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〈栄光の共戦譜〉第5回 1964年(昭和39年)「団結の年」

2022年05月18日 | 妙法

〈栄光の共戦譜〉第5回 1964年(昭和39年)「団結の年」2022年5月18日

  • 間断なき出発だ! 間断なき前進だ!

 池田先生の第3代会長就任60周年を記念して発刊された年譜『栄光の共戦譜』には、黄金の“師弟の足跡”がとどめられている。本連載では、年譜を1年ごとに追いながら、現在の広布の活動に通じる“学会の原点”を確認していく。第5回は、「団結の年」と銘打たれた1964年(昭和39年)を掲載する。

「4・2」戸田先生の七回忌
広布史に燦然と刻まれる第3代会長就任式(1960年5月3日、東京・両国の日大講堂で)。池田先生は、恩師の七回忌へ300万世帯の達成を掲げた
広布史に燦然と刻まれる第3代会長就任式(1960年5月3日、東京・両国の日大講堂で)。池田先生は、恩師の七回忌へ300万世帯の達成を掲げた

 池田先生にとって、戸田先生の七回忌を迎える1964年(昭和39年)は、恩師の構想を実現する一つの決着点だった。
 60年(同35年)5月3日、第3代会長に就任した池田先生は、恩師の七回忌までに、戸田先生から託された会員300万世帯の願業を達成することを掲げた。会長に就任した翌日の日記には、こう記した。「恩師の七回忌までの四年間の構想を練る。ただ一筋に、昭和三十九年を」
 誓いを成し遂げるため、池田先生が自身に課したのは、“自らが誰よりも動くこと”だった。「席が温まる暇がないというよりは、席そのものがないといってもよいほど動いた。動くことしか、道は開けない」と当時を述懐している。
 先生の間断なき闘争によって、62年(同37年)11月、300万世帯を晴れて成就。64年4月の七回忌までには、400万世帯を突破した。
 4月1日の七回忌法要で、先生は小説『人間革命』の執筆を発表。翌2日の恩師の命日には、自ら執筆し、この日に刊行された「報恩抄」の講義録を恩師の墓前に献じた。「報恩抄」を含む御書の十大部の講義録の刊行は、戸田先生の構想だった。教学の軌道の確立は広布の重要な柱であり、同日、『仏教哲学大辞典』の編纂会議を行っている。
 さらにこの日、池田先生は、恩師の墓前で、次なる広布の峰である会員600万世帯の完遂を誓った。当時、日本の総世帯数は約2300万世帯。600万は、日本の4分の1が信心する時代の到来を意味していた。
 先生にとって、決着点は、新たな出発点でもあった。「間断なき出発だ! 間断なき前進だ! 連続闘争だ!」――創価の師弟の魂は、挑戦し続ける実践の中にこそある。

「6・7」高等部結成記念日
高等部の代表に部旗を授与する池田先生(1965年10月、東京・信濃町の学会本部〈当時〉で)
高等部の代表に部旗を授与する池田先生(1965年10月、東京・信濃町の学会本部〈当時〉で)

 「いよいよわが創価学会も、本門の戦いの時代に入りました」――1964年(昭和39年)4月、恩師の七回忌を迎え、池田先生はこう言明した。
 「本門の時代」とは、仏法を根底にした平和・文化の花を咲かせる総仕上げの時代である。その新たな時代を担う人材を育成すべく、「本門の時代」の最初に結成されたのが「高等部」であった。
 6月7日、東京の各本部で高等部の結成式が行われ、池田先生は、東京第2本部(当時)の男子高等部結成式に出席。
 「これからの10年間、しっかり勉強し、学びに学んで、堅固な人生の土台をつくっていってください」「将来は、人びとの幸福のために、人類の平和のために、諸君が学会の土台となって、広宣流布を支えていただきたい」と訴えた。
 高等部結成から2年後の66年「黎明の年」は、先生の提案によって、別名「高等部の年」と名付けられた。年頭、高等部員との記念撮影を行い、1月から代表への御書講義をスタート。そして、高等部の人材グループ「鳳雛会」「鳳雛グループ」が結成された。
 先生自ら、高等部への激励を重ね、後継の人材城を築いていったのである。
 部結成55周年を刻んだ2019年(令和元年)の8月、全国の高等部員800人が参加し、全国未来部夏季研修会が行われた。先生は、「新時代の大鳳として飛翔しゆく栄光凱歌の未来を、私は何よりの楽しみとして祈り、見守っていきます」と万感のメッセージを寄せた。
 今、6月7日は、「高等部結成記念日」として、後継の原点の日に。学会創立100周年への栄光凱歌の新たなドラマも、尽未来際にわたる広布の大河の流れも、創価の鳳雛たちによって紡がれていくに違いない。

「12・2」小説「人間革命」の起稿
東京・信濃町の聖教新聞本社(当時)で小説「人間革命」を執筆する池田先生(1971年)
東京・信濃町の聖教新聞本社(当時)で小説「人間革命」を執筆する池田先生(1971年)

 「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない。だが、その戦争はまだ、つづいていた」……。
 1964年(昭和39年)12月2日、池田先生は、小説『人間革命』の執筆を、太平洋戦争で凄惨な地上戦の舞台となった沖縄の地で開始した。
 池田先生が、第2代会長・戸田先生の生涯を書き残そうと考えたのは、入会から間もない19歳の時だった。軍部政府の弾圧と戦い抜いた恩師と出会った感動は、あまりにも大きかった。
 以後、戸田先生から妙悟空のペンネームで連載する小説『人間革命』の原稿を見せてもらった時(51年春)や、戸田先生と恩師の故郷である北海道・厚田村を訪ねた時(54年夏)に、執筆への思いを温める。57年(同32年)8月、長野・軽井沢で恩師と語らう中で、戸田先生の歩みを書き綴ることが師の期待であると確信した。
 64年4月、恩師の七回忌法要の席上、池田先生は小説『人間革命』の執筆を発表した。池田先生のペンネームは法悟空。最初の文字「法」は、戸田先生が使用した妙悟空の「妙」と合わせて“妙法”となる。壮絶な“師弟不二の言論闘争”は、全12巻の執筆と、その後の小説『新・人間革命』へと続いていった。
 先生は、小説『人間革命』のあとがきで、次のように言及した。
 「私のなすべきことは、恩師に代わって、『世界の平和』と『人類の幸福』のために戦い、生き抜き、この世の使命を果たしゆくこと」「それが、弟子としての報恩の道であり、先生が開き示された人間革命の道であるからだ」
 この「人間革命の道」に連なることが、広布の命運を決する私たちの戦いである。

◆年表◆
1964年

 〈4月1日〉
 池田先生の発願によって建立寄進された大客殿が落成
 法華講総講頭に就任
 小説「人間革命」執筆を発表(静岡)
  
 〈4月2日〉
 戸田先生の七回忌
 日蓮大聖人御書十大部講義第5巻『報恩抄』を発刊し、墓前に献じる(静岡)
  
 〈4月9日〉
 九州指導(~12日。宮崎、大分、福岡)
  
 〈5月3日〉
 第27回本部総会で翌年から始まる「第六の鐘」の目標を示し、正本堂の建立を発表(東京)
  
 〈5月12日〉
 オーストラリア・セイロン・インド訪問(~24日)
 オーストラリアでメルボルン支部を結成(13日)
  
 〈6月7日〉
 各地で高等部の結成式が行われるなか、東京第2本部の男子高等部結成式に出席(東京)
 十代、二十代の努力で一生は決まると強調し、正しい人生観の確立と勉学第一の基本指針を示す
  
 〈6月30日〉
 第7回学生部総会で創価大学の設立構想を発表(東京)
  
 〈9月5日〉
 中部指導(~7日。愛知、三重)
 第1回中部文化祭(6日、愛知)
  
 〈9月15日〉
 千葉会館落成入仏式(千葉)
  
 〈9月23日〉
 静岡本部落成入仏式(静岡)
  
 〈10月2日〉
 東南アジア・中東・欧州訪問(~19日。香港、タイ、イラン、トルコ、イタリア、フランス、チェコスロバキア、ハンガリー、スイス、ノルウェー、デンマーク)
  
 〈11月3日〉
 関西・四国指導(~4日。兵庫、徳島)
 第2回関西文化祭(3日、兵庫・甲子園球場)
  
 〈11月8日〉
 第2回東京文化祭(東京・国立競技場)
 3万人の人文字の一大絵巻が展開される
  
 〈11月17日〉
 公明党結成大会に祝電を打つ(東京)
  
 〈12月1日〉
 沖縄指導(~3日)
  
 〈12月2日〉
 小説「人間革命」の執筆を開始
 最も戦争の辛酸をなめた沖縄から幸福と平和の波を広げたいと筆を執り、その冒頭には「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない」と綴る
 12月22日付の聖教新聞に小説の主題について、「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」と記す
  
 ※年表は『栄光の共戦譜』から転載

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