今日Eテレ100分de名著3月号が発売されました。3月は昨年8月に放送されたフランクルの『夜と霧』アンコール放送です。多くの再放送希望があったようです。私もその後ますますロゴセラピーというよりもフランク自身の思想に魅了されいまだに関係本を読み続け理解を深める努力をしています。
高い精神性を求めるために学ぶなどというものではなく、魂の求めるままにただひたすらにそこに意味を見出し続けている、それも自分流に、それが実態です。
2週間前になりますがBOOKOFFに行くと箱入り版の本の列に薄汚れが目立つ一冊のやや小型の本が目に入りました。背表紙を見ると「夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録」と書かれフランクル著作集1(みすず書房)でした。同書は新旧の二冊を持っているのですが、この本は旧版(霜山徳爾訳)と同内容のもので箱には万年筆で書いたと思われる達筆なローマ字で「J.S.Kaburogi」と所有者であったろう人物の名が記載されていました。
その古さに心惹かれ中を見ると所々に青色の万年筆で線が書き込まれていました。発行年を見ると今から43年前のものです。どういう人がどういう気持ちで感慨をもって線を書き込まれたのか、人の心はわかりませんが、書かれている本の内容が重なると「人の気持ちがわかる」のです。
値段は「105円」このままだとこの本の意味を知っている人以外は手に取ることはなく、いつしか処分されるかもしれませんし、個人的にこの線入りがとても貴重に見えたのです。
人はどこに感動するのか。番組で東日本大震災で被災したお医者さんとこの『夜と霧』の一冊の本の出会いの話があります。同じ本でも今在る心境が『夜と霧』から更なる深みのあるメッセージを受け取る、まさに「どんな時も人生には意味がある」そういう機会を与えてくれる本なのです。
フランクル全集1の『夜と霧』のプロローグに次の箇所があります。
・・・・・たとえば、収容所の囚人の一定の数を、他の収容所に送る囚人輸送があるということを、われわれが聞いたとする。すると当然のことながら「ガスの中に入れられる」ということを推測するのである。すなわちその輸送とは病人や弱り果てた人々から、いわゆる「淘汰」が、つまり労働が不能になった囚人の選抜、が行われて、ガスかまど及び火葬場のある中央のアウシュヴィッツ大収容所で殲滅されると考えるのである。この瞬間から、あらゆる人々の、あらゆる人々に対する戦いが燃え上るのである。各人は自らと、自分に一番近しい者とを守ろうとし、輸送に入るまいとするのである。例えば最後の瞬間になお輸送者リストから「訴願してはずされる」ことを求めるのである。しかし、殺されることから、誰かが救われるとしても、その代りに誰か別の人が入らなければならないのは明らかなのである。何故ならば輸送の場合には人数だけが、すなわち輸送を充たすべき囚人の数が問題なのである。各囚人は文字どおり番号だけを示しているのであり、輸送のリストには事実、番号のみが書かれてあるのである。我々は収容される際に、あらゆる所持品を奪われ、何の書類もなしにいるとはいえ、様々な職業をもっているのであるから、色々と利用しようと思えばできたのであるが、しかし実際は確認(多くの場合、入墨によって)できるものといえは、また収容所員が関心をもつ唯一のものといえは、それは囚人の番号であった。・・・・・
<以上同書p77から>
池田香代子さんが訳した新版『夜と霧』の表紙は囚人服に「119104」の文字が書かれた絵になっています。この数字がフランクルの個人の番号なのですが地位も名誉も財産もそして全身の毛さえも奪われた裸の実存の唯一の特定する番号で番号から人が分るのではなく、この番号は番号だけの価値しかありません。この番号だけが自分を示すのです。
「しかし実際は確認(多くの場合、入墨によって)できるものといえは、また収容所員が関心をもつ唯一のものといえは、それは囚人の番号であった。」
この私が今手にしているフランクル全集1『夜と霧』の以前の所有者「J.S.Kaburogi」は上記の部分に線を書き込んでいます。
気持ちはわかりませんが、またわかるような気もする。矛盾極まりない言い方ですが「むぅぅ」なのです。この表現で、この擬情語で通じるのであろうか。脈打つ鼓動ではなく心底魂の精神的感応なのです。
番組二回分を一枚の音声CDに作りました。しばらくの間通勤時間帯に聴き続けたいと思います。心のもち方、置き所で同じ内容も別な意味を提起してくれることを経験から学びました。きっとまた新しい学びがあるかもしれません。
ここまで書いてきて今日のタイトルは「人が数字になる時」に呼応して頭に浮かぶ言葉があります。「国民総背番号制」という言葉です。最近この言葉が話題になることはめったにありません。考えてみれば現代社会メールアドレスから、IDから銀行口座の番号から納税の際の税務署番号+納税番号になると今時期初心者でなければ納税番号が分るか否かがわずらわしさの解消になることは十分に承知しているかも知れません。「番号が命」というのはある意味現代社会では通じるのではないでしょうか。
代表格の個人識別番号「国民総背番号制」とは何か、参考までにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』には次のように解説されています。
【国民総背番号制】(こくみんそうせばんごうせい、国民番号、National identification number)とは、政府が国民全部一人一人に番号を付与し、個人情報を管理しやすくする制度。電子計算機による行政事務の効率化を目的とする。
国民一人一人に重複しない番号を付与し、それぞれの個人情報をこれに帰属させることで国民全体の個人情報管理の効率化を図る。氏名、本籍、住所、性別、生年月日を中心的な情報とし、その他の管理対象となる個人情報としては、社会保障制度納付、納税、各種免許、犯罪前科、金融口座、親族関係などがあげられる。多くの情報を本制度によって管理すればそれだけ行政遂行コストが下がり、国民にとっても自己の情報を確認や訂正がしやすいメリットがある。
政府による国民の個人情報の管理が容易となる反面、官僚の窃用や、不法に情報を入手した者による情報流出の可能性が懸念される。
概要も含めてこのような解説がなされ「政府による国民の個人情報の管理が容易となる反面、官僚の窃用や、不法に情報を入手した者による情報流出の可能性が懸念される。」と書かれています。
数字は個人を特定する。
数字は単なる数字でしかない。
全ての人々が「個人番号」という一般化された言葉に集約された時、「個人の存在は数字の存在」を表わします。
「しかし実際は確認(多くの場合、入墨によって)できるものといえは、また収容所員が関心をもつ唯一のものといえは、それは囚人の番号であった。」(『夜と霧』)
にどのような個人の存在があるのだろうか。現代人は次のように語ります。
「政府による国民の個人情報の管理が容易となる反面、官僚の窃用や、不法に情報を入手した者による情報流出の可能性が懸念される。」
この言葉にどんな存在の苦しみがあるのだろうか。
存在を知られたくない。
有名なシンドラーのリストには名前だけは記載されました。
ホロコーストを生きのびて ~シンドラーとユダヤ人 真実の物語~[2010年08月15日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/6a2c9f833b683c411b6d8abb72c31647
しかし『夜と霧』のこの場面ではあるのは数字だけであって、一般化された人間という個体でしかありません。
「人が数字になる時」
「存在」の意味するところは何なのでしょうか、本質的存在、事実的存在を導き出したのはドイツ人でした。それを知っているばかりに人間のリアルな存在を考えてしまいます。
『夜と霧』の言葉を借りるならば親衛隊将校の「この一人の人間の人差し指の僅かな動きがもっている意味」がこの物語、フランクルという一心理学者の強制収容所体験『夜と霧』の最初の大きな衝撃です。
人が単なる数字になる時、名でさえ知られない存在で消えて行く。
V・E・フランクルは『夜と霧』を書くにあたって次のように述べています。
私は自分が「通常の」囚人以上のものではなかったこと、119104号以外の何ものでもなかったことを、ささやかな誇りをもって述べたいと思う。(『夜と霧』)
「人が数字になる時」
世の人は何を思うのだろうか。
「しかし実際は確認(多くの場合、入墨によって)できるものといえは、また収容所員が関心をもつ唯一のものといえは、それは囚人の番号であった。」
にラインを引いた「J.S.Kaburogi」に敬意を表したいと思います。