台湾民主化の父とも言える李登輝元総統が30日夜(日本時間同)、死去した。97歳だった
終戦後に中国大陸から渡ってきた外省人の蒋介石、蒋経国親子による独裁が続いた台湾で、本省人(台湾出身者)として初の総統に就任。12年間の在任中に直接総統選挙を導入するなど民主化を進めた。
李氏は、1923年、日本統治下の台北州淡水郡(現新北市)で警察官の次男として生まれ、旧制台北高校を卒業後、京都帝国大学農学部に入学、学徒出陣で陸軍に入隊した。
終戦後は台湾大学で農業経済学の研究に従事し、台湾省政府農林庁の専門家として農業近代化に尽くした。アメリカには2度留学し、コーネル大学で博士号を取得している。
農業改革への献身ぶりが行政院副院長(副首相)だった蒋経国氏の目に留まり、国民党に入党。49歳で史上最年少の閣僚として行政院政務委員(農業問題担当)に抜てきされた。
台北市長、台湾省政府主席など歴任後、84年副総統。88年1月に蒋経国総統が死去すると、憲法の規定により自動的に総統に昇格した。
李氏は、90年の国民大会で総統に再選し、守旧勢力との権力闘争を繰り広げながら、民主改革を次々に断行した。
具体的には、総統に超法規的な権限を付与し、独裁体制の根拠となっていた憲法の「反乱鎮定動員時期臨時条項」の廃止や、有権者による総統直接選挙制の導入などで、96年の初の直接選挙には自らが出馬して当選した。
対中関係では、93年に中台双方の窓口機関のトップ会談をシンガポールで実現させ、本格的な交流に乗り出した。
しかし、直接総統選の実施や、台湾と中国は「特殊な国と国の関係」とする「二国論」発言で関係は悪化、総統選直前には、中国が台湾北部海域に威嚇目的でミサイルを撃ち込み、アメリカが空母を派遣する台湾海峡危機が発生した。
2000年の総統選で国民党が敗北した責任を取り、党主席(党首)を辞任した。同年5月に総統を退任。翌年、李氏を精神的リーダーに掲げる政党「台湾団結連盟」が結成されると、国民党を除名された。
その後も政界で一定の影響力を維持し、20年の総統選では、再選を目指した民進党・蔡英文総統を支持した。
「私はかつて日本人だった」と公言する親日家で、退任後は、中国の干渉を交し、01年の心臓病治療をはじめ、「奥の細道」をめぐる旅行などでたびたび日本を訪問した。
18年6月に沖縄県を訪れたのが最後の訪日となった。最晩年は入退院を繰り返し、ほぼ寝たきりの状態に。20年2月に肺炎などにかかっていたことが分かり、台北市内の病院に入院していた。
李元総統は、終生、日台関係の発展に尽力、その影響もあって、台湾は、例えば東日本大震災時には、日本に政府、国民を上げて多くの支援をするなど、日台関係は長く友好状態が続いている。「JIJI.KOM参照」