We are living in the moment when an indivisible world harmony and the conceptions it suggests are breaking up, a time when partial harmonies arise everywhere and converge toward a generalized disharmony, something the writer feels strongly he cannot explorewithout first renouncing this indivisibility that established him, sovereign and seer, in his place and words. To renounce the indivisible is to learn a new way of approaching the world; in so doing the writer learns to deploy all of his works in this approach, to become accustomed to this new and generalized disharmony while trying to follow its innumerable traces.
世界が分かちがたく調和していると、いろいろな物事が、それぞれの関係が辻褄が合うように認識される。(しかし)私たちが今まさに生きている瞬間というのは、その調和と認識が砕けていく瞬間である。部分的には調和している事柄があちこちで生じて、全体的に見たら調和していない状態に至る瞬間である。これは、作家が、自分の場所と言葉のなかで、絶対者にしてものがよくみえる人間としての自分自身を作り上げた分かちがたいものをまず拒絶しなければ調べることができないと強く感じているところのものだ。分かちがたいものを認めないということが世界に近づく新しい方法を学ぶことである。そうすることによって作家は、自分の作品の全てをこのアプローチの仕方で効果的に動かすことができるようになる。そしてこの新しい全体的には調和していない状態になれつつ、その夥しい数の不調和の痕跡を追跡しようと試みている。
フォークナーに限らず、まさに我々の生そのものだよね。Faulkner, Mississippi(Edouard Glissant著)の一節です。
世界が分かちがたく調和していると、いろいろな物事が、それぞれの関係が辻褄が合うように認識される。(しかし)私たちが今まさに生きている瞬間というのは、その調和と認識が砕けていく瞬間である。部分的には調和している事柄があちこちで生じて、全体的に見たら調和していない状態に至る瞬間である。これは、作家が、自分の場所と言葉のなかで、絶対者にしてものがよくみえる人間としての自分自身を作り上げた分かちがたいものをまず拒絶しなければ調べることができないと強く感じているところのものだ。分かちがたいものを認めないということが世界に近づく新しい方法を学ぶことである。そうすることによって作家は、自分の作品の全てをこのアプローチの仕方で効果的に動かすことができるようになる。そしてこの新しい全体的には調和していない状態になれつつ、その夥しい数の不調和の痕跡を追跡しようと試みている。
フォークナーに限らず、まさに我々の生そのものだよね。Faulkner, Mississippi(Edouard Glissant著)の一節です。