正さん日記

世の中思いにつれて

野村克也さん84歳で急逝、名捕手、名監督、名解説の話題尽きない野球人

2020-02-11 14:14:26 | スポーツ

 2月11日午前3時30分、往年の名捕手野村克也さんが虚血性心不全のため84歳で死去した。

 今朝、家政婦が風呂場で倒れている野村さんを発見、病院へ運ばれたが既に死亡していたとのことだ。  

 野村さんの長男の克則氏は、死因は野村氏の妻の沙知代さんと同じ「虚血性心不全」だったと明かし、「正直、急すぎて受け入れられないと語った。

 実際に、野村氏はつい先日テレビに出演して、野球のこと、沙知代さん、家族のこと、現在の生活状況などについて語っていた。確かに足腰が弱り余り元気が無かった感じだったが、まさかこんなに早く死去するとは思わなかった。

 野村さんは、1954年(昭和29年)に19歳で高卒テスト生として南海ホークスに入団、めきめきと力をつけ強打、強肩の名捕手としてプロ野球界にその名を博した。

 南海退団後は“生涯一捕手”としてロッテ、西武でプレー。1980年限りで現役を引退した。その後、ヤクルト、阪神、楽天でも指揮を執った。

 野村氏のプロ野球生活は激動の連続だった。峰山高時代は無名の存在。54年にテスト生として南海に入団し、3年目にはレギュラーに定着。63年には52本塁打、65年には3冠王に輝くなど強打の捕手としてチームを支えた。

 80年限りで現役を引退した。野球解説者を経て89年オフにヤクルト監督に就任。データを重視する「ID野球」を掲げてチームを鍛え、9年間で4度のリーグ優勝、3度の日本一に輝いた。

 98年オフ、ヤクルトでの実績を買われて阪神監督に迎えられた。阪神では「ノムラの考え」などの教本を与えチームの意識改革に取り組んだが、結果は出ず3年連続最下位に終わった。

 2001年オフ、沙知代夫人の脱税問題が浮上し引責辞任。しかし、この3年間が03、05年の阪神リーグ制覇の礎となった。

 その後、社会人シダックスの監督を経て楽天監督を務め、09年に退団。現場を離れてからも評論家、球界のご意見番として各メディアでも活躍していた。

 野村氏の選手、監督の通算成績は華々しい。選手としての通算成績は3017試合に出場し本塁打657本(歴代2位)、安打2901(歴代2位)、打点1988(歴代2位)、打率2割7分7厘、65年には3冠王に輝いた。MVP5回、ベストナインは19回受賞した。

 監督としては通算24年務め、南海でリーグ優勝1回、ヤクルトでは、データを重視する「ID野球」で、リーグ優勝4回、内日本一3回を誇る。98年に野球殿堂入りした。

 選手としての野村のすばらしさは、右打ち捕手として超一流の打力、監督として、頭脳野球で特に弱小球団だったヤクルトを4回(日本一3回)も優勝させた。

 愛称はノムさんで、数々のエピソードを残し、中でも大学野球の花形で華やかな巨人・長嶋茂雄氏とたたき上げの自身を比べ「長嶋はヒマワリ。私は浜辺に咲く月見草だ」とたとえた名言でも知られる。

 またID野球、野村のボヤキ、打者へのささやき作戦、長男の克則氏との親子鷹ぶり、妻の故沙知代さんとのロマンスと沙知代さんがタレントになり数々の話題を振りまいたこと、楽天監督時、ドラフト1位の田中将大投手をマー君と愛称をつけ大リーグへ送り出したこと、選手の力を蘇らせる再生工場など話題は尽きない。合掌

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