夢職で 高貴高齢者の 叫び

          

突撃訓練  *ボクの見た戦中戦後(25)

2014年04月06日 | ボクの見た戦中戦後

国民学校1年生の2学期と思う。 校門に二人の兵隊が歩哨に立つようになった。 先生は登下校時に兵隊さんに敬礼をするようにと言われた。 ボク達は登下校時に奉安殿へ最敬礼していたが、このほかに敬礼が増えた。 校門を通るときは何度か敬礼していたが、記憶が定かでなく、歩哨は毎日は立っていなかったような気がする。 他の任務に出かけていたのか、或いはボク達が校門から帰らずに垣根をすり抜けて近道をする時もあったためか、毎回敬礼をした記憶は薄れてしまった。 しかし、廊下の窓から見ていた突撃訓練のことはしっかりと記憶している。

 

校庭の端に杭が2本対になったものが立てられた。 それに荒縄を巻いて人とみなされたものが二つ作られた。 兵隊は銃の先へ帯剣を取り付けて銃剣とし、突撃の訓練をしていた。

銃を構えて「ヤ~~~~~」と叫びながら駆けて行き 「ヤッ!!」と気合を入れながら人型を突き刺すのだ。 突き刺した剣を抜いて右斜め前に一歩進み上官の前に立つと、上官は掌で兵隊の額を突き飛ばすのだ。 突撃の仕方が下手だと叱っているように見えた。

次々に兵隊が「ヤ~~~~~ヤッ!!」と人型を突いていくが、全員が額を突き飛ばされていた。

 この訓練を5・6年生男子も受けるようになった。   銃剣の代わりに木製の模擬銃を使っていた。 生徒が木銃を構えながら「ヤ~~~~~ヤッ!!」と人型を突き刺した後に、兵隊にならって斜め前に一歩進んで先生の前に立つと、先生も上官がしていたように生徒の額を突き飛ばしていた。

 

 あの突撃訓練は何の役に立ったのだろうか?  上陸してくる敵兵に向かって婦人たちは竹槍の訓練をしていたが、竹槍も兵隊の銃剣も機関銃から撃ちこまれてくる弾丸の雨には勝てるはずはない。

 後年ボクは元兵隊から銃剣で人を刺した話を聞かされた。 捕虜を立ち木に縛り付け、銃剣を持って駆けて行き、突き刺すのだと。 不快だったが黙って聞いていた。 初年兵だった彼は上官から度胸を付けると言われ、命令のまま捕虜を突き刺したと話していた。

そしてまた、ネットに流れている元兵隊の体験談に、縛り上げた捕虜を突き刺すように命じられた初年兵の話があった。 やむを得ず上官の命令に従ったが、その後、彼は食事がのどを通らなくなったという記録を読んで胸がつまった。

あの突撃訓練は武器を持たない人々に対しては効果があったろうが、無抵抗の人々を殺して手柄を立てたと言えるのだろうか。

 また、元兵隊から銃剣で戦った話を聞いたことがある。 ただしこれは稀な戦いらしい。 敵が青龍刀を振り回して攻めてきたので、銃に弾丸を込める余裕がなく、銃剣で応戦したという。 青龍刀で横腹を切られたが、とっさに相手を銃剣で突き刺して難を逃れたというのだ。 幸いサラシの腹巻を巻いていたので深くは切られなかったそうである。 ただ、この戦国時代のような刀剣による戦いは十五年戦争の初期の頃でも珍しいことであったようだ。

 太平洋戦争で日本軍が追い詰められてくると、太平洋に浮かぶアッツ島、サイパン島など南の島々では、本国からの武器食糧の補給もなく戦わされた。 本国の軍の幹部にくぎ付け部隊として見捨てられたのだ。 弾薬と食料の尽きた日本兵たちは突撃の命令の下、銃剣だけで敵の機関銃の弾の嵐の中に飛び込んで行った。 これはあきらかに自殺行為である。 軍の幹部はこの集団自決を「玉砕」と言って美化したのだ。 生き延びることを教えず、死ねと教育してきたのだ。 兵隊の命を粗末にし、彼らの家族をも犠牲にし、生きて帰れれば伴侶を得られたであろう若い命を踏みにじったのだ。

捕虜を出したのでは軍事情報が敵に流れるであろうから、捕虜になって生き延びることを恥と教育し「玉砕」と称して兵を殺したのではないだろうか。 個人の命より軍の秘密保護を優先したのだろう。

 

あの突撃訓練は「玉砕」と称する自決の訓練だったのか?

兵隊の無残な死を玉砕と美化され、その家族は人前で涙を見せることができず苦しんだことであろう。 ボクは突撃して行った兵隊やその家族の人々、恋人たちのことなどをいろいろ想像してみる。

 

リンク)アッツ島の記録

大本営は アッツ島の兵を見捨て 偽りの発表をした

 玉砕 隠された真実

 http://www5a.biglobe.ne.jp/~t-senoo/Sensou/attu_gyokusai/attu_gyokusai.htm