習志野の“フランス兵”
久しぶりに、ドイツ捕虜研究者のHさんを訪ねてみました。以下、編集部でうかがったお話です。
アルフォンス・ドーデの「最後の授業 La Dernière Classe」
アルフォンス・ドーデの「最後の授業」というおはなしがありました。昔、国語の教科書で読まされたように思います。
フランスのアルザス地方に住む少年は、今日も学校が嫌で遅刻します。てっきり先生に叱られると思って教室に入ると、先生は怒らず、早く座れと言います。先生は、戦争でフランスが負けた結果、この村はドイツ領になり、フランス語で授業をするのはこれが最後なのだ、と言うのでした。先生は最後に、黒板に「フランス万歳!」と大きく書くと泣き伏してしまったのだった、といった物語です。
陸続きのヨーロッパでは、そんなことがあるのだなと思ったものです。
ドイツ領になったり、フランス領になったりの「アルザス・ロレーヌ地方」
この物語は普仏戦争(1870~71)でアルザス地方(もう一つロレーヌ地方というのがあり、二つ合せてアルザス・ロレーヌ Alsace-Lorraine 地方と呼ばれます。なおドイツ語では、エルザス・ロートリンゲン Elsaß-Lothringen といいます)が負けたフランスからドイツに割譲されたときのものです。その後、第一次世界大戦では、負けたドイツから再びフランスに返され今日に至っています。
この地域、実は習志野と深く関わっている
ところで習志野は、実はそのことに深く関わりがあるのです。
ドイツが負けてアルザス・ロレーヌはドイツ領からフランス領になったため、ドイツ兵として戦ったアルザス・ロレーヌ出身者は戦勝国フランスの国民としてすぐに故郷に帰れた、というややこしいお話
こちらは「歴史写真」という月刊グラフ雑誌の、大正8年7月号(国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧できます)の中の一ページです。
「最近解放せられんとするアルサス・ローレン 二州出身の独逸俘虜」とあり、日本の女性が大きなやかんを持って、ドイツ兵の水筒に水を入れてやっているのを、集まった一同が笑いながら見ている場面です。日本の衛兵も微笑を見せています。
解説文にはこうあります。「講和会議の項目中には普仏戦争に於て独逸(ドイツ)が仏蘭西(フランス)より奪取したるアルサス・ローレン二州を此のたび仏国に返還することを議定してある。此の一事は既に独逸も充分承認の意向を示しているので、青島(チンタオ)戦役に於て我国に俘虜とした右両州出身者百二十余名を仏国大使の斡旋にて近く解放することになり大正8年6月上旬全国各地に分居している該俘虜を一先ず習志野収容所に集合せしむることとなった。写真は広島県下似島収容所に居たベルシャンヂレン外15名が6月3日午前七時東京に到着したる光景であるが、一行は何れも戦役当時支那内地から召集された予後備兵で35歳から50歳位までの老兵許(ばか)りであった。」
前年11月に大戦が終り、ヴェルサイユ講和条約の中でアルザス・ロレーヌ両州はフランスに返されることになりました。そこで日本各地の収容所にいる両州の出身者を習志野に集め、東京のフランス大使館に引き渡して早く帰国させようというプロジェクトがあったのです。
習志野収容所に全部で何人のドイツ兵がいたのか、と問われると、「およそ1千人弱」とあいまいな答えになってしまうのは、実はこのことが関係しています。他の収容所から習志野に移送されてくる者と習志野でフランス大使館に引き渡される者の出入りがあるので、数え方が難しいのです。なお、この写真の撮影場所は「東京に到着したる光景」というのですが東京駅ではなく、習志野収容所である可能性も否定できないでしょう。
ドイツ人からフランス人になった兵隊が、「ラ・マルセイエーズ」を唄うと、ドイツ兵が「ラインの守り」をラッパで吹き鳴らしていやがらせ
フランス大使館への引き渡しについては、こんな面白い話が残っています。
「我々の内のフランス人もまたその大多数は、エルザス・ロートリンゲンの出身者だった。すべての収容所から集められ、我々の収容所から100メートル足らずの所に並んでいる、昔のロシア捕虜収容所に収容された。我々は、彼らがそこを歩き回っているのを見ることが出来た。ある晴れた日に、そこにフランスの三色旗が高く掲げられ、今から集められた新フランス人が、その祖国への宣誓をするのだという話だった。フランス公使館の高官か公使自身が、姿を見せていた。そこで、我々の側のある戦友がラッパを持ち出して来ると、収容所の柵の所からフランス人収容所に向けて、あらん限りの力で、あの懐かしい、ドイツの闘争と抵抗の歌を吹き鳴らしてやったのだ。『雷鳴の如き雄叫び起こり、干戈の響き轟き渡る。ラインへ、ラインへ、我がラインへ!我ら皆その防人たらん』と。
これは明らかに、向う側の行事を妨げた。一人の使者が日本の収容所長の所に現われ、ラッパの吹奏によるこの挑発を直ちに禁止するよう、要求した。日本側はしかし、このフランス側使者の明らかに横柄な調子に腹を立てたらしく、捕虜が音楽を演奏することは、明確に許されていることだ、と宣言した。今になって禁じることはできない、と。
(「カール・クリューガーの回想録から」「習志野市史研究3」所収)
習志野収容所の外でフランス国旗を掲げ、ラ・マルセイエーズを歌ってアルザス・ロレーヌ出身者の解放式をやっていると、まだ帰れないドイツ兵がラッパを持ち出し、「ラインの守り」を吹いて妨害した。怒ったフランス大使館が山崎所長の所に押しかけ、あの妨害を何とかしろと抗議したが、日本側は肩をすくめて見せただけだった、というのですね。
昨日まで戦友だったのに、今日からフランス人だ、お先にバイバイというのでは、残されたドイツ兵も面白くなかったのでしょうね。
ラ・マルセイエーズ(フランス国歌)
ラインの守り(ドイツ軍歌)
映画「カサブランカ」には、習志野とはちょうど逆の、こんな場面が出てきます。
ナチス・ドイツの将校が「ラインの守り」を歌っているのを聞いたレジスタンスの闘士ヴィクター・ラズロが、バンドに命じて「ラ・マルセイエーズ」を演奏させ、みんなで歌ってドイツ将校たちを黙らせる、というシーンですね。
ラズロとリック(ハンフリー・ボガード)の間で揺れ動く女性を演じたイングリッド・バーグマン、本当に素敵でした。
ちなみにラズロのモデルは、後のEUにつながる「汎ヨーロッパ主義」を唱えたリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー(日本名「栄次郎」)。日本人の血を引く人物です。
そのお母さんはクーデンホーフ光子(青山みつ)
話がそれましたが、今でもアルザス・ロレーヌ地方に行って探してみれば、うちのひい爺さんはドイツ兵として、日本のナラシノという所にいたそうだ、というフランス人はいるのでしょう。
なおアルザス語というのはゲルマン語の一つで、元々はドイツ系の人々です。またドーデの「最後の授業」は学校で公式の言語として教えるものがドイツ語に変更させられたということを言っているのであって、実際にはドイツ語もフランス語も出来るバイリンガルな住民がほとんどだそうです。例えば指揮者の小澤征爾さんの師匠に、シャルル・ミュンシュ(1891~1968)というフランスの名指揮者がいたのですが、彼はアルザス州の州都ストラスブール(ドイツ名:シュトラスブルク)の生まれで、生まれたときはカール・ミュンヒというドイツ人だったそうです。「密林の聖者」と呼ばれノーベル平和賞を受賞したアルベルト・シュヴァイツァー博士(1875~1965)もアルザスの人。やはり、生れたときはドイツ人でした。
習志野の郷土史を紐解くと、意外にもヨーロッパというものが垣間見えてきますね。
(余談)
ドイツ帝国の国歌は、イギリスの「ゴッド・セーヴ・ザ・キング」の替え歌でした。
第一次世界大戦では、敵になったイギリスの歌ではさすがにまずいだろうということで、これに代えて「ラインの守り」が使われたのです。「ラインの守り」は日本では、同志社大学のカレッジソングとして知られています。
なお、今日ドイツ国歌として知られているハイドンの曲は、第一次大戦の時代にはオーストリア=ハンガリーの国歌でした。
ややこしいですね。
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