Washingtonpost に、日本の若者について書いてあった。
野心というかドシドシやったる、といった向上心がない、みなほどほどがいいと思っている無気力な「オタリーマン(オタクとサラリーマンの混成語)」だそうな(記事を書いたのは同誌の記者だが情報提供者は日本人らしい)。
なんでもなんとかという調査によると、日本人労働者のなかで残業バリバリやりたいと考えているのは3%で、世界の平均が21%だという(アメリカは29%)。
同記事によると、日本の若者は結婚生活もしたくない、のだそうだが、その理由は「ほどほど」でいられなくなるからだそうな。
この手の分析はよく目にするが、本当にそうなのだろうか。
そういう場合もあるだろうけど、同時にこれは、探した結果で見出したのではないのでは?といつも思う。
私見をいえば、そうしたオタリーマン的性格は現代の若者固有というより歴史体にみて日本人と呼ばれる民族にありがちなものだと思うが、とりあえず「探すな、見出せ」というピカソの言葉に注目したい。
確かにキュービズムの典型的な作品では、部分的には「探す」ことによって見出されたFactsが描かれているが、作品全体としてはそれらを統合した主観的な洞察が見出されたものとして提示される。
この発見が、つまり絵画の伝統的な役割だったミメーシスを超えて主観を客観的に表現する、という表現というものの本質に立った作品を描いていく。
僕はピカソをみているといつもフォークナーと重ねたくなるのだが(単にフォークナーを先に知ったから考える基準になっているだけだが)、両者ともその主観的な洞察が見出されるギリギリの1点を視点に選ぶところにその才がある(といってピカソとフォークナーの作品のすべてを理解しているわけじゃないが)。
そしてその視点はひとつの「探した」ものというより、いくつかの指標を統合した「見出した」ものから生まれる。
その点、日本の若者をみる視点はあまりに数字と言葉に偏りすぎていないだろうか。彼らが無気力にみえるのは、単に無気力だと感じるひとが指標とする事柄に魅力を感じていないだけだと思う。
だからそういうひとたちに問いたい、あなたはバリバリやることが楽しいのか、結婚生活が魅力的なのか、と。フォークナーやピカソほどではなくても、そんなことをいう大人たちがバリバリやることや結婚生活の魅力をみせてやってほしいものだ。
野心というかドシドシやったる、といった向上心がない、みなほどほどがいいと思っている無気力な「オタリーマン(オタクとサラリーマンの混成語)」だそうな(記事を書いたのは同誌の記者だが情報提供者は日本人らしい)。
なんでもなんとかという調査によると、日本人労働者のなかで残業バリバリやりたいと考えているのは3%で、世界の平均が21%だという(アメリカは29%)。
同記事によると、日本の若者は結婚生活もしたくない、のだそうだが、その理由は「ほどほど」でいられなくなるからだそうな。
この手の分析はよく目にするが、本当にそうなのだろうか。
そういう場合もあるだろうけど、同時にこれは、探した結果で見出したのではないのでは?といつも思う。
私見をいえば、そうしたオタリーマン的性格は現代の若者固有というより歴史体にみて日本人と呼ばれる民族にありがちなものだと思うが、とりあえず「探すな、見出せ」というピカソの言葉に注目したい。
確かにキュービズムの典型的な作品では、部分的には「探す」ことによって見出されたFactsが描かれているが、作品全体としてはそれらを統合した主観的な洞察が見出されたものとして提示される。
この発見が、つまり絵画の伝統的な役割だったミメーシスを超えて主観を客観的に表現する、という表現というものの本質に立った作品を描いていく。
僕はピカソをみているといつもフォークナーと重ねたくなるのだが(単にフォークナーを先に知ったから考える基準になっているだけだが)、両者ともその主観的な洞察が見出されるギリギリの1点を視点に選ぶところにその才がある(といってピカソとフォークナーの作品のすべてを理解しているわけじゃないが)。
そしてその視点はひとつの「探した」ものというより、いくつかの指標を統合した「見出した」ものから生まれる。
その点、日本の若者をみる視点はあまりに数字と言葉に偏りすぎていないだろうか。彼らが無気力にみえるのは、単に無気力だと感じるひとが指標とする事柄に魅力を感じていないだけだと思う。
だからそういうひとたちに問いたい、あなたはバリバリやることが楽しいのか、結婚生活が魅力的なのか、と。フォークナーやピカソほどではなくても、そんなことをいう大人たちがバリバリやることや結婚生活の魅力をみせてやってほしいものだ。