思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

金子みすゞ・「鯨法会」という詩に思う

2011年12月25日 | 思考探究

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 山口県の長門市には鯨資料館がありかつてこの地で行われていたクジラ漁に関わる祭りや伝統が受け継がれています。

 その中でも珍しいものは鯨の胎児を葬った「鯨墓」です。捕った鯨の胎内に胎児がいた場合にそれを葬るもので、この墓には七十数頭が眠っています。


(「NHK総合2011.10.19歴史秘話ヒストリー大正の詩人・金子みすゞ」から)

 墓碑には「南無阿弥陀佛」と言う文字のほか、「生きるためにやむを得ず命を奪ってしまったがどうか成仏してほしい」という文字が刻まれています。


(「NHK総合2011.10.19歴史秘話ヒストリー大正の詩人・金子みすゞ」から)


(「NHK総合2011.10.19歴史秘話ヒストリー大正の詩人・金子みすゞ」から)
 

 さらに村の寺には「鯨鯢過去帳(げいげいかこちょう)」というものが残され242の鯨の戒名が書かれています。そして地区の人々は今も毎日のお供え物と御参りを欠かすことはないということです。

 この長門市はあの詩人金子みすゞさんが生まれ育った故郷です。

 詩の世界を知り金子みすゞさんは、雑誌「童話」に

 人の大漁の喜びが、イワシにとっては悲しい弔いになる

という大漁の風景をイワシの視点から語る有名な「大漁」という詩を送ります。


(「NHK総合2011.10.19歴史秘話ヒストリー大正の詩人・金子みすゞ」から)

雑誌「童話」の撰者であった西條十先生はこの詩に衝撃を受け

 金子みすゞ氏の「大漁」にはアッといわせるようなイマジネーションの飛躍がある。この点は他の人々のちょっと模し難いところである。

と語っています。

 今年の10月中旬に金子みすゞ先生の詩の世界を扱ったNHK「歴史秘話ヒストリア~愛と悲しみのこだまでしょ~・大正の詩人 金子みすゞの秘密」でこれらの話がなされ、この番組については、マイ・ブログ

“こだまでしょうか”・金子みすゞの世界
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/e813e5e2930581a9ab1ce034ce3c0bf2

で番組で紹介はしていますが、上記の話については書いていませんでした。

 個性的な感情を育むもの、個々の感性を育てるものそこには地域性というものが深くかかわっているということだと思います。

「捕った鯨に感謝を忘れず祈りを捧げた風土が金子みすゞの独特の詩を育んでいった」

と番組でも解説されていました。

 私もそのように思います。

 番組の「鯨墓」についての話ですが、マイ・ブログ、

それは何故か、と自問して、こころを鍛えることだ。
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/469d352c4179da6ceb08b2a664c9903b

で紹介した『みすゞコスモス』(矢崎節夫著 JULA)のNo.2で詳細に解説されています。番組では、上記のように鯨墓の墓碑に刻まれた文字について「生きるためにやむを得ず命を奪ってしまったがどうか成仏してほしい」と紹介されていましたが、

 南無阿弥陀佛
       業尽有情 雖放不生
       故宿人天 同証仏果

 墓石の「南無阿弥陀佛」の下の文字は、

 「業尽きし有情、放つと雖も生ぜず。故に人天に宿して、同じく仏果を証ぜしめん」

と読み、

 母鯨とともにいのちの終わった子鯨よ。
 海へ放してやりたいが、とうてい生きることはできないであろう。
 どうぞあわれな子鯨よ。
 ならば人間とともに人間の慣習によって、仏の功徳を受けてほしい。

という意味になるそうです。

 そこで金子みすゞさんの「鯨法会」という詩です。浄土真宗の法要の名称で、浄土宗では鯨回向(えこう)といい、今も行われているようです。

 鯨法会

 鯨法会は春のくれ、
 海に飛魚採れるころ。

 浜のお寺で鳴る鐘が、
 ゆれて水面をわたるとき、

 村の漁夫が羽織着て、
 浜のお寺へいそぐとき、

 沖で鯨の子がひとり、
 その鳴る鐘をききながら、

 死んだ父さま、母さまを、
 こいし、こいしと泣いています。

 海のおもてを、鐘の音は、
 海のどこまで、ひびくやら。


 鯨法会:きじらほうえ
 飛魚 :とびうお
 水面 :みなも

 子鯨のこころ、万象(形あるものとしての)の鐘の音、自己の感慨で織りなした詩だと思います。

 次の詩は前回のブログで紹介した「さびしいとき」です。

さびしいとき

私がさびしいときに、
よその人は知らないの。

私がさびしいときに、
お友だちは笑うの。

私がさびしいときに、
お母さんはやさしいの。

私がさびしいときに、
仏さまはさびしいの。

この詩の解説は、矢崎節夫先生の『金子みすゞ詩集』の素晴らしい解説をそのまま使いましたが、

 赤の他人・友人・お母さん・仏さま

と、この詩ではその視点が最終的に自身のこころの内の「仏のこころ」に至ります。

「悉有仏性」という言葉を思い出させます。

「衆生はことごとく仏となるべきに、しかも衆生はことごとく仏となることなければ、すなわち如来の常住なるは明らかなり」とは聖徳太子のお言葉です。大乗仏教では、「悉有仏性」と申します。すなわち存在するものはことごとく仏の命をいただいています。

 道元さまはさらに「悉有仏性」の読みを深めて、「悉有は仏性なり」という読み方をしておられます。ことごとく仏性をもつのではなくて、存在するものはみなこれことごとく仏性、仏の命、仏のこころにほかならない。

と、故松原泰道先生は『こころの開眼 仏語仏戒』(集英社・p28~p29))と語っています。

いのちをいただいているという視点

存在そのものにいのちをみる視点

 重層する人間の視点ですが、こころを揺らせないと得難いこころも持つことのできる話しをすくうこともできません。

 こころを揺らすとは、迷うことではなく、感じるこころで感じるということで、朴念仁(ぼくねんじん)であるな、ということです。

 無口で無愛想、人情や道理がわからない人。偏屈人。

そういう人間にだけにはなりたくないものです。

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