地下鉄職員を強姦未遂容疑で逮捕 勤務する駅で(共同通信) - goo ニュース
赤ん坊を連れ歩くようになってから、他人から声をかけられるようになった。
精神的な人間でなくなったためかもしれない(ヘッセの作品中、精神的な人間は子供という制約を受けて精神的でなくなる、と述べていたことがある)。
「かわいいですねぇ」とあまりに声をかけられるため時々「そうかなぁ」と頭をポリポリかいたりするが、受けないことが多いので最近やらないことにした。
大体声をかけてくるのはおばさんだが、若い女性も多い。
おばさんのなかには、「いいこと、あなたの子供だからといって所有物ではありません、ひとつ、決して怒ってはいけません、ふたつ、呼び捨てもいけません。。。」と説教をたれるのもいれば、「大変でしょうけど、頑張ってください」と手をとって涙ぐんだり、一礼したりするひともいる。
おばあさんの場合は、「あらぁ」という声よりも早く我が子のマシュマロのようなホッペタをしわがれた人差し指で刺すから、「お前その手を見せてみろっ」とその手を払いたくなるが、若い女性なんかが、「ホントに赤ちゃんて、手足バタバタさせてるぅ~」とかいいながら、僕のことなど無視して群がってくると、「触ってみたら」といってしまう矛盾した自分も見出す(自分のなかでは全く矛盾してないが)。
何がいいたいかというと、声をかけてくるのが女性だけだということである。
男の場合は、ちらりとみるだけでもごくわずかの確率だが、女性の場合みるだけなら7割はいるのではないかという気がする。
この差は一体何かということだ。
そこでなんとはなしに浮かんできた答えは、男よりはるかにコミュニティを意識する度合いが強いのではないかということ。
男にそれを阻むのは、まず何かあった場合に男に暴力という選択肢があることではないだろうか。
僕も赤ん坊が生まれて一番最初に思ったのは、この物騒な世の中で赤ん坊を抱いて歩いていたら当然防御力や攻撃能力が落ちるから、どうやって補うかを考えて、ここ1年のトレーニング量はかなり増やして準備した。
男の場合暴力という牙城があってはじめて安心がついてくるようなところがあるが、僕も例外ではなく、最近では、以前は江頭2:50といわれた僕も、試合前のボクサーみたいといわれるようになった。
ただ暴力はその字の示すごとく暴れる力であり、単なる暴発のようなもので物事の解決には程遠い。
そこへいくと女性は違う。Realismに徹することができるのは、自分が弱者だと認識できる人間だといったのは司馬さんだが、僕も同感で、その点女性が持つRealism 感覚には一定の評価というより畏怖がある。
特に本物の女性という感じのひとには得たいの知れぬRealismを感じるが、弱者であることによって強者よりいつも一歩先を(場合によっては複数歩先を)考えなければならない慎重さがある(その慎重さは当然のことながら二者択一というか運命の分かれ道が念頭にあるからのはずだ)。
いや、「慎重さ」というのではその魅力を伝えきれない。
僕は「たおやか」という女ヘンに弱と書くことばが好きだ。
「弱い」はまるで「弱者」みたいだが、もともとこの字は、「弓」で「弾力がある」とか「しなやか」という意である。
Radical Feminists は好きではないが、このあたりに嫌気がさす気持ちはわからないではない。
ところで先日男で僕の赤ん坊をみてくるやつがいた。
自然食バイキングに行って、店を出るとき、オムツを換えなくちゃならなくなって、誰もいないので待合室の隅でオムツを替えたのだが、どこからともなく顕れたその男のヘラヘラした視線は赤ん坊を性的にみていたっ!
そのときの驚きといったら言葉にならなかった。
わずか生後数ヶ月の、毎日風呂場で持ち上げて灯りにすかすようにウンがついていないかチェックして洗ってる赤ん坊に、30くらいの男が性的に。。。
思わず「お前、間違ってるぞっ」と声を張り上げて叫びそうになった。
大きな声で主張したいのは、こうした一部の男の倒錯(趣味ではない)は性欲ではなく、体力的優位を基盤にした暴力にすぎない。
追伸1:Faulkner の『八月の光』に出てくる女性は口々にいう、「男ってものは・・・」。僕はこの言葉こそこの小説の勝負どころだと思う。
追伸2:ああ、もうこんな時間だ。9月3日になってしまった。ドラえもんの誕生日だ。
赤ん坊を連れ歩くようになってから、他人から声をかけられるようになった。
精神的な人間でなくなったためかもしれない(ヘッセの作品中、精神的な人間は子供という制約を受けて精神的でなくなる、と述べていたことがある)。
「かわいいですねぇ」とあまりに声をかけられるため時々「そうかなぁ」と頭をポリポリかいたりするが、受けないことが多いので最近やらないことにした。
大体声をかけてくるのはおばさんだが、若い女性も多い。
おばさんのなかには、「いいこと、あなたの子供だからといって所有物ではありません、ひとつ、決して怒ってはいけません、ふたつ、呼び捨てもいけません。。。」と説教をたれるのもいれば、「大変でしょうけど、頑張ってください」と手をとって涙ぐんだり、一礼したりするひともいる。
おばあさんの場合は、「あらぁ」という声よりも早く我が子のマシュマロのようなホッペタをしわがれた人差し指で刺すから、「お前その手を見せてみろっ」とその手を払いたくなるが、若い女性なんかが、「ホントに赤ちゃんて、手足バタバタさせてるぅ~」とかいいながら、僕のことなど無視して群がってくると、「触ってみたら」といってしまう矛盾した自分も見出す(自分のなかでは全く矛盾してないが)。
何がいいたいかというと、声をかけてくるのが女性だけだということである。
男の場合は、ちらりとみるだけでもごくわずかの確率だが、女性の場合みるだけなら7割はいるのではないかという気がする。
この差は一体何かということだ。
そこでなんとはなしに浮かんできた答えは、男よりはるかにコミュニティを意識する度合いが強いのではないかということ。
男にそれを阻むのは、まず何かあった場合に男に暴力という選択肢があることではないだろうか。
僕も赤ん坊が生まれて一番最初に思ったのは、この物騒な世の中で赤ん坊を抱いて歩いていたら当然防御力や攻撃能力が落ちるから、どうやって補うかを考えて、ここ1年のトレーニング量はかなり増やして準備した。
男の場合暴力という牙城があってはじめて安心がついてくるようなところがあるが、僕も例外ではなく、最近では、以前は江頭2:50といわれた僕も、試合前のボクサーみたいといわれるようになった。
ただ暴力はその字の示すごとく暴れる力であり、単なる暴発のようなもので物事の解決には程遠い。
そこへいくと女性は違う。Realismに徹することができるのは、自分が弱者だと認識できる人間だといったのは司馬さんだが、僕も同感で、その点女性が持つRealism 感覚には一定の評価というより畏怖がある。
特に本物の女性という感じのひとには得たいの知れぬRealismを感じるが、弱者であることによって強者よりいつも一歩先を(場合によっては複数歩先を)考えなければならない慎重さがある(その慎重さは当然のことながら二者択一というか運命の分かれ道が念頭にあるからのはずだ)。
いや、「慎重さ」というのではその魅力を伝えきれない。
僕は「たおやか」という女ヘンに弱と書くことばが好きだ。
「弱い」はまるで「弱者」みたいだが、もともとこの字は、「弓」で「弾力がある」とか「しなやか」という意である。
Radical Feminists は好きではないが、このあたりに嫌気がさす気持ちはわからないではない。
ところで先日男で僕の赤ん坊をみてくるやつがいた。
自然食バイキングに行って、店を出るとき、オムツを換えなくちゃならなくなって、誰もいないので待合室の隅でオムツを替えたのだが、どこからともなく顕れたその男のヘラヘラした視線は赤ん坊を性的にみていたっ!
そのときの驚きといったら言葉にならなかった。
わずか生後数ヶ月の、毎日風呂場で持ち上げて灯りにすかすようにウンがついていないかチェックして洗ってる赤ん坊に、30くらいの男が性的に。。。
思わず「お前、間違ってるぞっ」と声を張り上げて叫びそうになった。
大きな声で主張したいのは、こうした一部の男の倒錯(趣味ではない)は性欲ではなく、体力的優位を基盤にした暴力にすぎない。
追伸1:Faulkner の『八月の光』に出てくる女性は口々にいう、「男ってものは・・・」。僕はこの言葉こそこの小説の勝負どころだと思う。
追伸2:ああ、もうこんな時間だ。9月3日になってしまった。ドラえもんの誕生日だ。