〈ストーリーズ 師弟が紡ぐ広布史〉第18回 21世紀は女性の世紀 ③第一の戦友〈上〉2022年3月20日
- 感謝の唱題は万代の幸を築く
第3代会長就任式が行われた1960年5月3日の夜、東京・大田区の小林町(当時)にあった池田大作先生の自宅を訪ねた夫婦がいる。
玄関先で一言、お祝いを伝えるつもりだったが、先生から「どうぞ、上がって」と勧められた。
先生は「今日は、家ではお赤飯も炊いてくれないのだよ」と語り、香峯子夫人を指して、「“今日は池田家のお葬式です”と言うんだよ」と。その言葉に、夫婦は粛然とした。
この日を振り返り、香峯子夫人は語っている。「とても会長就任を喜ぶ心境には、なれませんでした。『今日はお葬式』というのが、偽らざる心情だったのです。この日を境に、生活は『私』の部分より『公』の部分の比重が、徐々に重くなっていきました」
それから4年後の64年10月2日、先生は東南アジア、中東、欧州の平和旅に出発した。海外歴訪のたび、激しい疲労が先生の体を襲った。慣れない現地の食事や気候の違いなどから、体調を崩してしまうこともあった。
また、海外では要人や識者と交流する機会があった。こうした対外的な活動では、夫人同伴の方がふさわしいことが多い。そこで、この7度目の海外訪問から香峯子夫人が同行することになった。
先発隊として出発した夫人は、タイ・バンコクで合流。日本から持参したコンロと鍋を使って、ご飯を炊き、みそ汁などを用意した。夫人の献身は、海外での先生の激闘を支えた。
89年10月6日、先生ご夫妻は女性誌「主婦の友」の要請に応え、インタビューを受けた。企画の趣旨は“夫婦の歩みについて”である。
インタビュアーは「長い結婚生活の間には、夫婦の関係が、さまざまに変化します。名誉会長ご夫妻にも、さまざまな節目がおありになったと思います」「思い出に残るエピソードがございましたらお教えください」と尋ねた。
先生は、もともと体が弱く、医師から“30歳まで生きられるかどうか”と言われたことを述懐し、「第一の思い出は、それを、食事、睡眠、励ましなど、妻が心をくだいてくれたおかげで、大きく乗り越えることができたことです。これは妻の勝利、歴史だと思っています」と語った。
さらに、69年12月に急性の肺炎による高熱を押して、関西・中部を訪問したことに言及。大阪に到着した日の夜、夫人が東京から駆け付けた。先生は「あのときの(夫人の)笑顔は、大きな薬となりました」と述べた。
夫人が、先生の国内の激励行にも同行するようになったのは、この69年12月からである。
インタビューの最後、「これまでを振り返って、奥様に感謝状をささげるとしたら、文面は、どんな言葉になるでしょうか」という質問が飛び出した。
先生は、「これはいちばんの難問です」とユーモアを込めて応じ、言葉を続けた。
「妻は私にとって、人生の伴侶であり、ときには看護師であり、秘書であり、母のようでもあり、娘か妹でもあり、何より第一の戦友です」
「妻に感謝状をあげるとしたら、『微笑み賞』でしょうか。あらゆる意味を、そこに込めて」
1977年4月10日、「第7回婦人部総会」が大ブロック(現在の地区)単位で開催された。
総会の各会場には、事前にシートレコード(ビニール製レコード)が配られた。池田先生の声で、メッセージが収められていた。
先生は、婦人部総会の開催を心から祝福。御書の「然る間・仏の名を唱へ経巻をよみ華をちらし香をひねるまでも皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり」(全383・新317)を拝し、訴えた。
「信心の世界だけは、その功徳善根を消さないように、怨嫉や反感、そしてまた感情的にならないように注意してください。それは自分自身が損をするだけであります」
「喜びの世界、楽しみの生活をつくるために、信心をしていただきたい」
先生のピアノ演奏も吹き込まれていた。「荒城の月」「うれしいひなまつり」「春が来た」……。レコードは各地の総会に、大きな感動を広げた。
香峯子夫人が出席して開催された渋谷区・羽沢大ブロックの総会。ここでも、参加者全員でレコードを聴いた。
登壇した夫人は、先生が最初に覚えた曲が“大楠公”であったこと、ピアノを弾き始めた頃は、右手だけの演奏だったことなどを述懐。ある時、先生が「さくら」を右手で、別の友が左手で、一緒にピアノを弾いたことを振り返った。
「会長がピアノを弾く時は、それこそ全身の力を込めて演奏します。別の方が左手で弾くと、どうしても合わないことがあるんです」
「皆さんの激励のためだから、左手も演奏できるようにしよう、ということで練習を始められたわけです」
さらに、海外でピアノを弾いた折、肩を痛めたことがあったことに触れ、先生は自分の気持ちを全て注いで演奏される、とも語った。
ピアノに込められた“励ましの心”を知り、参加者は皆、師と共に人生を歩み抜くことを誓い合った。
同年12月、池田先生と婦人部の代表との懇談が行われた。東京・北区の婦人部長を務めていた橋元和子さんは、「先生! 北区は合唱大会をやります!」と伝えた。
先生は即答した。「歌は折伏と同じだ。人の心に勇気と希望を送る。“歌声運動”を起こしていこう」
会場は板橋文化会館に決まった。先生の提案である。年が明けた78年1月8日には、本紙の1面に「3月に東京・北区が合唱大会」との予告記事が掲載された。
先生はさらに、合唱団の名前を贈った。「弥生合唱団」。北区の“いよいよ”の戦いが開始された。日を追うごとに拡大の勢いは増し、歓喜の上げ潮の中で合唱大会の3月12日を迎えた。
当日、東北男子部の会合のため、先生は出席できなかったが、会場には香峯子夫人の姿があった。全ての演目が終わると、夫人はマイクを取った。
「皆さまは、学会の中で、最高の人生、本当に生きがいのある人生を歩んでこられた。そう実感できる合唱大会でした」
「これからの10年、20年を有意義に生きるためには学会しかない。そう心に決めて、今日からまた一緒に頑張りましょう」
合唱大会の終了後、懇談会が開かれた。ある友から、「子どもが信心を継承していくには、どうすればいいですか」との質問があった。
夫人は自らの体験を通して、可能な限り、子どもと共に学会活動に歩くことを挙げた。一緒に動くことで、信心の素晴らしさ、同志のありがたさを、子どもは“肌で感じる”と述べた。
また、幼い時からの勤行の習慣化を強調。親が子どもと勤行する挑戦を望んだ。さらに、“学会の庭”で育てる大切さを述べ、“師弟や報恩の意義など「信心の核」を教えてくれるのは、広布の組織です”と語った。
3月12日は今、「喜多区女性部の日」である。この日を目指し、北総区女性部の友は、“青年の勝利が私たちの勝利”との思いで対話に駆けた。同男子部は「部2」を超える弘教で、今年の「3・16」を荘厳した。
練馬区内にある山本典子さんの家で開催された三原台支部の座談会に、香峯子夫人が出席したのは、1979年3月17日のこと。
座談会の途中、一人の参加者が手を挙げた。「みんな『池田先生』と言うけど、私はそのようには思えません」
笑いがあふれていた会場に緊張が走る。語気に、とげとげしさがあった。夫人は笑顔を絶やすことなく応えた。
「いいんですよ。ただ、好きとか嫌いとかではなく、会長は創価学会の責任者として、指揮を執ってくださっています。使命は皆さんを幸せにすることです」
山本さんは胸を打たれた。清らかな微笑み、凜とした強さ。質問者とのやり取りには、どんな人をも包み込む真心と誠実さが凝縮されていた。
座談会の終了後、山本さんは色紙を出した。「何か指針となるものをお願いできませんか?」。夫人は「私は会長ではありませんので」と断った。しかし、山本さんたち支部のメンバーの熱意に押され、ペンを走らせた。
「不退転」
先生が第3代会長を辞任したのは、この日から38日後のこと。練馬の友は「不退転」の決意を湧き立たせた。
三原台支部が誕生した77年、支部は約120世帯。区内のほとんどの支部が当時、200世帯前後だった。支部婦人部長の山本さんは、支部長の夫・五郎さんと共に、“必ず200世帯の支部に”と誓った。
78年、支部内に練馬文化会館が誕生。懇談の折、先生は五郎さんに「学会の会館がある支部は、“広布の城下町”です。地域を頼みます」と語った。
山本さんは「地域発展」の祈りを強くした。近隣との友好を深め、絆を育んだ。「不退転」の揮毫から数年後、三原台支部は200世帯を突破した。
「お好きな言葉の中から、読者の方の励みになるような言葉をお教えください」――この質問に、香峯子夫人は応えている。
「私のいちばん好きな言葉は、主人(池田先生)から贈られた言葉で、『愚痴は福運を消し、感謝の唱題は万代の幸を築く』です」
「すべてをいいほうにとっていこうとする言葉です。その姿勢は、私の習慣になった気がします」
1978年5月9日、池田先生が出席して、練馬文化会館の開館記念勤行会が晴れやかに開催された。
館内には、卵の殻を染色して作られた“桜”のパネルが設置されていた。開館の日を目指し、ヤング・ミセス(当時)の友が丹精込めて制作したものだ。21世紀へ向けての自分たちの未来像を、万朶と咲く桜になぞらえた。約4000個の卵の殻が使われた。
先生は「すごいね。真心、うれしいね」と。居合わせた婦人たちと、パネルの前で記念のカメラに納まった。
翌79年3月17日、香峯子夫人が練馬文化会館へ。“桜”のパネルを見つめ、「素晴らしいですね」と。館内で練馬の婦人の代表と懇談した後、三原台支部の座談会へ向かった。
三原台支部の座談会終了後、「不退転」と色紙に揮毫した香峯子夫人は、山本さんに語った。
「これは、会長が書いたものではありません。どうか、額に入れて飾るようなことはなさらないでください」
「師弟」こそが学会の根本精神であることを、奥様は伝えようとされたに違いない――そう感じた山本さんは、夫人の言葉の通り、額に入れることはしなかった。
ただ、練馬の同志にとって「宝」の色紙である。“せめて、これだけは”と、山本さんは色紙を紫色の和紙に包み、大切に保管してきた。
池田先生は述べている。
「1979年(昭和54年)、創価学会が、厳しい法難の嵐の中にあった時も、妻は少しも変わらぬ笑顔で、学会活動に励みました。
ある座談会に出席した折、同志の方から色紙に一言をと言われ、妻が書き記した言葉は『不退転』であります。どんなことがあっても、一生涯、学会と共に『不退転』の信心を貫き通す――これが、創価の師弟の誓いなのであります」
【引用・参考文献】『香峯子抄』(主婦の友社)、月刊誌「主婦の友」1990年新年号