雨をかわす踊り

雨をかわして踊るなんて無理。でも言葉でなら描けます。矛盾や衝突を解消するイメージ・・・そんな「発見」がテーマです。

銀閣

2005-08-01 22:33:56 | 歴史
写真は、銀閣寺の裏山の庭園。これまで紹介した、東寺、瓢亭、曼殊院は、僕の趣味で選ばせてもらった(秦家はそうでもない)が、ほかに一般的なところとして、金閣、銀閣、清水寺、京都御所などをまわった。いわゆる典型的な京都の名所だが、銀閣で撮ったこの写真は、結構お気に入り。西芳寺に行けなかったから、そのイメージのあるところをずっとさがしていたところ、この光景にめぐりあったというわけ。

銀閣といえば、8代将軍義政。芸術ばかりで、民衆のことを考えない政治家として知られているが、京都に行く前、なんとか彼の弁護ができないものかと考えていた(みんなと反対のことをしたがるらしい)。

徳富蘇峰さんだったか、室町幕府の失敗に尊氏の時点から朝敵だったことを挙げていた。これもどの本に載っていたかよく覚えていないが、アメリカ人がよく日本人にする質問に、「藤原氏はあれだけ権勢を誇ったのに、なぜ天皇になろうとしなかったのか?」があったそうだが、その答えと同じで、北朝を担ぎ出したとはいえ、尊氏についてくるものは少なかった。そのため過分な恩賞を与え、結局足利家の領土は小さく財産も小さく、発言力も小さくなってしまった。それを何とかしようとしたのが、四代将軍義教(?)だったが、その運動のなかばで殺されたところをみると、やっぱり足利将軍家の力は十分でなかったということになろう。

こういう風にまわりに配慮する必要があった点では、江戸徳川時代に似ている。家康も関ヶ原で勝ったあと、特別領土を増やしたわけではなく、西軍の主だった将、島津、毛利などの藩を縮小してあまった部分を、東軍の功労者に与えた(ただし宇喜多秀家は完全に財産没収されて島に流され、そこで細々と暮らして、貧乏のなかでなくなった、かなりひどかったらしい:奥さんの実家の前田家からはそれなりに仕送りはあったという)。家康は、ほぼ現状維持することで江戸を統治し(じゃないと反乱のおそれがあった)、島津・毛利の逆襲を予感し(予感というよりもっと確実なものだと思っていた)、そのときに使われるかもしれない公家や天皇家の親族をあらかじめ僧籍においたわけだ。そしてそれなりに締め付けも必要だから、参勤交代などを決めたり、人質をとったりした。家康は、もともと足利家の末席の家系を金で買ったわけだが、すっかり足利家になりきって、こんな準備をしたのかもしれない。

こうした名ばかり状態に置かれた義政は、遊びに走った。祖父の3代将軍義満が最後に遊んだように、だ。親父の義教が将軍の権威を取り戻そうとして殺されたのをみて、「馬鹿馬鹿しい」と思ったのかもしれない。そうなると、遊興に走る(出世がこれ以上ないと確定するとそんなものかもしれない)。そして遊びといえば、女と芸術だが、芸術はさておき、女の方は、世継ぎが生まれず、やきもきしていた。よくいわれるように、源氏系列(源氏と足利氏だけだが)の特徴は、内紛が多い。家族が仲が悪い。平家はご存知の通り異母兄弟も多かったはずなのに争いがなかった。義政も自分がそういう問題に巻き込まれることを嫌がって、弟に将軍職を代わってもらった。そうしたら正室の富子に子が出来た。応仁の乱である。その後に義政の東山文化造営が始まる。芸術しか残ってなかったってことか。。。

1日に7、800人が餓死するなか、何もしなかった義政をこんなんで弁護できないかもしれないが、尊氏に始まる足利将軍の軌跡の所為にはできないかなぁと思いました