽くして、退転するまで見届けて、そうして最期まで、もてなす、というのである。
 そうやって、信心から遠ざけて退転させて、一丁上がり、と言わんばかりに、魔は悪の道へといざない、振舞うと言う。
 そんな、「魔」とは、自分が一番気に入ったもの、趣味にしろ、人間関係にしろ、どこからでも、私達の身に付け込み、立ち入って来る。
 魔はいつでもどこでも、スキがあれば、どんな事をしてでも、入って来て、付け入ろうとする。この世は、第六天の魔王の棲家であるとも言われている。「己心の魔」と言う厄介な存在の魔も存在する。いわゆる、獅子身中の虫、である。
 魔とは、我々に、仏道修行を、成仏を、なるだけ、させたくはない、されては困るので、様々な妨害を働く、と言うのである。
 だから、コワいのだ。趣味が、仏道修行の妨げとなるのは、これは悲劇以外の何物でもない。それでは、信仰信心と趣味が、逆立ち逆転状態に陥ったも同然である。
 だから、私などの、多趣味人は、人一倍、気を強く持ち、気を付けて、物事に対処して生きてゆかねばなるまい。
 生活が、人生が、人の一生が掛かっているのだ。これは、日蓮正宗の信心の深化こそが、人生上の、一つの課題、目標である。何が優先するのか。信心こそが最優先させるべき事柄である。
 これに付随して、それら、趣味、楽しみ事が次へと続くのである。誠にこれが我ら正宗信徒のあるべき必須の定石、定理、真理である。

 時間とは、特に人の一生は、この世は、有限であり、無限に存在するものではない。幾ら「三世永遠の生命」、と言っても、この世での私達の人生は一回きりである。これっきりなのだ。誰だって、いつ、人生上の、「ジ・エンド」が迎え来てもおかしくはないのだ。だから「時」は貴重なのだ。寸暇を惜しんで、決して無為に過ごしてはならない。「万歳(ばんさい)を悔ゆる事なかれ」(大聖人様・新編御書)

 「時は金なり」。

 だから、時こそは、何よりも宝物の如くに扱い、ひと時たりともムダにしてはならない。

 ちゃんと、時間を決めて、朝夕の勤行はこの時間。お寺に行くのはこの時間…。との、時間の割り振り、約束事、制約が我々にはあるのだから、その通りに動いていれば、それで話は済み、一日中、気分良く済ませられるのである。

 我が菩提寺の末寺の御住職様が常々、仰られる通り、「何を差し置いても、好き嫌いを一切抜きにしてでも、仏道修行、勤行唱題は真っ先に執り行うのが、正宗信徒の勤め、お決まり事、である。」とのお言葉のまま、私達は突き進むのみである。

 願ったり叶ったりではないか!
 
 何か、大袈裟な話になってしまったかも知れぬが、ちっとも大袈裟じゃない。これらの諸点に非常なる注意をして、魔にやられぬように、我ら日蓮正宗信徒は、これからの信仰生活を気を付けて今まで以上に勇んで送って参りたい。

 それにしても、私は幸せ者だ。こんなに一杯の趣味を抱えて、時間にも追われるが如くに人生を謳歌し何不自由なく過ごせている。
 私は中学生の時、人生には、特に青春時代以降にかけては、何か一つ位は、気に入った趣味を持つべきだ、との思慮、念慮が働き、一生懸命に、自分にどんな、何が自分に合う趣味かを探求し、追い求めてみようと、その、中学の頃は真剣になって、思いめぐらせてみて、実際にここまで来た。
 それが、気付いてみれば、身の回りに、これ程の、多趣味な、粋でいなせな遊び人、と言っては某時代劇(遠山の金さん)みたいで何だが、とにかく、趣味には事欠かずに、多くの趣味に囲まれて生きる事が出来ている。
 あの頃の、趣味には空腹気味の、何を趣味にしたらいいのかを、戸惑い迷っていた、あの中学生時代の自分が、今の自分を見たら、何と言う事だろうか?
 きっと、素晴らしくうらやましい、と自分を自画自賛して憧れて褒める姿が、明らかに見えて現れて来そうな、昨今の正直な私自身である。

 以上。よしなに。自分事に長文多弁になり、極めて失礼を致しました。ここに陳謝をして、自身の度重なる無礼、非礼を、お詫びしたいと思います。wainaiより。


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