平和台大橋を降り、すぐ左折、一番手前の坂道から下北方町に入った。すると、すぐに橋上から見た巨木の木立群に出くわした。タブあり、クスあり、杉も屋久杉のようにごつごつと存在感がある。こそぶる雨の下で森閑として、音もない。小さな社殿が木立の奥にみえ、ここは「こぐや」かと、近づくと、一人の老人が竹箒で社殿の前を掃いていた。記帳ノートがあり、「皇宮神社」とあった。老人に声をかけると、まだ50歳そこそこの男性だった。「ここはコグヤですよね」と通称を確認すると、そんな呼び名は聞いたことがないような返事をされた。聞けば、串間に住んでいたが、息子が結婚して、この近所に家を建てたので、一緒に暮らすためにこちらに来たとうことだった。
ある日、この神社に来て見ると、この静かな雰囲気がなんともいえず落ち着けるので、あれからときどき掃除をするようになったのだということだった。そこで帝釈寺が、コンクリート造になり、雰囲気も消し飛びましたよねというと 「淋ししですよねえ」とほほえんで、相槌を打ってもらえるので、「いらいらしますよね。なにをかんがえて、あんなことをするんですかね。」と返すと「淋しいです。ここはいいです。息子が家を建てまして、33年ぶりに帰ってきたんです」とつづけるのだ。
息子夫婦といっしょに暮らす。そして無人のコグヤで一人で庭を掃く、ぼくなら街中のタリーズかスタバでコーヒーを飲む。ここでは、寂しさが身に染み過ぎるのだ。男性とわかれて、境内をまわっていると「皇軍発祥の地」と彫られた高さ10メートルを超える日向石を積んだ塔があった。神武天皇の東征軍の編成された場所という。しかし今は賽銭箱も朽ち果てていた。
するとそのとき、境内の東の崖をへだてて、向かいの斜面の木立のうしろに堂々たる寺院の屋根と白壁が目を射た。まだコンクリート化されていない、すぐに行ってみることにした。境内の木立にそうぬかるんだ地面を回り、ふたたび道路にもどり、そこから右に細い路地をくだり、大きな道路に出て、路地を右に30メートルほど曲がりながら下ると、道はふたたびj自動車がとおれるくらいになり、そこに階段がありこの上が寺院であった。ずいぶん勝手が悪いお寺であるなと、数段の階段を自転車をかかえて上ると、個人の住宅ではないか。大きな苗字だけを記した表札があった。はじめ寺院を改造してかと思ったが、まったくの住宅だとわかった。
訪ねようかと一瞬おもったが、このなぞめいた大屋敷のままがイメージがふくらむわいと、黙って階段を下りて、この町をあちこちと回るのが、あらためて楽しみになりだした。淋しいとかどうとか、言ってられないほど、まるで遊園地にはいりこむ気分が沸いてくるのを押さえようがなくなってきた。
ある日、この神社に来て見ると、この静かな雰囲気がなんともいえず落ち着けるので、あれからときどき掃除をするようになったのだということだった。そこで帝釈寺が、コンクリート造になり、雰囲気も消し飛びましたよねというと 「淋ししですよねえ」とほほえんで、相槌を打ってもらえるので、「いらいらしますよね。なにをかんがえて、あんなことをするんですかね。」と返すと「淋しいです。ここはいいです。息子が家を建てまして、33年ぶりに帰ってきたんです」とつづけるのだ。
息子夫婦といっしょに暮らす。そして無人のコグヤで一人で庭を掃く、ぼくなら街中のタリーズかスタバでコーヒーを飲む。ここでは、寂しさが身に染み過ぎるのだ。男性とわかれて、境内をまわっていると「皇軍発祥の地」と彫られた高さ10メートルを超える日向石を積んだ塔があった。神武天皇の東征軍の編成された場所という。しかし今は賽銭箱も朽ち果てていた。
するとそのとき、境内の東の崖をへだてて、向かいの斜面の木立のうしろに堂々たる寺院の屋根と白壁が目を射た。まだコンクリート化されていない、すぐに行ってみることにした。境内の木立にそうぬかるんだ地面を回り、ふたたび道路にもどり、そこから右に細い路地をくだり、大きな道路に出て、路地を右に30メートルほど曲がりながら下ると、道はふたたびj自動車がとおれるくらいになり、そこに階段がありこの上が寺院であった。ずいぶん勝手が悪いお寺であるなと、数段の階段を自転車をかかえて上ると、個人の住宅ではないか。大きな苗字だけを記した表札があった。はじめ寺院を改造してかと思ったが、まったくの住宅だとわかった。
訪ねようかと一瞬おもったが、このなぞめいた大屋敷のままがイメージがふくらむわいと、黙って階段を下りて、この町をあちこちと回るのが、あらためて楽しみになりだした。淋しいとかどうとか、言ってられないほど、まるで遊園地にはいりこむ気分が沸いてくるのを押さえようがなくなってきた。