〈希望の指針――池田先生の指導に学ぶ〉 3・16㊦2022年3月4日
- さあ、次は私たちの出番だ!
連載「希望の指針――池田先生の指導に学ぶ」では、テーマごとに珠玉の指導・激励を掲載します。今回は折々の指導から、「3・16」の精神について紹介します。
(戸田)先生は、常々言われていた。
「一日一日が真剣勝負だ。連絡に時間がかかるようでは、組織は死んでいる」
「いざという時、広宣流布の戦場に駆けつけられるか、どうかだ」
今のように携帯電話もなければ、メールもない。だが、「3・16」の連絡は、電光石火で日本列島を駆け巡った。
首都圏から五千人、静岡県を中心に千人が集い、さらに、各方面の代表も参加することになった。即座に、輸送の体制も万全を期した。
先生は、青年たちが来客の指導者の人格や振る舞いを見て、何かを摑み、何か勉強できるという思いであられることを、私は深く直感していた。
私も、世界の国家指導者や識者をお迎えする時は、必ず青年たちと歓迎している。それも、この戸田先生の精神を受け継いでのことである。
(『池田大作全集』第138巻、97ページ)
それは、一九五八年(昭和三十三年)の三月十六日、富士の裾野で、盛大な儀式を終えた夜であった。
戸田先生から私は、「学会本部の方が大事だ。大作は、私より一足早く東京に帰って、本部に行ってくれ給え」との、ご指示を受けて帰京した。
山積していた仕事を整理して、電光石火で再び本山へ舞い戻ると、衰弱を増しておられた先生は、お顔に深い安堵の微笑みを浮かべられた。
それからの一日また一日、布団に横たわられた先生は、幾たびとなく、私を呼ばれた。夜は、いつも必ず、私は、戸田先生の下座の方に布団を敷き、そこで寝るように命ぜられた。
「今日は、何の本を読んだか」と尋ねられたこともある。
先生は「私は『十八史略』を読んだよ」と言われながら、漢の劉邦が天下を取った時、「第一の功臣」と賞讃した、蕭何の話をしてくださった。
この蕭何は、食糧や武器の確保などに努め、最前線が力の限り戦えるように、手を打ち続けた人物である。そうした陰の功労者を、学会は最大に大事に護り、感謝し、真心から讃えていくのだ。そうすれば、永遠に栄えていける。
この重大な将軍学を、先生は繰り返し教えてくださったのである。
(『池田大作全集』第138巻、115ページ)
昭和三十三年(一九五八年)の三月十六日は、戸田先生が、広宣流布はこのようにしていけという模擬試験の意味を込めて、広布の方程式を示された日であります。
あの日、来ると約束していた政治家は来ませんでしたが、先生は、御本尊の御前では、一国の首相も、庶民も皆、平等であり、すべての人びとが、等しく妙法の光に照らされていく、広宣流布の姿を教えてくださいました。
先生は、その式典が終わって、帰られる直前に、一言、こう言われました。
「我々は、戦おうじゃないか!」
その意味は、限りなく深いと思います。不幸な民衆を救っていく戦い、誤った宗教との戦い、不当な権力との戦い、自己自身との戦いなど、いっさいを含んだうえでの、戸田先生のお言葉であったにちがいありません。
ともあれ、衰弱しきったお体でありながら、眼光鋭く、毅然として言われた、「我々は、戦おうじゃないか!」との先生のお言葉を、私は、電撃に打たれた思いで、聞いておりました。
そして、何ものをも恐れず、広宣流布に向かって戦うことを、私は、その時、再び決意いたしました。
これは、先生の魂の叫びであります。命の言葉であります。
(小説『新・人間革命』第4巻「春嵐」の章、45ページ)
戸田先生が青年に託された「広宣流布の印綬」とは一体何か。それは、「宗教革命の炎のバトン」にほかなりません。
宗教は何のために存在するのか。それは、民衆の幸福を実現するため、平和創出のためにある――この信念で宗教革命に立ち上がったのが、牧口先生と戸田先生の師弟です。
創価学会は、創立以来、宗教革命を断行してきました。戦前の機関紙「価値創造」に収録された「創価教育学会の目的」では、「教育法の革新」「生活法の革新」「哲学の革新」などの一切の根底に、「宗教革命」が必要であると訴えています。
そして、個人の生活における現証を基準にすれば、必ず宗教革命は証明できると明言されました。
戸田先生も、創価学会のなすべき使命は、民衆を幸福にする宗教革命であるとして、戦後の荒廃した時代に、地球上の一切の悲惨と不幸をなくすために一人立ち上がりました。
そして、宗教革命は即、一人ひとりの人間革命によって実現できることを教えられました。
牧口先生も戸田先生も、「一人ひとりの生活の変革」「民衆の幸福」「社会の建設」を見失った諸宗教に対しては、鋭い呵責を繰り広げ、「人間のための宗教」を復興しようと、対話の波を起こし続けました。
その学会の魂の勝利宣言が、「宗教界の王者」という言葉に結実したのです。「王者」とは、全民衆の幸福を担う責任感から生じた表現です。
(『勝利の経典「御書」に学ぶ』第8巻、7ページ)
私たちの日々の勤行・唱題には、「虚空会の儀式」に連なりゆく意義がある。
大聖人は、「是全く日蓮が自作にあらず多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏すりかたぎたる本尊なり」(全1243・新2086)と仰せの如く、御本尊は「虚空会の儀式」が顕されている。
御本尊への真剣な祈りの中で、広宣流布の誓願を立て、現実社会に飛び込んでいく。その誓いがあるからこそ、「地涌の菩薩」としての限りない力用が湧くのだ。勇気が、そして智慧が漲っていくのだ。
私が広布を開きます!
今日はこう戦います!
必ず勝利に導きます!
私は、御本尊の前に端座するたびに、御本仏・日蓮大聖人、そして現代に地涌の陣列を呼び出された恩師への誓いを深くしてきた。
この五十五年間(2013年当時)、毎日が「三・一六」である。永遠に決意の日であり、断固と勝利へ出発する日なのだ。
法華経には、地涌の菩薩の使命が説かれる。
「太陽と月の光明が諸々の闇を除くことができるように、この人(仏滅後に法華経をよく持つ人)は世間の中で行動して、衆生の闇を滅することができる」
現代社会には、深い闇が覆っている。
だからこそ、大聖人の「太陽の仏法」を実践する我らの出番なのだ。
後継の創価の師子王よ、走れ! 確信の祈り、勇気の行動、そして正義の声の力で、民衆を、人類を明々と照らし晴らしゆくのだ!
(『随筆 幸福の大道』、49ページ)
その広布の大河の流れが
歴史の必然であるか否かを
君よ問うなかれ
汝自身の胸中に
自らの汗と労苦により
広布を必然たらしめんとする
熱情のありや無しやを 常に問え