思考の部屋

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「安曇野の文学 十返舎一九がみた安曇野」展・紅葉

2010年11月08日 | 風景

                    
                              (北アルプス常念岳)

 11月から安曇野市穂高交流学習センターでは、「安曇野の文学 十返舎一九がみた安曇野」と題し一九の作品い表された安曇野を紹介しています。

                    

 ホール脇の展示コーナーには、和綴じの『東海道中膝栗毛』などが並べられ、本物は見たことが無かっただけに見入ってしまいました。

                    
 
 十返舎一九(じっぺんしゃいっく)というと弥次さん喜多さんのコンビが全国を旅する『東海道中膝栗毛』(1802~1814)の作者で、この読み物は江戸時代の大ベストセラー作品ヒットで、教科書には必ず掲載されているように思います。
 
 「膝栗毛」とは、自らの膝(足)を栗毛(馬)として移動するということで、徒歩での旅行を意味します。一九自身も、労を惜しまず自ら各地に足を運び、取材をしたようです。

 そんな有名な一九が安曇野を訪れ取材、当時の松本藩の城下町にあった高美書店(現在もあり)主甚左衛門と交流を結んで訪れたようです。

                       
                                 (高美甚左衛門)

 高美甚左衛門が一九と知り合いになったのは、文化元年(1804)に本を仕入れに江戸に上がり、江戸の大手書店であった蔦屋(つたや)の店主重三郎の誘いで「書画会」という狂歌師や画家や書家などを集めその場で書画をさせる会に出かけそこで一九を紹介され親交をもったとのことです(高美甚左衛門の『文化十二歳日記』に記載されている)。

 『諸国道中金草鞋(しょこくどうちゅうきんのわらじ)』は、文化10年(1813)に始まり、20年間かけて25編まで続いたもっぱら全国各地を紹介する滑稽道中記でその13編には、松本藩内慶林堂高美屋(けいりんどう・たかみや)の店の絵が描かれています。

                           

                    

 文化11年(1814)に来訪した際に、成相新田(なりあいしんでん)現安曇野市豊科の藤森善衛兵衛の案内で松本から穂高牧にある真言宗のお寺で「信濃高野」ともよばれ、江戸時代、安曇、筑摩領民の総菩提所であった満願寺に取材に行きます。約20キロの道のりで、満願寺では松茸狩りを楽しんだそうです。

                    

 一九は満願寺から御開帳に合わせて、寺を題材にした物語の執筆を依頼され『御法花(みのりのはな)』という説話を出版しています。

                     

                     

 信州栗尾満願寺(まんがんじ)は、大同2年、田村麿の草創とかや。予去秋同国松本にいたり、此御山に詣でたりに大厦高楼雲(たいかかうろう)に聳へ、松杉繁して其荘厳さながら仏世の残膏をあらはし、実に人我を醒すに絶たり。境内を巡拝せしに、弥陀次郎の墓といふあり。案内せしもの問ずがたりに其来由をかたる。しかれども土俗の方言なれば、強(あなが)ち信用するに足らずといへども、観音霊応著(いちじる)き事は、粗人口にありて、予が聞書せし事甚多し。それが中に桔梗が原の友廻しといへる野干(きつね)の霊妙なるを附会せしあり。本語は小岩獄の藩中に父の仇敵(しうてき)を討たる保高何某の孝談也。誠に希世の賜児童を導くの階梯(かいてい)なればと、とりあへず編りて出しぬ。
 文化丙子孟春
                          十返舎一九誌
 


【十返舎一九・履歴】

 明和2年(1765)、駿河国府中(現静岡県)に奉行所同心の子として生まれた。本名は重田貞一、字(あざな)は駿陽、幼名は市九と称した。駿府町奉行小田切佐守直平に仕えた。
 天明4年(1784)に、直平が江戸の出るに及んで、江戸町屋敷で帳簿整理等の仕事をした。

 天明7年(1787)、土佐守が大坂町奉行になり、一緒に同地へ赴いたが、その後間もなく、武士をやめた。

 感性1年(1789)、近松東南の弟子となり、近松余七の一人としてで浄瑠璃(じょうるり)「木下陰狭間合戦」の作者の一人として名を連ねた。その後、頼まれて材木問屋角屋に勤めたが、作家としての道を捨てがたく、完成年(1793)再び江戸へ出た。本間蔦屋重三郎店で職人となり、押絵や錦絵等を手掛けた。

 合巻・人情本・読本等の戯作から、寺子屋の教科書(往来物)まで、幅広い作家活動をして、数百冊を超える作品を書いた。一九は、日本で執筆活動だけで生活で来た」最初の作家とも言われている。

 天保2年(1831)8月7日、亡くなった。

<以上>

 一九は本当は、三人兄弟の長男で、奉行所に勤める侍になる人だったようですが、どういうわけか芸術に目覚めたようです。

                      安曇野の平地に一気に紅葉がおとずれました。

                    

                           有名な鐘の鳴る丘の紅葉です。

                    

                         自宅庭先も鮮やかに色に変身しました。

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