思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

ソクラテスと宣長・自問自答

2012年05月03日 | 思考探究

[思考] ブログ村キーワード・パイドロス・本居宣長・ギュゲスの指輪・志操堅固

 文芸評論家の小林秀雄先生の古い講演会を聴いていたところ「本居宣長とソクラテスが似ている」という話がありました。そのなかで『パイドロス』の中で語られている神話論がとても面白かったので文章に起してみました。


<ソクラテスと宣長>

【小林秀雄】 パイドロスがソクラテスに聞く「あなたはいったいいろいろ奇妙な、信じられないような神話がたくさんあるけれども、あれを本当に信じているんですか、あれを事実だと思っているのですか。」それについてソクラテスは、「そういうあなたのご質問だけれども、僕がもしもあんな馬鹿なものを信ずるか、と僕が答えれば君は安心だろう。」とそうあればソクラテスは普通の人間だと考えてくれるだろう、と。だけれども俺はもう少し奇妙な人間なんだよ。僕はあれを嘘だとは思えないんだよ。」という対話から始まるんです。

 この会話は微妙な会話でうまく話せませんが、その時にソクラテスが、パイドロスは若い人ですが、「あんな神話みたいな馬鹿馬鹿しい話しをあなたはお信じになりますか?」「本当に真剣になってお伺いしたいんです。」といった時にソクラテスが「信じないと言えば君は安心なのだろう。」こういうふうに答えるんです。

 「そうすれば君、いいんだろう?」「だけれども、僕はそんなふうに簡単には答えないよ。」

 なぜかというと長い会話になるのですが、「君は君自身というものをよく分かっているの?」「本当に君は何でも分かっているの?」「昔の神話なんていうものは馬鹿馬鹿しいものだということが分かれば君、人生というものが分かるのか?」「君はだいたい君自身というものをよく知っているの?」ご承知のとおりソクラテスという人は、最後には「人間というものは何もわからないものだ。」ということに達するんです。

 「汝自身を知れ」というデルフォイのそういう言葉(アポロン神殿に掲げられていた銘文)に「これはいったいどういうことを神様はおっしゃっているのか」「人間には人間自身が分かるのかな」ということを疑い出した人です。

 しょっちゅうそういう疑いを持っているソクラテスが「神話なんていう馬鹿馬鹿しいものをお信じになるのですか?」と聞かれて「僕は信じるものか」などと答えられるものではありませんよ。

 そういうところからパイドロスとの会話は始まっているのです。・・・・パイドロスの話をするのではないのですが、ただその時に「本居宣長と同じだなー」と思ったのです。本居宣長はご承知のとおり日本の神話を信じたのです。全部信じました。

 学者たちはみんな「神話は、なんのことを書いてあるのか分からない。」「おそらくあれは、アレゴリーである」「寓言であろう」とみんな解釈しているんです。ああいう事寄せを言って「言いたいことは実はこういうことなんだ」ということを(ソクラテスは)絶対に許さなかったね。

 熊沢蕃山という人がいてあの人はこういうことを一番はっきり書いた人です。日本の神代の話は「あれはみんなアレゴリーである」と「アレゴリーとしても実に悪(まず)いアレゴリーである」と、「支那の昔には立派なアレゴリーはたくさんあるけれども、日本のアレゴリーというものは、日本人というものはそういう点では支那の聖人には敵わない」まずいアレゴリーであると言ったら宣長は「そんなことはない。あれはアレゴリーではない」「あれは一生懸命考えた昔の人の考えである」と「思想である」と言った。

 それと同じですソクラテスの答えは、だからソクラテスと同じように、宣長さんの心の底には「自分自身というものは分からんものである」という信念があります。私はパイドロスを読んだ時にあまりにも似ているのでちょっと面白かったんですよ。

 それからもう一つ大変似ているところがあるんです。これはパイドロスの中でソクラテスが昔の神様の話になるのですが、エジプトのある地方の神様が、これは発明の神様ですが、いろんな技術を発明するんだが、それでとうとう「文字」を発明するんですよ。文字を発明して大変評判になるんだな。その田舎の神様が字を発明して大変得意だった。そして都に出てきてもっと偉い神様の所へ行くんです。

 名は忘れたがその神様の所へ行って「実は私は字を発明した」と「字を発明したから、これを発明すればて人間の知識も記憶力も非常な進歩をするだろう」と自慢したところが都の偉い神様が「そんなことはない。字を発明するとだな、人間はね記憶を働かせることはいらなくなるだろう。みんな字に記憶を書いておけば忘れないでいられるから人間の記憶力は鈍ってくるに違いないと、字さえ覚えておけば、書き込んでおけば知識が増えると思うから、段々知識というもの分からない男が、俺は知識があると思って威張るような男がたくさん出てくるだろう」と、「要するにニセ学者がたくさん出てくるだろう」と「、きっと字を覚えたお蔭だよ」と、そう言うんです。

 「君は、文字というものを発明して得意がっているけれども、文字なんか発明するとみんな文字(もんじ)に託するから、そして安心するから人間は頭を働かさなくなってくるよ。」

 自分の記憶力を働かさなくなる。「字さえ覚えれば知識が溜まると思っている学者がいっぱい出てくるだろう」と、ニセ学者がね。「だから君の発明なんか自慢になるもんじゃーないよ」

 そういう話をソクラテスはしています。・・・・以下略

<以上『小林秀雄講演』第三巻本居宣長新潮社から>

 後半の神話は、エジプトのナウクラティス地方のテウトという神で文字を発明して得意げなのを神々の王タムス語って聞かせる話ですが「本居宣長とソクラテスが似ている」話とともになるほどと感心しました。

 字を知らないから読めない、また字は読めるのですが皆目意味が分からない。

 読めない漢字を使われると辞書を引くしかなく1頁読むにも疲れを覚えます。だから途中で挫折して知識の無さを嘆くことになります。しかし本当の知識や知恵はそんなところにあるのではない。小林先生の話は大変面白い。江戸落語志ん朝さんの落語を聴いているようです。

 同じ話をくり返すが非常にわかり易い。著書『本居宣長』はこう言う人が書いたのか、と、遭ったこともない人ですが人柄が浮かんできます。

 小林先生は「自問自答」という言葉を強調します。講演の後で質問時間があり若い質問者が「わたしにとっての自問ついて」質問し、先生に「そんなことは分からん」と言われていましたが、問を見つけること、自分自身で何かを見つけるということの大切さを教えられました。

 哲学者山田邦男先生のV・E・フランクルの「生きる意味を求めて」にも通じる話です。

 表現するには文字を使わなければ何か不安で、書き残さないと忘れてしまう。私などは過去に書いたことの大半は忘れています。年をとるごとに馬鹿になってきましたね。

 今朝はなぜこんな話をするかというと「ギュゲスの指輪」プラトンが引用するギリシャ神話の話にコメントが書かれていたからで、忘れていたんですね「ギュゲスの指輪」話。

「志操堅固(しそうけんこ)」という熟語も使っていて意味は「志や考え・主義などを堅く守り、何があっても変えないさま。」、できたばかりの民主党政権について書いたものでした。

 この熟語は最近見ないですね。

 汝自身を知れ!

これは誰でも読めて、何となく意味がつかめます。

 小林先生は「自問自答」を示しています。ちなみにプラトンの「ギュゲスの指輪」ですが次の内容です。

<中央公論社 世界の名著 『プラトンⅡ』「国家」から>

第2巻3章から「ギュゲスの指輪」

 「つぎに、<正義>をまもっている人たちは、自分が<不正>をたはらくだけの能力がないため、しぶしぶそうしているのだという点ですが、これは、つぎのような思考実験をしてみれぼ一番よくわかりましょう。

 つまり、<正しい人>、<不正の人>のそれぞれに、何でも望むがままのことができる自由を与えてやる。そのうえで二人のあとをつけて行って、それぞれが欲望によってどこへ導かれてゆくかを観察してみる。

 そうすると、<正しい人>が、欲心(分を犯すこと)に駆られて、まさに<不正>の人の赴くところと同じところへ赴いて行く現場がはっきり見られましょう。すべて自然状態にあるものは、この欲心をこそ<善きもの>として追求するのが本来のあり方なのであって、ただそれが、法の力でむりやりに、<平等>の尊重へとふり向けられているにすぎないわけです。

 わたしが言うような、何でもしたい放題にする自由というのは、むかしリュディアの人ギュゲスの先祖(同名のギュゲス)が授かったと伝えられるような力が、彼ら<正しい人>、<不正の人>にも与えられたと想像してみれぼ、一番よくわかりましょう。
 
 ギュゲスは、羊飼いとして当時のリュディア王に仕えていたが、ある日のこと、大雨が降り、地震が起こって、大地が裂け、羊たちに草を食わせていたあたりにぽっかりと穴があいた。これを見て彼は驚き、穴のなかに入っていった。

 そしてそこに、いろいろと不思議なもを見た、----と物語は、それらのものについて語っていますが、なかでも目についたのは青銅製の馬でして、これは、中が空洞になっていて、小さな窓がついていた。彼は身をかがめてその窓からのぞきこんで見ると、中には、等身大以上の屍体(したい)らしきものがある。それは、何も身に着けていなかったが、ただ指に黄金の指輸をはめていたので、彼はそれを抜きとって、穴の外に出た。
 
 さて、毎月羊たちの様子を王に報告するためにおこなわれる羊飼いたちの恒例の集りがあったときのこと、そこにギュゲスも、例の指輪をはめて出席した。そうして、ほかの羊飼いたちといっしょに坐っていたとき、ふと何気なしに、指輪の玉受けを自分のほうに、手の内側に、回してみた。

するとたちまち自分の姿が、かたわらに坐っていた人たちの目に見えなくなってしまい、彼らは、ギュゲスがどこかへ行ってしまったなどと、自分のことを話しあっているではないか! 彼はびっくりして、もう一度手さぐりで指輪にさわり、その玉受けを外側に回してみた。すると、彼の姿が見えるようになった。

 このことに気づいた彼は、その指輪にほんとうにそういう力があるのかどうかためしてみたが、結果は同じこと、玉受げを回して、内側に向げると、姿が見えなくたり、外側に向げると、見えるようにたる。これを知ってギュゲスは、さっそく、王のもとへ報告に行く使者の一人に自分が加わるように取り計らい、そこに赴いて、まず王の妃(きさき)と通じたのち、妃と共謀して王を襲い、殺してしまう。こうして、王権をわがものとした・・・。
 
 ところで、かりにこういう指輪が二つあって、その一つを<正しい人>が、他の一つを<不正の人>が、はめてみたとしましょう。それでもなお、<正義>のうちにとどまって、あくまで他人のものに手をつげずに控えているほど、鋼鉄のように志操堅固な者など、一人もいまいと思われましょう。
 
 市場からだって何でも好きなものを、何おそれることもなく取ってこられるし、家々に入りこんで、誰とでも好ぎな者と交われるし、これと思う者を殺したり、縛めから解き放ったりもでぎるし、その他何ごとにつけても、人間たちのなかで、神さまみたいに振舞えるというのに! こういう行ないにかけては、<正しい人>のすることも、<不正の人>のすることと何ら異なるところがなく、どちらも、まったく同じところへと赴くでしょう。
 
 で、このことこそは、……と人は言うでしょう、何人(なんびと)も自発的に<正しい人>である者はなく、強制されてやむをえずそうなっているのだということの、つまり<正義>が当人にとって個人的には<善きもの>ではないと考えられていることの、動かぬ証拠ではないかと。現に誰だって、自分に<不正>をはたらける力があると思えぱ、きっと<不正>をはたらくのだからと。
 
 これはつまり、誰しも、個人的には<不正>のほうが<正義>よりもずっと得になるにのだと、そう考えているからにほかならず、そしてこういう考えは正しいのだと、この説の提唱者は主張します。

 事実、誰にせよ、さきのように何でもしたい倣題にする自由を手中に収めていながら、何ひとつ悪事をなすことも他人のものに手をつけることもしないようた者がいるとしたら、そこに気づいている人たちから彼は、なんと世にも哀れなやつ、大ばかものと思われましょう。もっともそういう人たちは、おたがいの面前では、彼のことを賞讃するでしょうが、これは、自分にも<不正>をはたらかれるのがこわさに、たがいに欺(あざむ)きあっていればこそなのです。
 
 まあ、この点については、これくらいにしておきます。

<以上p110~p112>

コメントのはこう書かれています。

>王の妃(きさき)と通じたのち、妃と共謀して王を襲い、殺してしまう。こうして、王権をわがものとした

 この話がヘロドトスにかかると、王が妃の裸を臣下に覗き見させ王妃に敵を取られたという話になります。ギュゲスは王妃の命で自らの命か王の命かいずれかが喪われるよう強いられます。ギュゲスの王に対する忠誠心が優れば違った展開になりました。ここで選択は正義か生命かでした。生命の維持は生き物にとって至上命題であり,命を取ったギュゲスの選択は自然なものですが、逆に命に代えて守る価値のあることを示唆する挿話でもあるでしょう。

<以上>

「ここで選択は正義か生命かでした」

「逆に命に代えて守る価値のあることを示唆する挿話でもある」

とてもありがたいコメントです。

 家族の命を守るつもりでも結局はその正反対の最大の災厄を招来させることにもなります。

 「選択は、正義か生命か?」

 直感と理性によりより善き生き方の選択をする=自問自答

シーナ・アイエンガー教授ならこういう結論になるのではないか、などとつまらないことを書き足します。

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