第17回「大阪事件〈上〉」 “正しい仏法”が、必ず勝つ!2022年5月26日
- 〈君も立て――若き日の挑戦に学ぶ〉
【「若き日の日記」1957年(昭和32年)7月17日から】
学会は強い。
学会は正しい。
学会こそ、美しき団体哉。
「忘れまじ 七月三日の この文字は 師弟不敗の 記なるかな」
「七月の 十七日を 原点と 魂燃えなむ 君達いとしき」
「7・3」「7・17」に寄せて、池田先生がかつて詠んだ和歌だ。本年は、不屈の「負けじ魂」が燃え上がった「大阪大会」から65年である。
1957年(昭和32年)7月3日、北海道で夕張炭労事件による学会への弾圧を打ち破った先生は、千歳空港(当時)から羽田経由で大阪に入った。
関西の同志は先生に懇願した。「府警なんかに、行かんといてください。行かはったら、帰れんようになるに決まってます」
その不安とは対照的に、先生は毅然と語った。「大丈夫だよ。ぼくは、何も悪いことなんかしていないじゃないか。心配ないよ」
4月に行われた参議院大阪地方区の補欠選挙で、選挙違反を指示したという事実無根の容疑だった。背後には、民衆勢力として台頭する学会を陥れようとの権力の策謀があった。
先生は、午後7時過ぎに逮捕された。12年前の7月3日、軍部政府の弾圧と戦い抜いた戸田先生が出獄したのと、奇しくも同じ日、同じ時間だった。
6日、護送の車に乗る先生を見た友がいる。周囲から厳しい視線が注がれる中、先生はとっさに応じた。「明日、教学試験だね。しっかり頑張るように皆に伝えてください」
翌7日は、全国で任用試験の開催が予定されており、同志たちは教学の研さんを重ねていた。困難な中でも、最前線の友のことが、先生の頭から離れることはなかった。
旧関西本部には、戸田先生から頻繁に電話がかかってきた。10分おきに連絡が入ったこともあった。ある時、電話の応対をした壮年は、受話器を持ったまま、肩を震わせた。
剛毅な戸田先生が涙声で、「代われるものなら、わしが代わってやりたい。あそこ(牢獄)は入った者でないと分からないんだ」と語ったからである。愛弟子を思う恩師の深き慈愛に、壮年は師弟の精神を心に刻んだ。
逮捕されてから6日目の1957年(昭和32年)7月8日、先生は大阪拘置所に移監。検事は2人がかりで、夕食も取らせず、深夜まで取り調べを続けた。
翌9日、先生は取り調べの途中、手錠をかけられたまま、大阪地検の本館と別館を往復させられた。
手錠姿で屋外を連行される姿を見掛けた同志は、張り裂けんばかりの怒りをこらえるのに必死だった。
先生が手錠をはめられたまま、衆目にさらされたという話はすぐに、戸田先生に伝わった。恩師は激怒した。
「直ちに手錠を外させろ」
「学会をつぶすことが狙いなら、この戸田を逮捕しろと、検事に伝えてくれ。かわいい弟子が捕まって、牢獄に入れられているのを、黙って見過ごすことなど、断じてできぬ。戸田は、逃げも隠れもせんぞ!」
いかなる仕打ちにも決して動じない池田先生に、検事は業を煮やし、罪を認めなければ学会本部を手入れし、戸田会長を逮捕する、と恫喝した。10日、担当の弁護士は、恩師が逮捕されることを避けるため、検事の言う通りに供述するように告げた。
この日、先生は眠れぬ夜を過ごした。獄中でただ一人、煩悶を続けた先生は、恩師の身を案じ、法廷で無実を証明することを決断した。
翌11日、先生は容疑を全て認め、供述することを主任検事に伝えた。真実を偽らざるを得ない悲哀は、食欲を奪った。
一方、旧関西本部では、取り調べを受けた関係者らが、でっち上げの調書に協力したこと、そのことが原因で池田先生が逮捕されてしまったことなどを、関西の幹部に伝えた。先生が学会を護るため、検察側の思惑通りの供述を始めた日に、検事たちの捏造の全貌が浮かび上がり始めたのである。
12日、東京・蔵前の国技館で「東京大会」が開催された。戸田先生の一般講義が予定されていた日だったが、急きょ、「大阪事件」の抗議集会が行われた。
雨の中、東京だけではなく、埼玉や神奈川、千葉からも友が集った。場内2万人、場外にも2万人、計4万人の共戦の同志が駆け付けた。
席上、戸田先生は質問会を行った。今後の対策について尋ねる友に、恩師は烈々と語った。「今、既にいろいろな面から戦いを始めています。おめおめ負けてたまるものか!」
「東京大会」の終了後、戸田先生は大阪へと出発した。そして、大阪地検に向かい、検事正に面会を求めた。
地検の階段を上がる時には、同行の友が恩師の体を支えた。それほど、戸田先生の体は衰弱していた。にもかかわらず、恩師は検事正に会うや、「なぜ、無実の弟子を、いつまでも牢獄に閉じ込めておくのか! 私の逮捕が狙いなら、今すぐ、私を逮捕しなさい」と猛然と抗議したのである。
師匠は弟子を守るために、自らの命を懸けた。弟子は師匠の身を案じ、自らの身命を賭して、獄中で戦い抜いた。
池田先生が釈放される17日の早朝、東京から音楽隊のメンバーが夜行列車で駆け付けた。夏の太陽が照りつける中、彼らは大阪地検の近くで、怒りの演奏を開始した。すでに、地検の周辺には、先生の釈放を今か今かと待つ多くの同志が、集まっていた。
7月17日正午過ぎ、大阪拘置所の鉄扉が開いた。開襟シャツ姿の池田先生は、意気軒高にあいさつした。
「ありがとう。ご心配をおかけしました。私はこのように元気です!」
出迎えの人垣に、「万歳!」の歓声が轟いた。
釈放された後、池田先生は戸田先生を迎えるため、伊丹空港へと向かった。再会を果たすと、恩師は、裁判が勝負であり、裁判長が必ず分かってくれるとの確信を述べた。
旧関西本部に到着し、戸田先生は弟子たちに、かき氷を振る舞った。池田先生は「体は芯まで疲れ果てていた。そんな私に、恩師・戸田城聖先生は、かき氷を振る舞ってくださったのである。涼味とともに、師の真心が生命に沁みわたった」と述懐している。
午後6時、「大阪大会」が開会した。会場は、大阪地検のある建物と川を挟んで対岸に立つ、中之島の大阪市中央公会堂である。場内は義憤に燃えた同志で埋まり、場外にも1万数千人があふれた。
開会後、激しい豪雨が地面を叩きつけた。稲妻が黒雲を引き裂き、大阪地検のある建物の方向に閃光が走った。場外のスピーカーから流れる声は、雨の音にかき消された。場外の同志はずぶ濡れになりながら、必死に耳を傾けた。
池田先生が登壇すると、戸田先生はイスから立ち上がり、演壇のコップに水を注いだ。場内は大きな拍手に包まれた。
池田先生は御書の「大悪おこれば大善きたる」(新2145・全1300)を拝し、“私もさらに、強盛な信心を奮い起こし、皆様と共に、広宣流布に邁進する決心であります”と師子吼。そして、烈々と呼び掛けた。
“最後は、信心しきったものが、御本尊様を受持しきったものが、また、正しい仏法が、必ず勝つという信念でやろうではありませんか!”
「大阪大会」の終了後、先生は公会堂の窓を開けた。場外の同志を励ますためである。先生は身を乗り出して、大きく手を振った。
その後、音楽隊が会場前で学会歌の演奏を始めた。公会堂を出た先生は、扇子を手に何度も指揮を執った。さらに、同志の輪の中に入ると、「今度は勝とうな!」と繰り返した。
池田先生と同志との、魂と魂の結合が輝いた「大阪大会」。
場外で参加した女性は、“負けて泣くより、勝って泣こう”と決めた。兵庫から駆け付けた友は、隣にいた同志と手を取り合い、“絶対に頑張りましょう”と誓い合った。
先生は万感の思いを述べている。
「大阪大会には、全関西から、また首都圏から、大中部から、さらには中国、四国から、そして遠く九州からも、勇んで同志が駆けつけてくださった。私の胸から、その同志の熱意は、今もって、いな一生涯、消えることはない」
「たとえ大阪に来られなくとも、全国津々浦々で、私の無事を祈り、堂々と正義を叫んで立ち上がってくださった同志たちよ! 私はその真心を、真剣な行動を、一生涯、忘れない」