市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

安陪晋三首相と会話するならば

2013-07-12 | 政治
 
前回にのべたように、なにを話すにも、自分が、自分がと自分中心の話題しかない人間と、話を交わすことほど、空しく時間の無駄をかんじさせられるものはない。日常にありあまる、不完全な会話、人生の大半は、この会話にさらされながら空費していかざるをえないのだ。自分の上司(自分が自分がの話者がなんと多いことか)だったり、親類のおじやおばだったり、儀礼的な結婚式とか葬式とか、誕生日とか、進学祝いとか引篭りの息子や娘のこととか、出世祝いとか、いろいろ日常でのどうしても相手に気を使う会話のとき、その場の状況も相手の心理も察知できずに、自分が、自分がと言いまくるやつほど、不愉快きわまる相手はいないであろう。安陪首相との会話するとなると、まさにこれを想像させられる。いったいオバマ大統領と、どんな会話が成り立ったのか。6月19日のロンドンでG8の大統領や首相たちとの会話で、ほんとにかれのアベノミクスなどを、彼が言うほど評価しまくったとは、とても思えない。

 アベノミクスの三本の矢は、もうこどもでも知ることになったのだが、なぜかれは、そういうことを言い出したのか、これも自分か自分がの意識の産物なのであることはまちがいない。三本の矢といえば戦国時代毛利元就が三人も息子たちに一本では折れるが、三本では折れないと結束を訴えた逸話からであろうか。あるいは三種の神器からか。いや、要するに「三」がなにをやるにも方針になるというとんでもない発想からではなかろうか。御三家、三本締め、三人娘、三度目の正直、三文の徳、三度目の正直、石の上にも三年、この三でくくり世界をまとめる思考法は、まさに哲学的、社会学的思考法と対極にある思考、認識法であることに気がつく。世界を簡単に自分中心にまとめる、ここに自分中心の思考になじめるものがある。

 いや、三本でくくってみると、訴えやすくなる。理解させやすくなる。ここにまさにかれの戦略があるともいえるのであるが、ぼく安陪が射ち込む三本の矢は考えてみると、実は三で締めくくることが不可能である事実に、ぼくらはすぐに気がつくのだ。アベノミクス三本の矢の「第三番目の矢」は、一番、二番とは、同じ矢ではない。まさに、矢としては、くくられない、最初の二本の矢の存在する世界とは、まさに位相の異次元に存在するなにかなのである。

 一番の矢、財政政策、二番目の矢、金融緩和では、財政出動も国債の日銀買い入れも安陪首相と、黒田日銀総裁で可能である。しかし、三番目の矢、成長戦略は、安陪も黒田も、誰も一人で放たれるものではないのである。平成20年間のデフレを脱却できる成長戦略が、自民党党首にして首相安陪が、示してそれで日本がデフレを脱却し、かっての栄光を取り戻し、世界経済をリードしていく日本となるということはありえない。これは経済学など関係ない常識の判断である。安陪首相は、7月の参院選挙までに、6月までに成長戦略をしめす矢を射ち込んでみせるといい放った。こんな方策があるなら、韓国も中国も、ギリシャもスペインもフランスもアメリカも、この戦略を自国でも採用して不況を脱出できるということになる。そんなばかなことは起こりえない。

 成長戦略とは、グローバル化した世界諸国との連帯関係のなかで、可能性を見出していかねばならぬ気の遠くなるような戦略であり、日本独自では、既得権をすべてぶちこわすという実践で新産業を興すか、それが果たしていいかわるいかもかんたんに決められない実験にとりくむか、そして、どんな企業でも、この20年間余り、それぞれの企業が、生存をかけて成長戦略を模索している現実である。この現実を一本の矢にたとえて射ち込むと、三本ならべて宣言したのだ。

 アベノミクスで、二本の矢で抑えておけば、かなり、かれの賭けは成功したはずであると思った。もともとかれの経済政策は、かれの本心とは思えない。すぐに思いだしたのは、ひとびとの欲望を満足させて、その魂をもらうというのが、安陪政権の狙いというのは、おもしろいことには公言されている。まずは経済、それから憲法改正、かくして「強い日本をとりもどす」と、安陪首相は言いまくってきている。この単純明快さには、ある種のおどろきをかんじざるをえないのである。ゲーテのファストで、悪魔のメフィストが、ファストの欲望をつぎつぎと満足させていく。シャミッソーの「影をなくした男」の灰色服の男が、風呂敷の中から、黄金でも家でも馬でもあらゆる欲望に答えるものを出して提供するかわりに、男から影をもらう。その寓話に似ているが、安陪首相は、まず相手の欲望を満足させられないことを、スタート時点でさらけだしてしまったのだ。要は悪魔でなかっただけである。しかし、悪魔よりも始末に悪い面がある。つまり、会話がなりたたないということである。自分が、自分が、の人物が、世界中を相手に会話をしかけだしていることである。

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