市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

一難去って

2006-06-21 | Weblog
 節子はリハビリが始まった。毎日、クリニックに送迎しなければならなくなった。前よりも忙しくなった。一難去って、また一難か。ただ、これは希望がるからなによりだ。

 今月は、癌や心臓発作や、副作用と深刻な病状に陥った友人・知人の報告をつぎつぎと受けてきた。末期の肺がんをイレッサで乗り切った知人は、副作用の全身蕁麻疹がついに火傷状になって、激痛で夜も眠れなくなったという。糖尿病の知人は
心臓疾患もあり、運動しなければ糖尿病がすすみ、運動は心臓に悪いと苦しんでいた。口中が、荒廃して食欲はもちろん、水も服用が困難になった大腸がんの知人と
耐え難い病状を知る。その知人・友人のまわりにも同様の病状の知人・友人がいるし、その先もまたと、ひろがる。

 昼間働く人々の一枚下は、この重篤な病気をかかえる人々に広がりなのだ。いつだれでも、こっちの層に移行することになるかもしれない。これほど、健康?と病気は2層になって日常生活を作っているのだ。

 このような病状の苦しみをじかに知り、見ると、痛みのない体以外に何が必要かと思う。名誉など屁の足しにもならない。地位も存在しない。金も解決できない。つまり、努力して何かをうることなどまったく無用な業である。

 一番先に排除すべきは、努力を捨て去ることだろうと思う。努力のほとんどは、
地位であり、名誉であり、金であり、自己幻想の獲得である。そして、その幻想は最後の病状によって嘲笑される。つまり優勝を目的に努力して、全身衰弱、骨折、麻薬中毒に落ち込むドリョクを連想させる。

 ではどうやって毎日を過ごすのか、ぼくは一つの指針として、犬や猫の生活が可能なようなドリョクがいいのではないかと思う。名誉も地位も欲せず、誰にも迷惑かけず、たった一人で楽しみ、いちまいの皿と椀と首輪だけの遺産しか残さない生涯とは、すばらしい。

 おれはなんにも人生でしなかったと思いは、重篤な病気の苦難を耐えさせてくれるかもしれない。政治家などは、どうやって病気に耐えているのだろうか、24時間中、耐え難い痛みに晒されながら・・・。

コメント
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