思考の部屋

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聖浄の分化 2

2008年06月27日 | 古代精神史

 「聖浄の分化」において、日本の神の和御魂、荒御魂について書いたが、オランダの比較民俗学学者のコルネリウス・オウエハントが両義性について述べていることについて文化人類学者の山口昌男さんが(松平斉光著 「祭」朝日新聞社)の解説文の中で、自分の見解も含めかかれているので引用したい。

 オウエンハントは日本の民俗儀礼の中における蛇神の両義的性格について語りつつ、蛇神の示す両義的性格が、日本の神概念における和(ニギ)・荒(アラ)の構造的対立に由来するものであることを説き、こうした理論において先駆的な問題の提起を行った松平斉光を高く評価した。オウエハントは、日本の民俗研究者の中でも、松平氏ほど明快に、そして実証的に日本の神の両義性と宗教的祭礼の二元的構造を説き明かした人は他にいないと説いている。オウエハントの論旨はこうである。
 彼(松平)は善と悪を一人の神の二つの側面である、と語る。神は善神と悪神に分岐されると考えられるようである。神はこれら二つの分身の一人として行動する。しかし、同時に二つの対の部分は構造的に対立する。言い換えれば、それらは対をなしながら唯一神の全体性に統合されていくのである。松平氏はこうした特性を両面眼性又は二面性と呼ぶが、我々は今日むしろ両義性と呼び馴らわしている。
 日本の神の本性を和御魂・荒御魂という言葉を使って表現する。この対立する両者にあっては、善悪両者の価値は同じではなく前者が優越した立場にあるとする。これを松平氏に倣って表現すれば、8≠4+4(八は四足す四ではない)であるが、8=5+3又は8=(3+2)+3ということができる。
 更に氏の立場で興味深いのは、構造的対立は最終的なものではなく、その各々の部分が、あたかも増殖作業を遂げるかのごとく、再対立の相を秘めているという点の指摘がある。
 このようにして、荒ぶる神は、荒御魂の中に含まれる和御魂の要素の故に害虫を絶滅することができるということになる。しかし、この荒ぶる神行為は善行に携る時にも徹底して暴力的な性格を示すが、悪に向かうときはすさまじい。「ダブル・アンビヴァレンス」と定義することのできるこうした現象は、神の二元性を象徴する劇的対立として理解される祭式の分析に重要な手がかりを与える。(P264)

と述べている。
 山口昌男さんは文化人類学者で、両性具有、トリックスターの世界では有名な方です。この山口さんの両義性に関する考え方については、その思考の世界に惹きつけられるところがある。

 このオウエハントの解説より2年ほど前の、両義性に関する思考の流れはこうだ。

 興味深いのは、我々の概念は、文化の中心に位置する、または近い事象であればある程一元的であって、差異性の強調がなされる。それに対して、周縁的な事物についての概念は、それが明確な意識から遠ざかっている故に、「曖昧性」を帯びている。曖昧というのは多義的であるということに他ならない。
 多義性は、そこで、分割するより総合、新しい結びつきを可能にする。何故ならば一つの語が多義的であるということは、表層的な意味では、他の語との弁別性を前提として意味作用を行っても、潜在的には更に別の他の語と結びついているということを意味する。(「分化と両義性」岩波書店P6)

 「曖昧性」「多義性」「両義性」がどのような思考で導かれるかがよくわかる。しかし、これはあくまでも思考に基づく観念の解釈に過ぎない。「こういうことである」と事的な解釈は、曖昧性という混沌とした感覚を論理的なまとめることになるが、本質的には「言葉」の世界ではない。

 「曖昧性」「多義性」「両義性」という分化的な概念の導きを前提とする心の動きは、「混沌」とした「なにものか」から流れ、湧き出すものであって、A、Bの分化されたものがあるのではない。

 個におとづれる出来事、顕現する事象も然りであると思う。


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