思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

「ほどほど」を思うとき

2011年02月04日 | ことば

 「ほどほど」という言葉を公言したくなる時があります。連日ニュースを観ると映し出され、伝えられるのは「大相撲八百長問題」、暴力事件、野球賭博が静まり落ち着いたかと思いきや、この問題が浮上してきました。

 時々週刊誌を騒がしていたこともありましたが、相撲協会存亡の危機、絶体絶命の危機到来です。警視庁は事件にはならないがといいながら、情報を文部科学省に提供、ことはここから始まりました。「善きに生きる」にはこのような八百長は許されない、警視庁はだれがどのように決断しそうしたのか、「捜査上知り得た情報は漏らしてはならない。」という、公務員の守秘義務が形骸化されるという次元の問題をいいたいわけではありませんが、実に不思議な決断に驚きました。

 まるで一人格の善導者のごとくに立ち振る舞いを見るような錯覚を覚えました。組織体が教条的に血も涙もない決断をしていくものばかりと思っていたところ、「善きに生きる」振舞いをしたようです。

 しかしながら、なぜか「ほどほど」という言葉が脳裏をよぎって仕方がありません。絶体絶命の窮地、将来させる素があったことは違いはありませんが、相撲という国技とも呼ばれるものがなくなりそうな勢いに、なぜか悲しみを覚えます。

 正直なところ、この賭博問題で名前の出ている力士は、全く知りませんでした。地元の出身者ならば、知り得ることもあったでしょうが、見たこともなく、勝敗などは全く興味はありませんでした。

 関係した力士は、これで一生が台無しになるのですから、トンデモナイ絶体絶命になってしまいました。

 関係する力士は最悪をどうにか回避したい、「思いやりの心でお願いします。」ではないでしょうか。私もさほど他人に迷惑をかけたわけではなく、穏便にことは進まないでしょうかと思っています。

 「思いやりの心を持っていただきたい。」この場合の心はだれが一体もっているのでしょうか。明らかに相撲関係者以外のお客さんも含めた人々にあり、思いやりの目と言葉と態度、そして処分です。

 心とは、経験的、個別的、偶然的なものと心理学主義だ云々をいわなくとも自明なことで、この場合内在の域から、神頼みの、他者からの働きに期待しています。

 人は窮地に陥ると他者からの働きを期待したくなります。実体のある者(他者)から実体のない超越的なもの(神・仏)の働きに。

 公序良俗に違背して、他人に迷惑をかけているので仕方がない。法律には触れないが、してはいけない行為です。倫理道徳の面からも許されません。それはわかりきっていることですが・・・・・。

 法律に触れ、国民に多大な不愉快を与えた人を私は知っています。今はどうかは知りませんが月々何千万ものお小遣いをもらっていた方です。絶体絶命の危機にある二ヶ月15万円の人たちと住む世界が違う人です。

 普通ならば絶体絶命の危機にあった人なのですが、「ほどほど」に終息してしまいました。思いやりを経験するために、縁起の世界で絶体絶命の危機を将来させたのですが、世の中とは冷酷至極です。15万円の人々は可哀そうでならない。「ほどほど」は古語でありやまと言葉です。日本人らしい言葉ともいわれます。

 総理大臣賞は取りやめる。そんなことが言える立場にあることに驚きます。

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鉄火裁判と人の罪

2011年02月04日 | つれづれ記

 現在行われている「裁判員制度裁判」には、個人的な宗教観からすみやかな制度廃止を願ってきます。裁判員制度のできたきっかけの一つには、いわれなき有罪犯罪が起きていており、公務員のなすことへの不信感があります。

 一連の流れを見ていると、確かにとんでもない公務員がいるのは確かで、疑いの余地はありません。しかし「人を裁く」に宗教的な罪意識を感じる私には、責任なき人々になぜ罪を背負わせるのか、不思議であり、疑問を感じてなりません。

 その中で、法制史における罪に対する裁きや争いごとに対する裁きを紹介してきました。

 日本人は「ツミ(罪)」というやまと言葉を未だに使い続けています。語源から「ツツミ(堤)」「ツツム(包む)」と同じで、自然の流れをせき止める(阻害)、ものごとを被(おおう)ことで、あるべき姿を阻害することが「ツミ」であると考えています。

 そのような思想の中では、罪が発生した場合は自分を超えた超越的な力による判断(罰・バチ)が下ることになります。従って罪に対する裁きは、神判から、お上の裁きへと移行し、近代の規律な法制度のもとで、それが特定の公務員の手に裁きの手を委ねることになってなりました。しかし現代になって、その神判の手は、普通の人々、隣のおじさんやおばさん、お姉さん、お兄さん達に移されるようになってきました。

 犯罪処罰の軽重はありますが、一般の人が間接犯として、人を殺し、人を奴隷のごとくに拘禁し強制労働を強い遣ることには違いありません。

 審判の流れの中に、神判、お上の裁き、裁判官の裁き、そして一般人による裁き、国民全員参加の武力闘争や戦争をみるようでもあり、裁判員制度その者に疑問を感じてならないわけです。

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 このような法制史からみた裁きの例として、これまでに盟神探湯(くかたち)や江戸期のご公議(こうぎ)の裁きを紹介してきました。一年以上も前になりますが

「信越境論記」に学ぶ[2009年12月02日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/fe2f207441819c1080adcd68332c118a

という江戸時代の長野県と新潟県の国境争いとその裁定について紹介しました。

 この話は元禄15年(1702)ごろの話ですが、それよりも前の江戸初期の元和(げんな)5年(1619)ころに実際に行われていた「鉄火裁判」という神から御上への移行の頃の裁きが詳細に書かれている『日本神判史』(清水克行著 中公新書)がありますので、「鉄火裁判とはどんなもの出逢ったのかということを紹介したいと思います。

<引用>

 鉄火裁判
 かくして元和五年九月一八日、江戸幕府の検使の立ち会いのもと、東郷と西郷の鉄火裁判が行われることになった。このとき、その灼熱の鉄片を握る勝負の場となったのが、この綿向神社なのである。当日、神社の神前には棚が飾られ、喜助と角兵衛の二人は白木縞の衣裳に身を包み、その前に立った。そして、そこから五間(約九・一メートル) ほど南の場所では炭がおこされ、斧のかたちに加工された二つの鉄片が真っ赤になるまで焼かれていた。

さらに不正を防止するため、東郷が持ち込んだ鉄火は西郷の角兵衛が使用し、西郷が持ち込んだ鉄火は東郷の喜助が使用することにしたという。ここでの二人の役目は、手のひらの上に折皮(おにぎりなどを包む、木を紙のように薄く削ったもの)を一枚置き、その上にこの鉄火を載せ、九メートル離れた神棚まで運ぶというものであった。

 緊張の一瞬。このとき喜助の老母は、息子が鉄火をしくじったときには、わが手で息子を成敗しょうと、長刀をもって神社に駆けつけていた。そして居並ぶ誰もが固唾を呑んで見守るなか、二人は鉄火を取った。喜助は鉄火を受け取ると、さすがに熱かったのか、すぐさま神棚に向かって三間(約五・四メートル)ばかり駆け込み、そのまま神棚に鉄火を投げ入れた。すると真っ赤に焼けた鉄火は、そのまま神棚の棚板を焼き抜き、棚の下に煙をあげて落下したという。

一方、最初に鉄火を提案した角兵衛の側は、鉄火を受け取ると、たちまちのうちに手のひらが焼け焦げ、とてものことに走ることすらできず、その場で鉄火を投げ落としてしまった。たまらずに、その場から逃げようとする角兵衛を、すぐに幕府の役人たちは取り押さえ、翌日、角兵衛は町中を引き廻され、気の毒にも磔(はりつけ)にされてしまったという。

 後に伝えられるところによれば、「いささか奸智(かんち)ある者」である角兵衛は、この鉄火裁判に際して、熱しても赤くなるばかりで、さして熱くならない鉄片を用意しており、これを使うことで裁判に勝利しょうと企んでいたらしい。ところが、裁判の直前に双方の持ち込んだ鉄火が交換されてしまったため、その企みが失敗し、みずからの提案した裁判により惨めな最期を遂げることになってしまったのだという。

 以上が、四〇〇年前のわが国で実際に行われた鉄火裁判の顛末である。この裁判の結果、係争地であった日野山は東郷九ケ村の領有となり、一〇年におよんだ山相論は決着をみた。

ここに紹介した裁判の一連の経緯は、綿向神社に伝えられた『山論鉄火裁許之訳書』という古文書に書き記されている。・・・・・・・。

<以上まえがきから>

 係争というものを神の裁きでと考える道もあったという時代の話です。

 科学的である、また社会の進歩とはということは、人が人を裁く、全く係争に係わりをもたない善良な庶民が裁くということなのかも知れません。

 鉄火裁判は、野蛮に見えますが、現代のような善良な庶民が裁きを行い、そして罪を背負うのを見ていると、庶民が背負った罪はどう裁かれるのか、誰が裁くのか、堂々巡りの「不自然」が見えてなりません。

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