市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

快楽について

2008-05-13 | Weblog
 サルママ展の説明に、神谷君は宮日やUMKの記者や担当者に説明に回ったとブログで読んだ。ひさしぶりに飲まずに、こんなにしゃべったのは初めてと、内面の高揚を感じて、こっちも気が高ぶる思いだ。
 
 そうだなあ、人間の快楽とはなんだろう。この内面の高ぶり、それによるエネルギーが、細胞にふつふつと感じられるとか、そんな場合もそうだ。しかし、それだけでなく、僕はここ何年も思ってきたのだが、体のどこにも痛みがないなら、それだけで、快楽であると思えるようになってきている。それさへあれば、日常はすでに快楽である。つまり体が思う瞬間、思いどおりに動くということは快楽であると、思えるようになったのだ。

 そういう意味で、このまえものべたように金を使ってまで楽しみを追い求める必要を感じないのだ。今、この瞬間、このパソコンの前にいて、キーとたたいているときが快楽であり、やがて、寝て朝目覚めて、性懲りもなく、体がうごきだすのを感じるとき、これは快楽だ。つまり、今日、日常が痛みなく、不自由なくすごせるということ自体で快楽なのである。

 どうして、このようなことを、快楽と思えるようになったか。断っておくが、僕は無神論である。宗教など信じていない。ただ、かなり近い将来、日本はダメになるということを信じている。そのために、今のような社会保障どころか、インフレがすすみ何十パーセントと物価が高騰し、この貧困をどこにぶっつけていいかわからぬほど、われわれの生活は厳しくなるとほぼまちがいなさそうだと、しんじているわけだ。べつにそれを心配しているわけではない。それはそれでいい。

 だったら、それに対してはまず自分が自衛し、サバイバルできる能力を身に着けておくべきであろう。そのために、月に5日、できれば10日は、この消費生活、電力、石油でのエネルギー消費生活を止めて生活する事をやってきた。電気とガソリンによる生活利便性の拒否だ。つまり日常生活では基本的に自動車にのらない。クーラーも暖房も使わない。食事を楽しまない。栄養補給として捕らえる。金で楽しみを買わない、まあそんな一連の月に5ないし10日の生活。そしてあまった金はすべて保険と投資にまわす。そんなことである。

 そうなると、肉体で日常を無事におくれることがなんという快楽であることか。テロもなく、戦争もなく、飢饉のないこの国で、無事に生きていけることのなんと快楽であることか。犬や猫のライフスタイルを実践する。こんな備えが必要だと、信じている。国が破滅しても、人は残る。そう思うのだけど。
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