DREAM/ING 111

私の中の「ま、いいか」なブラック&ホワイトホール

めざめよ、バッカス

2009-01-25 | 日記/備忘録/独り言/その他
ドーパミンによる脳のご褒美システムで強化学習する「私」。他者から承認されることによる快感は確かに大きいけれど他者からの拒絶に立ち向かうことで得られる快感もまたあるのだろう。それが孤立による自己否定・自己破壊に向かうのか、自我強化に向かうのか、そのスイッチはどこにあるのだろう?自分肯定の前提で、やはりどこかで承認された経験の有無が大きいのだろうか。

オバマ大統領の演説で掲げられた課題はそのまま今の日本にあてはまる。現実的かどうか・効果的かどうかは別としても、これまでの演説トーンを“チェンジ”して厳しさを訴える。どこまでも「党」の明日だけを考え、国民に甘い夢をちらつかせ続ける日本との一番の違いだろう。いやもはや「党」の性質がまったく違うのだろうけれど(・・・国民の性質も?)。
いまだに消費税1つまともにアップできないのは、浪費体質が露呈しているにも関わらず、メスをいれたらどこにささるかわからない、もしかしたら自分の悪魔のしっぽにささりでもしたら・・・という自己保身と一族保身以外の何者でもないのだろう。
それともあまりにも病巣は大きく、もし開いたら国民をも巻き込んで破滅せざるをえないのだろうか。

後進国はあとから開く種。日本は滅びる種なのかもしれない。息子が私の年齢になる頃、3人に1人が高齢者だといわれているその頃には、赤ちゃんはいなくなってるかもしれない。物理的・精神的に生殖能力が低下し続けているらしいヒトの問題含め、世界的な人類の破滅への道筋をどう考えるのか、先進国がその反面教師だとしたら、これから開く花には救いはあるのかもしれない。
・・・地球にとってはどっちでもいいことだろうけれど。
個人的には「地球に優しい」などという偽装的発想をやめて「ヒトの未来に優しい」を徹底したほうがよいと思う。たとえその恩恵を自分が被ることはなくても。
オバマ大統領の演説で、「資本主義経済的社会的動物」として当然であるべき「将来への継続的資産移譲システム」が、全然当然でない先進国の憂いを改めて感じた。(・・・先進国って何?と思いつつ)

子どもが減るのは、そうした文明の進化(もしくはそれを過ぎての退化)としての、選択肢の1つなのだろう。遺伝子を残したい(残さなければ)という欲求(社会的圧力・その他含め)そのものが希薄化しているように感じる。「次の世によりよい未来を残そう」という欲求・願望がどんどん希薄になっていると思う。
政府の先送り体質にも顕著だけれど、自分の生きている間だけの繁栄が目的になってしまって、将来に備えるべきもの、どころか、先人が蓄積してきたものすら消費(浪費)してしまっている現状。借金と赤字しか見えない未来に子どもを送りたい大人は減っていくのは当然で、それならば、と「自分(だけ)の“今”」を謳歌する。
その結果の淘汰なのなら受け入れるしかないのではないかな、と思ったり。
そしてそれは多分、「個人」がある側面で充足しているからではないのだろうか。
少なくても物質的には・・・(特に日本では)。

先日。息子に「クオリア」について説明をしていて、そこからちょっと横道にそれて、絶対的な(共通)認識の有無について私の意見を語っていたら、息子のほうがユングの潜在意識論を持ちだしてきた。それがもともと息子が「意識」について思ってたイメージと合致していたらしい。それこそある種の「絶対的な共通認識」だな、と思うと同時に、日本人の危機意識に対するリスクマネジメントの希薄さは、なんらかの「絶対的な共通認識」の欠如もしくは、「大丈夫」という妄想的な共通認識が絶対化しているのだろうか?と考えた。それとも各年代で共通して政治に対する、そして「日本の将来」に対する学習性無気力が発動しているのか?

個人のしあわせ(「最適な選択」)は必ずしも種族全体のしあわせ(「最適な選択」)には通じない。自己犠牲は言うは易いが、行うのは難しい。「囚人のジレンマ」。「絶対的な共通認識」としての自己犠牲の必要性は、個人のご褒美システムには勝てないのだろうか。

ただ、もしそうだとしても、学習のあり方次第では、個人のご褒美システムと自己犠牲のリンクは可能なはず。それが戦争のような愚行に活用される危険は依然としてあるが、もっと純粋に自分を高める喜びに目覚めさせる・スイッチを入れる、そういう機会が求められていると痛感する。そしてそれはきっと「教育」に集約される。いくら時間がかかろうとも、「明日」のためを考えて行動することが結局は今日の価値を新たに意味付けるのだと思う。

個人の個体差含めて「ありのままでいい」というのは、理想の「承認」だが、そこには気づきや発見、改善・改革、進化する喜びは少ない。(このあたりは、追求すると「差別」「格差」問題にも抵触する、ハードルが高い問題だとも思うが)
知ること=上質な知識欲が今一番、子どもたち(そして自分を含めた大人たちにさえ)に欠けている、そんな気がする。(それこそが無目的な“個”性重視を掲げた「ゆとり教育」最大の弊害でもあると痛感する)

TVやゲーム機器がP.K.ディック的な洗脳マシンとして機能している側面があるとしたら「知らされる情報」を人為的にコントロールし、ドーパミンが反応する分野をあらかじめ刷り込んでしまう、そこにあると思う。実際、ゲームプランナーとプログラマーが0と1で組み上げた「RPG」の突破快感は、脳にとっては、実際の苦難を乗り越えたのと同じ快感をもたらすのだろう。それが、あらかじめそのとおりの苦難とご褒美の仕組みとして設定されている=過去完了形の他者経験の残骸であるにも関わらず。(そして、それは書物を含めすべての情報にも多かれ少なかれ発動するゴースト現象でもあるのだけれど、映像情報は五感発動領域がよりリアル体験に近いと思う)。PCゲームは好きなので、ゲームを否定するつもりは全くないが、確かに情報処理という面で考えれば、ゲームをし過ぎた場合による偏りは確実にあるだろうし、それが(他の情報と同様に)脳のご褒美システムに影響をまったく与えないはずはないとも思う。要は情報の質かな、と。

そして、こういうささやかな思考錯誤ですら、TVやネットを契機とするしかないという現状。オバマ新大統領の説演をリアルタイムに(同時通訳で)聞くことができても、アメリカの現状はリアルには体感できない。拍手の量で推し量るしかなく、それもまた日本人である私の脳内判断でしかない。
茂木氏が葛藤するのと同じく、もはや世界中の情報・知識・知見に簡単にアクセスできても、それらすべてにアクセスすることは不可能。広く統合したがゆえに崩壊させられたバベルの塔的葛藤の中で、外からくる情報と、内なる情報(目覚めよ、バッカス)の活発な情報交換による個人の気づきのシステムが、共有化され連携され、より大きな総数の意識に合致していく、そこにいたる発火点が、まずは個人に求められている。

そしてそれはネットで拡大した外部記憶含めての自分自身を、今改めて統合し個人として「考える」、いやそれ以前に個人として「知る」「知りたい」と希求することから始まるのだと感じる。∞

努力と責任感で「どんな嵐にも耐えよう」オバマ大統領の就任演説 全文翻訳 <特集・オバマのアメリカ>(gooニュース) - goo ニュース

参考:
2008年危機:経済学への/からの構造的な教訓(池田信夫 blog)



関連:
最近考えたことアレコレ(DREAM/ING666)
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