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ストーリーズ 師弟が紡ぐ広布史〉第20回 21世紀は女性の世紀 ③第一の戦友〈下

2022年05月22日 | 妙法

〈ストーリーズ 師弟が紡ぐ広布史〉第20回 21世紀は女性の世紀 ③第一の戦友〈下〉2022年5月22日

 
学園生への万感の期待

 「先日、81歳になる一人の老婦人をお見舞いする機会がありました。そして、その年老いた母親の言葉を、私は感銘深く聞きました」
 1976年7月14日、創価中学・高校で行われた「栄光祭」。あいさつに立った創立者の池田大作先生は、ある老婦人の人生に触れた。
 老婦人は貧しく、親類や近所からも蔑まれることがあった。だが、病床で「私は勝った」と語り、こう述べた。
 「どんな中傷、批判を受けてもいい。男性として社会に貢献するような、そういう息子がほしかった。そして、自分の息子のなかにはそういう人間が出た。だから私はうれしいんだ」
 先生は、老婦人の生き方を通して学園生に、どんなに大変なことがあっても「じっとこらえて今に見ろ」との決心で、学園生活を送ることを念願。学園生への万感の思いを語った。
 「私自身は、たとえどのような悪口、雑言、中傷、批判をされてもなんとも思っていません。なぜか。私には学園生がいる、創大生がいる、人材がいます」
 「諸君を大切にします。一生懸命、健康を祈っております。これが、創価学園の創立者の境涯であるということを、諸君は今一度、わかってください」
 先生が栄光祭で紹介した老婦人とは、自身の母・一さんのことだった。
 
 

「母」への思いを込めた歌

 4日後の18日、先生は音楽大学出身の2人の女性に、自らが詠んだ「母」の詩に曲をつけてほしいと依頼した。
 ――5年前の71年10月4日、長編詩「母」は、大阪市の東淀川体育館で開催された関西婦人部幹部会で発表された。「母よ!/おお 母よ/あなたは/あなたは なんと不思議な力を/なんと豊富な力を もっているのか」で始まる約200行の詩である。
 幹部会には、香峯子夫人が出席。夫人は大阪の行き帰り、同行の友に、「心に刻まれる母の詩ですね」「発表できてよかったですね」と語った。
 先生から夫人に託された原稿には、直しが何カ所も書き込まれたままだった。最後の最後まで推敲が重ねられたのである――。
 母たちへの真心がこもった詩が、19行の歌詞となり、メロディーがつけられた。76年8月4日、先生は夫人と共に完成した「母」の歌を聴いた。
 「素晴らしい歌ができましたね」と喜ぶ夫人に、先生は語った。「きっと母も喜ぶだろうし、全国、全世界の母たちが喜んでくれるだろう」
 先生は後に、歌に込めた真情をこう記した。「長編詩『母』を歌にと考えたのも、けなげな庶民の母たちが、世界の人々の幸せと平和を祈り、日夜、献身的に行動しておられることへの感謝の思いからである」
  
 同年8月6日、先生は一さんのもとへ、「母」の歌のテープを届けた。一さんは何度も歌を流しては、うれしそうにうなずいていたという。
 1カ月後の9月6日、一さんは逝去した。創立者の母が亡くなったことを知った創価女子学園(現・関西創価学園)の生徒たちは、皆で「母」を歌い、テープに吹き込んだ。
 9日の朝、先生は乙女たちの歌声を聴いた。そして、母の写真を同学園に贈り、和歌を認めた。
 「悲母 逝きて 娘らの おくりし 母の曲 今朝に 聞かなむ 大空ひびけと」

池田先生が詠んだ長編詩「母」の原稿
池田先生が詠んだ長編詩「母」の原稿
婦人部結成60周年を記念して創価世界女性会館に設置された「母」の歌碑。先生は「『母』の曲を聴くと、今日の学会を営々として築かれた無名の母たちを思う」と
婦人部結成60周年を記念して創価世界女性会館に設置された「母」の歌碑。先生は「『母』の曲を聴くと、今日の学会を営々として築かれた無名の母たちを思う」と
 
広布の拡大は「一人」から始まる

 1972年12月23日、中米のニカラグアを大地震が襲った。今西澄子さんは、夫・統衍さんの転勤でニカラグアに来たばかりだった。
 仮住まいのホテルの3階が上層階に押しつぶされた。今西さん夫婦は5階に滞在していた。九死に一生を得た。
 助かった命。廃墟と化す街を見つめながら、澄子さんは“この地に仏法を語り広めよう”と誓う。
 それから1年3カ月がたった74年3月、池田先生がパナマを訪問。澄子さんはニカラグアから駆け付け、仏法の種を蒔く決意を伝えた。
 師との懇談の後、澄子さんのもとに手紙が来た。香峯子夫人の字で、「会長がすぐ返歌を作りましたが、少々熱っぽくて、筆が持ちにくいので私が代筆いたしました」と書かれ、2首の歌が記されていた。
 「変らじの 夫婦の彼方に 金の橋」
 「いにしえの 奇しき友どち 幸祈る」
 澄子さんがニカラグアで生活を始めた時、現地にメンバーはいなかった。そこから、澄子さんは粘り強く、一人また一人と対話を重ねた。
 翌75年1月26日、澄子さんはSGIの結成となる、グアムでの第1回「世界平和会議」に、ニカラグアからただ一人参加。この時、同年7月にハワイで行われるコンベンション(大会)で、ニカラグアのメンバー5人によるパレードの実現を、師に誓った。
 5月、ニカラグアに支部が結成される。統衍さんが支部長、澄子さんが支部婦人部長に就いた。そして、7月のハワイのコンベンションで、師に誓った通り、ニカラグアのメンバー5人のパレードを実現させたのである。
 コンベンションから1カ月ほどが過ぎた頃、澄子さんにエアメールが届いた。香峯子夫人からだった。
 「五人もの同志が参加なさいましたことは、条件の違いを考えますと、日本ならば五百人にも相当するものであったと思います」
 「くれぐれも、お元気で、楽しい活動をなさってください。女性の身で、メンバーの要となり、懸命に奔走される姿に、本当によくなさっていると、敬服しております」
 80年2月に帰国するまでの7年余で、50人ほどの地涌の友が誕生した。日本に戻ると、兵庫・尼崎で「常勝」の精神を学んだ。
 その後、86年からはポルトガルへ。この地でも、澄子さんは地道に対話を広げ、3年後には自宅に40人が集って、初の総会を開いた。
 87年6月、欧州の女性リーダーが集まった懇談の場で、香峯子夫人は澄子さんのことを、こう紹介している。
 「たった一人から広宣流布のために頑張ってこられた方なんです」
 広布の拡大は、いついかなる時も、どんな場所でも、「一人」から始まる――世界広布の原野を開拓してきた、澄子さんの絶対の確信である。

2004年5月、東京牧口記念会館で行われた本部幹部会。池田先生が両手で高々とVサインを。その隣で香峯子夫人は拍手を送る。この幹部会で先生は「たとえ一歩でも二歩でも、粘り強く、自分の決めた目標に向かって進んでいく。その人こそ、信頼を勝ち取る人であり、最後に必ず勝つ人なのである」と強調した
2004年5月、東京牧口記念会館で行われた本部幹部会。池田先生が両手で高々とVサインを。その隣で香峯子夫人は拍手を送る。この幹部会で先生は「たとえ一歩でも二歩でも、粘り強く、自分の決めた目標に向かって進んでいく。その人こそ、信頼を勝ち取る人であり、最後に必ず勝つ人なのである」と強調した
 
温情に満ちた「もてなし」

 緻密な取材力に定評があったジャーナリストの児玉隆也氏。38歳の若さで亡くなった氏は生前、池田先生ご夫妻にインタビューをしている。
 氏はもともと、創価学会に対して、良い印象を持っていなかった。それが百八十度変わったのが、学会行事の取材である。
 その行事は富士の見える広場で開催された。先生は用意された席に着いた。ところが、自らの一角にだけテントが設けられていることに気付くと、怒気を含んだ声で取り払うように語った。氏の目には、先生が“私だけを特別扱いにするな”と叫んでいるように映り、深く印象に残ったという。
 氏が先生ご夫妻に取材する前夜、ある出版社の編集部が、氏の著書を先生に届けた。その日の夜遅くまで、先生は激務が続いた。
 にもかかわらず、取材の時点で、先生ご夫妻は著書を読み終えて、氏を迎えた。しかも、ただ「読む」ということにとどまらず、行間まで読まなければ語れない読後感を伝えた。その感激を、氏は記した。
 「私は、この日おそるべき努力と思いやりの必要なおもてなしに接した」「畏怖すべき温情に満ちた『もてなし』であった」
 このインタビューの数年前、氏は香峯子夫人に取材をしている。4時間近くにも及ぶ長時間の取材を終え、氏が「ホッとなさいましたか?」と尋ねると、夫人は「ええ、もう、女学校時代の試験より、ずっと、辛うございました」と。その率直さを、氏は「実にみごとな答えで応じた」とつづった。
 先生ご夫妻へのインタビューは「婦人と暮し」(1974年1月1日、冬号)に掲載された。タイトルには、「おもてなしの心」との一言が入った。

第9回「健康祭」で学園生の奮闘に「関西常勝太鼓」をたたいてエールを送る池田先生ご夫妻(1990年10月20日、大阪・交野市の関西創価学園で)
第9回「健康祭」で学園生の奮闘に「関西常勝太鼓」をたたいてエールを送る池田先生ご夫妻(1990年10月20日、大阪・交野市の関西創価学園で)
 
微笑み忘れぬ 香峯子抄かな

 時には“秘書”として、時には“看護師”として、時には“外交官”として、70年もの間、池田先生の激闘を支えてきた香峯子夫人。
 『香峯子抄』(主婦の友社)の中で、「奥様だけが知っている、素顔の(池田)名誉会長は、どんな方なのでしょう」との質問に、こう答えている。
 「素顔の夫は、誠実という言葉がぴったりの人です。約束は必ず守ります。人をなんとか安心させ、喜ばせ、楽しませていくことに、いつも心を砕いています」
 「結論的には、素顔も公の顔とまったく同じといってよいと思います」
 また、「生きがいをお聞かせください」との問いには、こう語っている。
 「人に希望を持たせてあげること、友人を心から励ますことが、私たちの人生の生きがいになっています」
 『香峯子抄』の発行日である2005年2月27日、池田先生は「第一の戦友」に心からの感謝を込め、次のように詠んだ。
 「雪の日も 雨の日も 微笑み忘れぬ 香峯子抄かな」

香峯子夫人が創価世界女性会館を訪問(2011年2月25日)。この日、同会館で行われた婦人部代表の協議会に寄せて、池田先生は「広宣の この道歩めや わが同志 勝利の人生 断じて勝ち抜け」など3首の和歌を詠んだ
香峯子夫人が創価世界女性会館を訪問(2011年2月25日)。この日、同会館で行われた婦人部代表の協議会に寄せて、池田先生は「広宣の この道歩めや わが同志 勝利の人生 断じて勝ち抜け」など3首の和歌を詠んだ
 
アナザーストーリーズ
どこまでも心を尽くして

 今西澄子さんはニカラグアに住む前、1966年から72年まで、兵庫の尼崎、大阪の堺で暮らした。
 66年9月18日に阪神甲子園球場で開かれた“雨の関西文化祭”に参加するなど、6年間、常勝の天地で学会精神の真髄を生命に刻んだ。
 文化祭から20年後の86年、ポルトガルへ。翌87年6月、パリで池田先生との出会いを結ぶ。
 夫の仕事の関係で、メキシコ、アメリカ、ニカラグアなどに住み、それぞれの地で人間革命の哲理を語り抜いてきた。
 先生は、その開拓の労をたたえ、これから誕生する宝友のためにと、女性用の念珠10本、男性用の念珠5本を、今西さんに贈った。
 先生は当初、男性用の念珠も女性用と同じく10本渡す予定だったという。だが、「男性用のものを10本贈ると、今西さんが男性の対話に悩んでしまわれるのでは」と香峯子夫人が心配し、5本になったという。
 どこまでも一人に心を尽くす先生、夫人の真心に感謝し、今西さんはポルトガルの地を奔走。日本へ帰国する92年1月、「ポルトガル支部」が発足した。

 
フィリピンの友の奮闘

 前回の「ストーリーズ」(4月24日付)の掲載後、池田先生ご夫妻の結婚70周年の祝福や、広布拡大に挑戦を開始する決意が、読者から届いた。
 その中に、フィリピンで広布に駆ける日本出身のレイコ・スズキさんの声があった。
 かつて新潟に住んでいたレイコさんは1993年、夫の転勤で岡山県へ。さらに、その5年後には夫がフィリピンに単身赴任となった。
 当時、レイコさんは義父母の介護、3人の子育てで、心の張り詰める日々が続いていた。認知症の義母の徘徊で、苦労することもあった。
 そんなレイコさんに、地域の友は寄り添い、励まし続けた。その温かさが、レイコさんの力となった。
 義父母が亡くなり、子育ても一段落した2009年、フィリピンへ。世界広布の使命に燃えたが、言葉が話せず、メンバーとの意思疎通もままならない。生活圏内には交通機関がないため、日常生活も苦労の連続だった。
 やがて、片言のタガログ語は話せるようにはなったものの、日常会話とまではいかない。だが、祈りを重ねる中で、日本語を話せる現地のメンバーと知り合い、共に活動に励むように。フィリピンの免許証も取得した。
 レイコさんは、師弟を持つ大切さや教学研さんの意義などを伝えた。少しずつ、学会活動に挑戦するメンバーが増えると、功徳の体験も生まれた。
 今年3月、創価大学通信教育部の教育学部を卒業した。生涯青春の気概に燃えて、フィリピンで挑戦を重ねている。

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