西田幾多郎先生の先生の歌に、
ひはくれてみち
遠けでどともかくも
けふけふだけの
なりはひはしつ
があります。
日は暮れた。そして途(みち)はまだ遠い。でもとにかく、今日は今日の業(なりわい)はしただろう。
という意味のようです。「なりわい」は「生業」とも書き、「生活をしていくための仕事」という意味だとどの辞書を見ても書いてあります。
でも先生の生涯を考えると「生業」のもつ意味が「単なる」ものではないように私の場合は思うわけです。
それは知情意の「知」がありまたそれを越えた「情意」が培われているからで、すると「たんなる」が「感嘆(かんたん)」に生(な)るということです。
第二の人生も週休二日制の生活となっていて、土曜日は安曇野わさび祭り(納涼祭)で公民館役員として午後は夜の10時ころまで何かと忙しい一日でした。
昨日の日曜日は、定番のNHK「こころの時代」から始まり、昨日のこころの時代は、
こころの時代 アンコールということで、哲学者の山田邦男先生の
「生きる意味を求めて~ヴィクトール・フランクルと共に~」
で、過去に放送された番組の中でいまだに心に残る番組です。
そこにはフランクルはもちろんですが、西田幾多郎、西谷啓治の哲学もあるわけでなぜだか私を惹きつけています。昨日は早朝からある意味私の世界が始まり、午前9時10分からは哲学者藤田正勝先生の
「西田幾多郎~生きることと哲学」を読む~純粋経験を中心に~
という3時間を超える講演を聴きました。
藤田先生の講演は著書も数多く読んでいることもありとてもよく理解できました。西田先生の書等の展示や石川県の西田幾多郎記念哲学館の関係者も来られていてグッズ販売もあり、Tシャツ「無」の白黒二枚を購入、現在着ています。
話をはじめに戻しますが、古語で「なりはひ」と云えば今も昔も「生業」という漢字になり、岩波古語辞典では、
なりはひ【生業】《ナリは植物が成ること、転じて、生産の意。ハヒはサキハイのハヒと同じ》
1植物を栽培すること。農作。また、作物。
2暮らしを立てること。生業(せいぎょう)、職業。
と解説されています。
「サキワイ」とは、
さきは・ひ【幸ひ】
一〔四段〕《サキ(咲)・サカエ(栄)・サカリ(盛)と同根。生長のはたらきが頂点に達して、外に形を開く意。ハヒはニギハヒに同じ》生命力の活動が活発に行われる。
二〔名〕さいわい。幸福。
「ニギハヒ」は、賑わいで富み栄えるです。
そのような「知」をもって「なりはひ」を見ると、現代ならば生業は「生活をしていくための仕事」ですが、「稲が実り幸いなる」そうなるよう暮らしたてする毎日が原点があるように思え、「なりはい」は今なら「なりわい」ですが、そこに「なにものか」の「働き」があると「働くものから見るものへ」と移行するわけで、
とにかく二日間、私の
けふけふだけの
なりはひはしつ
が有りました。