興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学博士、黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

原因ときっかけの違い

2007-02-10 | プチ臨床心理学

 しばしば耳にすることだけれど、例えば、

「どこどこのカップルが別れた原因、何だと思う?○○だって。たった○○が原因だよ。信じられる?」

という内容のゴシップがある。

 具体的な例を挙げてみると、

「A男さんが、B子さんと旅行に行って、旅先の食事中に二人が塩コショウを使うタイミングの事で大喧嘩になり、二人はそれが『原因』で別れた。たったそれだけの原因だよ~」

というような内容の噂話だ。別にこれは男女関係に限らず、あらゆる人間関係に問題が生じた際に当事者及びに周りの人間によって語られる話で、
「たったそれだけで」とか、「そのことさえなければ」
というような意見や感想をよく耳にする。

 さらにこれはキャリアや仕事などにも言えることで

「○○さんは△△が原因で会社が嫌になってやめたんだって。たった△△で。堪え性がないよね」

という話もよく聞く。また、やめた本人から、

「オレはある日何故か急に△△が嫌になってやめちゃったんだよ」とか

「私は◇◇というどーでもいい失敗して
 普段全然気にならないようなことなのにその時は急に嫌になってやめたの。あの失敗さえなければ今頃まだ・・・」

という内省もしばしば聞こえてくる。

しかし、本当にそうなのだろうか。

こういう話を聞いた時に、私は基本的に、その「原因」とされていることは、実は一つの「引き金・きっかけ」に過ぎず、例えその出来事がなかったとしても、同等の、または一見全く異なるように見える何らかの別件で、同じような結果がもたらされていたであろうと捉えるようにしている。

 つまり、その出来事は「最後の一撃」に過ぎなかったわけで、水面下ではそこまでで既にいろいろなことが起こっていて状況は飽和状態にまで複雑化していることが多いのだ。
  
 問題は、最後の一撃、最後の一滴だ。
表面張力でこぼれずにバランスを保っているコップの水は、誰かの振動によってこぼれるかもしれないし、もう一滴加わることで溢れるかも知れないし、或いは猫がぶっつかってこぼれるかもしれない。ここで人々はテーブルを揺らした誰かを責めるかも知れない。

「あんたが揺らしたのが原因でコップの水が こぼれちゃったじゃない」

と。

 しかし私は思うのだ。そんな なみなみに 水を入れておいて、こぼれないはずないだろうと。こぼれるのは時間の問題で、それはただのきっかけに過ぎず、根本的な問題はもともとグラスに入っていた水の量であると。

 ここで冒頭の例に戻るけれど、一見取るに足らないあまりにも馬鹿げた「原因」で別れたカップルというのはちょっと見つめてみると、その出来事が起こるまでに、実にいろいろな未解決な問題が
山積みになっていたり、関係性は既にどうしようもなく絡まっていたりすることが多い。つまりそれは起こるべくして起こったのだ。

 しかし、人間は基本的に、自分の身に起こったことに関しては、状況、環境などの外的要因に原因を帰する傾向があり、また逆に、他人に起こった問題に
ついては、その人の性格や能力など、内的な要因に問題の原因を帰そうとする傾向があるので (これには認知心理学的な裏づけがある)自分に何か起きたときに、己の内面を省みる代わりに表面的な原因を見つけてとりあえず安心しようと
するのだ。「原因」を見つけることで、自分の属性や問題点などに向き合うことも回避でき、一応の精神衛生が保たれるからだ。

 (ところで、他人の身に起こったことに関して表面的な原因について人が噂する際には、
 「たったそれだけのことで。○○さんは 人間的に未成熟だ」というニュアンスが 見られることが多く、結局のところ、その人の内的要因が話題の面白さのポイントになっている)

 ここで、「最後の一撃」からもう少し掘り下げて考えてみて、「考えてみれば、過去に○○という出来事が起きて以来、少しずつ歯車が狂い始めた」という風に内省する人は少なくない。しかしここで、過去の一地点に問題を集約してしまっては「最後の一撃」に原因を帰するのと大して変わらなくなってしまう(それにしても随分違うとは思うけれど)。

 そもそも、それならば「何故その過去の一地点で ○○という出来事に遭遇したのだろうか」。また「その時に感じた気持ちの原因は何だろうか」。「他の感じ方はありえなかったのだろうか」。
「なぜ、その出来事が自分にとって特別に記憶されているのだろうか」、などについて見つめてみて、例えは、自分の過去の人間関係や、基本な人間関係、対象関係のパターンなどについて分析してみると、そこには本質的な変化のきっかけが見出されたりする。

 以上のことを踏まえて考えてみると、世の中のあらゆる物事は、(もちろん例外はあるけれど)それまでの出来事との関連性によって起こるもので、一見「原因」と思えることも実は一つのきっかけに過ぎないのではないかと思えてくると思う。

 ただ、人は、あらゆる事象に対してとりあえずの「原因」を見出してそこに「エンドマーク」を作って安心したい生き物でもあるし、そうした思考・行動パターンが今日の人間において広く見られるのは、進化心理学的にいうと、そこに
「何らかの適応」があったからだと考えられる。

 実際、そうした行動自体がこころの防衛機制として作用しているし、なんでもかんでも煎じ詰めて考えていこうとしたら本当にきりがないのだけれど仕事や人間関係など、本当に自分にとって重要な
出来事においては、「引き金」にとらわれずに 少し掘り下げて内省してみることに大きな意味があるように思えるのだ。この辺りが、よく言われる「学ぶ人」「学ばない人」の分かれ目なのかも知れない。


最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
とにかく言葉が足りない現代人 (シオピー)
2007-02-11 07:53:18
 お久しぶりです。シオピーです。忙しくやや心のゆとりを欠いていましたが、又参加させていただきますので宜しくお願いします。

 僕も、人間関係の中で、生じた結果は、そのキッカケとは別に、その結果を生んだ中心的な原因は必ずあると思います。その原因が、ある時ある事柄によって、一気に致命的な原因にまで上りつめ、変異し、決定的な結果を生む事になるのでしょう。

 問題は、それまでにあった中心的な原因が、どのように形成され、その関与の程度が、どの程度自分にあるのか、身から出た錆は、果たして、相手のものなのか自分のものなのか、ということなのでしょう。

 男女の関係に絞れば、恋人や夫婦になると、ある特有の安堵感や安定感をそれぞれ持つ訳で、かぐや姫の歌の文句じゃないですが、♪た~だ、あなたの、優しさ~が、怖かった♪という、ある意味人格的側面に根ざす緊張感が薄れてくると、いつしか油断して、自分の居心地ばかりに気を取られ、相手の心のメッセージを捉え損ねてしまい、愛を維持するのに必要な共通の認識から、自分だけが、いつの間にか外れてしまうことになるものだと思います。

 人間は何の為に生きるのか、自分という人間はいかなるものか、このような古典的な問いかけは、際限なき生きる努力と、飽くなき探究心と、無限の社会的献身の中にこそ、自分なりの光明を見出し得るものと理解します。

 かかる見地からすれば、ちょっと深い関係になったり、ちょっと結婚して子供が生まれたからといって、手放しで、緊密な、愛に満ちた関係を継続できるものではないとわかる筈だと思うのです。

 やはり、特に現代人は、言葉を充分使って相手と対話し、理解に立って、相手に思いやりを注ぐという事が、余りにも少なく、浅く、いい加減にされている気がします。

 こうした事を、常に忘れず、状況が如何に変わっても、思いやりと配慮を持って大切に愛を育てたつもりでも、人の世は不条理に満ち、理屈どうりには行かないものです。  
 
 偉そうに言ってる僕自身も、結果的には何度も恋愛に終止符を打たれ、悲嘆にくれる訳ですが、破綻する度に、多くの理想と現実が塗り替えられ、絶望を感じては、同時に、自分とは何かの意味に、又一つ近づいた、即ち、新しい価値を自分の中に見出した気がして、皮肉にも、以前より深く大らかに、更に内省して大きくなれた充実感すら感じてしまうのです。

 どんなに素敵な女性も、相手がつまらないものであれば、彼女の人間性は失われ、それをそのまま継続すれば、もはや最悪で、二人は低レベルに閉塞した、没個性な抑圧的な生活に蹂躙させられることになり、下手をすると、反社会的な因果の列に巻き込まれかねません。DVはその典型でしょう。

 人間には、人間しか使えない「言葉」というものがあり、とてつもなく重要で、有難く、人間性を育てる素晴らしい道具だとつくづく思うのです。どんな不満も、言葉で辿れば違った見方が必ず生まれる気がします。

 致命的な結果になる前に、中心的な原因の究明と解決を、相手を人間として思いやる立場で、言葉を尽くした対話が、もしされていれば、たとえ結果が同じでも、その後の、二人の心には、それまでの関係があればこそ得られた、自分の過不足に対する内省が生まれ、二人が経験した失敗は、それぞれの未来の違う二つの幸せに、寄与し、意味深い経験として、有意義に刻まれることと思います。

 相手の言葉で、自らを内省する事が、二人の結果と原因を、よく理解できる方法のような気がします。

 

 
返信する
Unknown (Yodaka)
2007-02-13 16:21:33
シオピーさん

仰せの通りですね。日本人はとにかく
言葉が足りないと思います。昔は、以心伝心、
暗黙の了解といったものが日本社会のあらゆる
場面において非常によく機能していたけれど
時代が変わり、文化が変わり、人も変わり、
個人主義化が進む現代社会では、従来の
日本人のCommunication パターンでは無理が
生じていて、実際至るところで問題が生じている
ように思います。

今日、アメリカの小学校に通う子供の
Tutorの仕事でその子が学校で使っている
テキストを見たのだけれど、彼らが
クラスメイトなどとトラブルになった時、
どうするかという対処法についての
Discussionのコーナーがあり、それは
非常に興味深いものでした。

ご存知かも知れないけれど、アメリカでは
"'I' statement"と言って、I,つまり「私」を
主語にした発言が、(誰々が言っていたという
発言に対して」Assertiveであり、よりよい
コミュニケーションに結びつきます。この
I-statementの奨めについての記事だったのだけど
自主性や積極性が美徳とされるアメリカでは
かなり小さな子供のうちから、こうした
積極的なコミュニケーションについて習って
いくわけで、興味深いものだなとよく思います。

これは、他人がどうこうではなくて、自分の
気持ちや自分の意見をきちんと相手に伝える
ためであるけれど、こうしたコミュニケーションの
パターンは、現代の日本人においてもより良い
コミュニケーションの仕方として取り入れられる
もののように思います。

言葉の絶対的な量を増やすと同時に、その
個々の発言のコミュニケーションレベルを
あげていくことも、これからの日本社会、
必要不可欠になっていくと思います。
返信する
Unknown (yn)
2007-04-24 22:42:58
捏造と言っても、テレビ自体がヤラセくさいことを忘れてはいけないと思います。マスコミがヤラセを気にするのも自らに近い異分子を排除したいだけかもしれません。飲酒運転も似てます。痴漢も?。境界に近いことほど徹底的に排除するのが社会の法則ですから。

原因にこだわることそれ自体が、ロゴス中心主義に毒されているのかもしれません。
返信する
Unknown (MAKIO)
2009-02-25 14:13:06
「最近の日本は特に、ものごとを本当に
ほんの一面や表面的にしか見ない人が巷に
溢れているように思うのです」

はじめまして、のコメントです。
上記のよだかさんの記述に、すごく共感します。
mixiニュースの日記コメントを書いてる多くの人の
言葉や感想に、そういった感じを受けることがあります。。。

また、コミュニケーション、会話を通して
人間関係をはぐくんでいかねば、というのも、結婚生活において思います。
結婚すると、お互いの状態にかかわらず、同じ空間時間を過ごさなければならないので、不満や 良くない状態を、そのままにしておくのは本当に危険なことだなぁ、と感じるからです。

返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。