「ほどほど」という言葉を公言したくなる時があります。連日ニュースを観ると映し出され、伝えられるのは「大相撲八百長問題」、暴力事件、野球賭博が静まり落ち着いたかと思いきや、この問題が浮上してきました。
時々週刊誌を騒がしていたこともありましたが、相撲協会存亡の危機、絶体絶命の危機到来です。警視庁は事件にはならないがといいながら、情報を文部科学省に提供、ことはここから始まりました。「善きに生きる」にはこのような八百長は許されない、警視庁はだれがどのように決断しそうしたのか、「捜査上知り得た情報は漏らしてはならない。」という、公務員の守秘義務が形骸化されるという次元の問題をいいたいわけではありませんが、実に不思議な決断に驚きました。
まるで一人格の善導者のごとくに立ち振る舞いを見るような錯覚を覚えました。組織体が教条的に血も涙もない決断をしていくものばかりと思っていたところ、「善きに生きる」振舞いをしたようです。
しかしながら、なぜか「ほどほど」という言葉が脳裏をよぎって仕方がありません。絶体絶命の窮地、将来させる素があったことは違いはありませんが、相撲という国技とも呼ばれるものがなくなりそうな勢いに、なぜか悲しみを覚えます。
正直なところ、この賭博問題で名前の出ている力士は、全く知りませんでした。地元の出身者ならば、知り得ることもあったでしょうが、見たこともなく、勝敗などは全く興味はありませんでした。
関係した力士は、これで一生が台無しになるのですから、トンデモナイ絶体絶命になってしまいました。
関係する力士は最悪をどうにか回避したい、「思いやりの心でお願いします。」ではないでしょうか。私もさほど他人に迷惑をかけたわけではなく、穏便にことは進まないでしょうかと思っています。
「思いやりの心を持っていただきたい。」この場合の心はだれが一体もっているのでしょうか。明らかに相撲関係者以外のお客さんも含めた人々にあり、思いやりの目と言葉と態度、そして処分です。
心とは、経験的、個別的、偶然的なものと心理学主義だ云々をいわなくとも自明なことで、この場合内在の域から、神頼みの、他者からの働きに期待しています。
人は窮地に陥ると他者からの働きを期待したくなります。実体のある者(他者)から実体のない超越的なもの(神・仏)の働きに。
公序良俗に違背して、他人に迷惑をかけているので仕方がない。法律には触れないが、してはいけない行為です。倫理道徳の面からも許されません。それはわかりきっていることですが・・・・・。
法律に触れ、国民に多大な不愉快を与えた人を私は知っています。今はどうかは知りませんが月々何千万ものお小遣いをもらっていた方です。絶体絶命の危機にある二ヶ月15万円の人たちと住む世界が違う人です。
普通ならば絶体絶命の危機にあった人なのですが、「ほどほど」に終息してしまいました。思いやりを経験するために、縁起の世界で絶体絶命の危機を将来させたのですが、世の中とは冷酷至極です。15万円の人々は可哀そうでならない。「ほどほど」は古語でありやまと言葉です。日本人らしい言葉ともいわれます。
総理大臣賞は取りやめる。そんなことが言える立場にあることに驚きます。
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