諸宗破折ガイド仏教各宗「法相宗」破折 諸宗破折ガイド仏教各宗「法相宗」の破折を朗読しております。先頃行って来た、クラシックコンサートでの楽曲も思い出し、楽しんでいます。以上。よしなに。wainai
今日も、というより、今日こそは、母の施設に何としても行こう、との念慮から、私は自転車を力強く駆け出して、向かった。
この所、四月は相続人申告登記で、法務局だ役所だとうるさく、五月になると、今度はシロアリだ、で、中々母の面倒、というか、心配がまったく手つかずであった事に今日は思い知らされた。
今日の朝、母は、食が細くなりだした母ではあったが、まったく食事を摂らないので、職員さんが気を利かせて、施設内の喫茶店に連れ出して、そこに売っている、何か本人が欲しいものをリクエストさせたという。それで、何と、母は150円の醤油ラーメンのカップ麺を欲したそうである。
そうして、半分ほど食べて、腹を満たしたという。それから、我が家に電話が来て、今度から、あの喫茶店に寄って、何か、本人が食べたいものがあれば、お金を使っても良いか、と職員さんが言うので、勿論、どうぞ、母が望む通りの食品を与えて欲しい、と私からも必死で懇願した。
それで、この、ブログでも以前述べたかもしれないが、母は、とてもバウムクーヘンが大好きだと職員さんから聞いていたので、私はその施設に伺う前に、小さな小分けの個包装のものを、大袋入り全三袋も奮発して、購入していった。
そして、母の部屋に入り、私の夕べの勤行がてら、二人で一緒に、ゆっくりめの、夜のおつとめをした。これには、母も、小さな声だが、少しずつ、お経を、唱えられる所は母なりに唱えていた。
そして、私のこれは、以前はお寺や、福祉事務所のPC教室に持ってゆく、自前のパナソニックの今年中古で安価で買ったパソコンを持ち込んで、しばらく、音楽、曲を聴いていた。大体が演歌で、今の人らしい、山内惠介さんの音楽などを聴いた。
そうこうしているうちに、五時ピッタリとなり、チャイムが館内に鳴り渡り、係りの職員さんが、これにて終了です、と言いに入って来た。
私も、別れを惜しんで、PCを片付けている最中に、母は、私を心配して、「帰りは気を付けてね!」と言ってくれた。
母には以前から、私が自転車でここまで通っている事は私からも言っていた。それが、短期記憶がはかなくも消えてしまう筈の母にしては、これは奇跡と言うのか、我が子がそれ程かわいいのか、との想いにこちらも打たれた。
幾ら、認知症に侵されようとも、母の魂までは負かす事などできやしない。その証左であった。
私は母の心配を打ち消しかき消すように、「じゃあね!」と言って、元気よく颯爽と母の部屋の扉を開き、出て行った。
母との離れ離れの生活は、これで、六、七年となろう。しかし、母子の絆は、離れずに、むしろ強固な結び付きで、お互いを心配し合う仲、関係性の中で私達親子は、これからも生きてゆく所存、覚悟である。
以上。よしなに。wainai
私は昨日、gooブログの、毎日、日記のようにブログを綴る、続けてゆくコツ、のような誘いかけの文句があったので、次のように述べた。
gooブロガーの今日のひとことテーマ:ブログを続けるコツは?
Kaettekita 私が思う あのこと このことReturn(Get Back Part2)
元々文章を綴るのが好きだったので苦にはならない。これが紙の日記なら数年で挫折してる筈。それよりも、好きなのにピアノが全然練習出来ていない。今はこれが深刻な課題だ。
私なりに、お茶目さを出したつもりだったが、その中に、これはどこの誰とは名乗らせたりはしないが、次のような、ブログの書き方のコツを書いた人がいた。以下は趣意である。
大まかに書き、全部、言いたい事を全て吐き出さない。要点をまとめて、形式的に、メモ程度で抑えて、自分を控える。
多少の違いはあるが、こんな感じだったかも知れない。
ここで、私が異を唱えたいのは、短歌や俳句でもないのに、その、文章に対して、余りにストイックに、ミニマリストの如くに、文章にけじめをつける、詰まりは、言いたい事の十の内、二、か、三くらいで抑えて置け、とこういう感じであった。
私も、短歌を習っている関係上、その、短歌の歌と言うものは、主題が何かさえ、そぎ落としにそぎ落として、言いたい事の、十分の三くらい言えれば良い。とにかく、後は、読む人の意見に任せる事だ、とよく教わった。
しかし、散文の、文章体の場合は、ちょっと違うのではないのか。
或る程度、十のうち、八くらいは、説明が要るのではないのか。
私の短歌の先生にも、私がブロガーだと知って、むしろ、私から教えを乞うが如くに、文章には、一定の、説明的なルールが必要なんでしょう?と聞かれたことがある。
それに対する答えは、その通りですね。一応の、説明、簡単でもいいから、読者にどういう意味で自分はこう書いているのか、その状況判断が必要になる、と答えて置いた。
或る意味、説明的な、導入部も必要だし、それを転じて導く、結果結論へとなだれ込む、勢いの様なものも必要だ。
得てして、文全体が、冗長であってもならないが、説明がない文章、勝手に理解しろ、という文は、果たして読者に受け入れられ、読み手にとって、優しく、好ましい文体なのだろうか。
それはくどくないに越したことはない。簡単明瞭を心がける。私のような、話しの良く脱線する者には、言われたくはないであろうとも思う。
しかし、或る線引きで、一定程度の、説明的、読解力を増すための、書き手の一定の努力が必要であり、しかしそれが、ただ想像しろ、との、押しつけが、どこまで功を奏するのか、私は見ものであると、断言してこの文章の十のうち八は言えたものと思うのである。
要するに、緻密に練り上げられた建築物と、プレハブ小屋のような、極めて簡素で、ありふれた、文章群との違いだろう。
以上。よしなに。wainai