この寺院なみの屋敷が高台の突端に住宅として、あたりの民家を睥睨(へいげい)するさまは空恐ろしいほどであったが、ここを去るとたちまち迷路になり、ここにも、同じ類の現存物があるかもと探す楽しみも加わってきた。しかし、これほどの住居はみつけだすことはできなかった。
自動車が一台やっと通れる道路が曲がりくねり、2台がなんとかすれちがえる道路がさしずめメイン通りであるが、これも曲がって先はそうみえない。そこを自転車ですすむと、たちまち野草・潅木ぼうぼうのわき道に変わったり、地面むき出しのまま生垣沿いに奥へ消えるみちがあったりする。そしてのぼりくだりがいたるところにあり、樹木が覆っているとなると、夜間は目標住宅を訪ねるのは、不可能、うまく来たところに引返すのも不可能、下北方住居人でなければできないであろう。
さらにこの迷路の感を加速するのは、ほとんどの屋敷が細い小道を道路から曲がりながら奥に向かわせ、そこに母屋があるからである。なかには、その道路に並木をもったのもあり公道とまちがえる。まさに英国なるここよりプライベート道路を思い出させた。母屋全体が見える屋敷はほとんどない。先日読書会があったkさんの民家が、農家の屋敷の道路に接した場所といったのは、そんな屋敷構成の結果だったのだとわかった。わたしは旧農家であったとみられるこんな屋敷のつづく迷路を、気のむくまままわっていたのである。
そのうち、どの屋敷の母屋も、もはや改築されて、新建材の住宅、ツーバイフォの団地風仕様に変わってしまっているのに気づかされた。もはやあの寺院住居はどこにも発見できなかった。母屋ばかりでなく、屋敷全体が更地へブルトーザーで変えられ、サニーサイドとかいうしゃれた、ここらと別世界の愛称をつけられたアパート風マンションになってしまっていた。なかには集合住宅地に変わってしまった隣近所の100メートルの屋敷群もある。ただ、何棟か残った巨大な納屋が、昔日の様式美に充ちた農家のただずまいを、つたえている。この納屋だけはあまりの存在感でぶち壊すのに気がとがめたのであろうか。
この建築の新しさからみて、もし十年まえでも、ここを訪ねていたなら、迷路にある旧農家屋敷のたたずまいを堪能できたであろうにと残念で仕方がない。子供時代にコグヤ、コグヤと聞き、シモキタといえば隣のように思っていた町に、今、生まれて初めて踏み込んだのである。数人の中年にも聞いてみると、みなシモキタの町はどこにあるのと聞きなおされた、平和台の南斜面の林の中というと、へえとおどろくのだった。目に盲点があるように故郷意識にも盲点があるのだろう。想像力の頼りなさをあらためて再認識させられるのであった。
それにしても、この迷路の町を不便ともせずに暮らした社会とはどんな社会だったのだろうか。わかっているのは、外への交渉はさしあたり日常生活に不要な自己充足型の濃い隣・近所世界だったからであろう。それは、すでに消滅しているものとこの開発でおもわざるをえないのだ。
その一点で、30歳台前後、つまり団塊ジュニア世代のわかものが、本の交換会をしたこと。この濃密なコミュニケーションが、この崩壊旧コミュニケーション地区のうえで営まれたことは、また興味をひかれるのであった。
自動車が一台やっと通れる道路が曲がりくねり、2台がなんとかすれちがえる道路がさしずめメイン通りであるが、これも曲がって先はそうみえない。そこを自転車ですすむと、たちまち野草・潅木ぼうぼうのわき道に変わったり、地面むき出しのまま生垣沿いに奥へ消えるみちがあったりする。そしてのぼりくだりがいたるところにあり、樹木が覆っているとなると、夜間は目標住宅を訪ねるのは、不可能、うまく来たところに引返すのも不可能、下北方住居人でなければできないであろう。
さらにこの迷路の感を加速するのは、ほとんどの屋敷が細い小道を道路から曲がりながら奥に向かわせ、そこに母屋があるからである。なかには、その道路に並木をもったのもあり公道とまちがえる。まさに英国なるここよりプライベート道路を思い出させた。母屋全体が見える屋敷はほとんどない。先日読書会があったkさんの民家が、農家の屋敷の道路に接した場所といったのは、そんな屋敷構成の結果だったのだとわかった。わたしは旧農家であったとみられるこんな屋敷のつづく迷路を、気のむくまままわっていたのである。
そのうち、どの屋敷の母屋も、もはや改築されて、新建材の住宅、ツーバイフォの団地風仕様に変わってしまっているのに気づかされた。もはやあの寺院住居はどこにも発見できなかった。母屋ばかりでなく、屋敷全体が更地へブルトーザーで変えられ、サニーサイドとかいうしゃれた、ここらと別世界の愛称をつけられたアパート風マンションになってしまっていた。なかには集合住宅地に変わってしまった隣近所の100メートルの屋敷群もある。ただ、何棟か残った巨大な納屋が、昔日の様式美に充ちた農家のただずまいを、つたえている。この納屋だけはあまりの存在感でぶち壊すのに気がとがめたのであろうか。
この建築の新しさからみて、もし十年まえでも、ここを訪ねていたなら、迷路にある旧農家屋敷のたたずまいを堪能できたであろうにと残念で仕方がない。子供時代にコグヤ、コグヤと聞き、シモキタといえば隣のように思っていた町に、今、生まれて初めて踏み込んだのである。数人の中年にも聞いてみると、みなシモキタの町はどこにあるのと聞きなおされた、平和台の南斜面の林の中というと、へえとおどろくのだった。目に盲点があるように故郷意識にも盲点があるのだろう。想像力の頼りなさをあらためて再認識させられるのであった。
それにしても、この迷路の町を不便ともせずに暮らした社会とはどんな社会だったのだろうか。わかっているのは、外への交渉はさしあたり日常生活に不要な自己充足型の濃い隣・近所世界だったからであろう。それは、すでに消滅しているものとこの開発でおもわざるをえないのだ。
その一点で、30歳台前後、つまり団塊ジュニア世代のわかものが、本の交換会をしたこと。この濃密なコミュニケーションが、この崩壊旧コミュニケーション地区のうえで営まれたことは、また興味をひかれるのであった。