弁護士「印象、普通の子」 会津若松の母殺害で接見(朝日新聞) - goo ニュース
上記事件についての専門家のコメントほか説明をTVでみたが、なぜ母親を殺さなければならないのかわからなかった。
はじめこれが専門家の分析だとすると、権威は失墜してまさしくPostmodern だ(もう古いといわれるかもしれないが)と思ったが、あとになって、これは心理カウンセラーや精神科医師、教育家、社会科学者が扱える分野ではない、文学者の問題だと考えなおした。
しかし文学者にこうした問題を斬るメスが今あるだろうか。
Pさんの奥さん(画家)の受け売りだが、昨今は、形式的というか道具的というか、問題が本質(意味)を避けるようになった(まさしくPostmodernによって)。
例えば(奥さんの受け売りが続くが)、絵画は、基本的に線と色に煎じ詰められるわけだが、それだけを考える抽象画に似ている。
文学も同様に、言葉を人間から切り離してそのものの機能を追いかけたり、身近なものに限定しているのではないか、というわけだ。
確かに現在の小説を少しばかり読んで思うのは、妙にプロットに整合性があり、映像化しやすそうなものが目に付く(とにかく登場人物たちが自らの観念のなかに生き展開がその予測できる範囲を出ていないからだ)。
こうしたある意味規模の小さいロマン主義的傾向は、Postmodernism の裏返しというよりは、日本の場合、戦後民主主義者に責任の一端は少なからずあろうという話になった(その背景にあるのは、司馬さん流に言えば、悪い意味でアジア的組織のなかだけでしか生きられない人間が増えたということだろう。司馬さんは昭和の参謀本部以下だと述べていたことがある)。
そして戦後民主主義者といえば、大江さんの名が出てくる。大江さんの場合、息子さんの問題もあってある方向にテーマが限定されている。だからどうしても現実世界に対する見方が一面化しているような感がある。だから『宙返り』を読んだとき、すごく進展した感じがあって、友人にこの本をすすめつつ、フォークナーの三分の二ぐらいすごくなったかも、といった。そうしたらその友人にそれは侮辱だといわれたが、僕としてはこれ以上ない褒め言葉のつもりだった。
Pさん夫妻いわく、彼にドストエフスキーはわからない。その理由は大江さんの長所でもある特殊性が反理性などのPostmodernにしか救いを求められないからかもしれない(それを超える苦境が来たときどうするのかという問いが残る、例えば『個人的な体験』の終り方や、『人生の親戚』をみよ、あそこに限界があるといえばそういえる)。
といって花村満月が描く暴力がその苦境だとは僕には思えない。本当の苦境は、彼が描くその登場人物たちから、少なくともその暴力が奪われなければならないと思う。
とりあえず僕もドストエフスキーをわかっているとはいえないので、改めてまた読み始めるとして、その前に考えてみたい、人間が自分の母親を殺さなければならない理由はなんだったのか、と。
彼がいうように「誰でもよかった」という側面はあったろうし、彼にとって弱者でもあり殺害が容易だったこともあったろう。しかしまず社会との繋がり、まさしく胎児の時に自分の生命をつなぎとめていたヘソの緒を断ち切る行為には何か意味があるように思えてならなかった。
彼がいた切羽詰った状況のなかで、それを断ち切ることしか彼には選択肢が見出せなかったのは、ジジェクがいうように、現代人の喜びは、喜びを与えるものを断ち切ることなのだろうか。
わからない、しかし「異常」と片付けたくない。。。
上記事件についての専門家のコメントほか説明をTVでみたが、なぜ母親を殺さなければならないのかわからなかった。
はじめこれが専門家の分析だとすると、権威は失墜してまさしくPostmodern だ(もう古いといわれるかもしれないが)と思ったが、あとになって、これは心理カウンセラーや精神科医師、教育家、社会科学者が扱える分野ではない、文学者の問題だと考えなおした。
しかし文学者にこうした問題を斬るメスが今あるだろうか。
Pさんの奥さん(画家)の受け売りだが、昨今は、形式的というか道具的というか、問題が本質(意味)を避けるようになった(まさしくPostmodernによって)。
例えば(奥さんの受け売りが続くが)、絵画は、基本的に線と色に煎じ詰められるわけだが、それだけを考える抽象画に似ている。
文学も同様に、言葉を人間から切り離してそのものの機能を追いかけたり、身近なものに限定しているのではないか、というわけだ。
確かに現在の小説を少しばかり読んで思うのは、妙にプロットに整合性があり、映像化しやすそうなものが目に付く(とにかく登場人物たちが自らの観念のなかに生き展開がその予測できる範囲を出ていないからだ)。
こうしたある意味規模の小さいロマン主義的傾向は、Postmodernism の裏返しというよりは、日本の場合、戦後民主主義者に責任の一端は少なからずあろうという話になった(その背景にあるのは、司馬さん流に言えば、悪い意味でアジア的組織のなかだけでしか生きられない人間が増えたということだろう。司馬さんは昭和の参謀本部以下だと述べていたことがある)。
そして戦後民主主義者といえば、大江さんの名が出てくる。大江さんの場合、息子さんの問題もあってある方向にテーマが限定されている。だからどうしても現実世界に対する見方が一面化しているような感がある。だから『宙返り』を読んだとき、すごく進展した感じがあって、友人にこの本をすすめつつ、フォークナーの三分の二ぐらいすごくなったかも、といった。そうしたらその友人にそれは侮辱だといわれたが、僕としてはこれ以上ない褒め言葉のつもりだった。
Pさん夫妻いわく、彼にドストエフスキーはわからない。その理由は大江さんの長所でもある特殊性が反理性などのPostmodernにしか救いを求められないからかもしれない(それを超える苦境が来たときどうするのかという問いが残る、例えば『個人的な体験』の終り方や、『人生の親戚』をみよ、あそこに限界があるといえばそういえる)。
といって花村満月が描く暴力がその苦境だとは僕には思えない。本当の苦境は、彼が描くその登場人物たちから、少なくともその暴力が奪われなければならないと思う。
とりあえず僕もドストエフスキーをわかっているとはいえないので、改めてまた読み始めるとして、その前に考えてみたい、人間が自分の母親を殺さなければならない理由はなんだったのか、と。
彼がいうように「誰でもよかった」という側面はあったろうし、彼にとって弱者でもあり殺害が容易だったこともあったろう。しかしまず社会との繋がり、まさしく胎児の時に自分の生命をつなぎとめていたヘソの緒を断ち切る行為には何か意味があるように思えてならなかった。
彼がいた切羽詰った状況のなかで、それを断ち切ることしか彼には選択肢が見出せなかったのは、ジジェクがいうように、現代人の喜びは、喜びを与えるものを断ち切ることなのだろうか。
わからない、しかし「異常」と片付けたくない。。。
「客観性」とは、哲学のそもそもの目的で、カントのいう「心」を介さなくても「物」を存在させることだった。
もちろんPoillon のいうそれは、フッサールのいう「間主観性」のことで、「イデア」ではない。
ドストエフスキーの悪は、間主観性あるいは客観的(論理的に)辿れる思考の末のものだと、『未成年』を読んで思った。