思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

やまと言葉の倫理学(2)

2009年06月25日 | ことば
 地方紙信濃毎日新聞6月20日付の17面「やまと言葉の倫理学」竹内整一東京大学教授のコラムからやまと言葉の「うつる・うつし」について、今朝はその2回目です。

 まず、勝手ながら信濃毎日新聞6月20日付の17面のコラム記事を紹介します。

 「(他の女に)移ろふ方あえあむ人を恨みて」(『源氏物語』)とは、人の心が他に動くという認識であり、また、色や香や疫病や「もののけ」は、場所をかえて他人に乗り「うつる」ものとかんがえられた。また、「わが御影の鏡台にうつれるが・・・・」(『源氏物語』)とは、こちらの姿が「鏡台」という他のものい「うつ」されていることである。
 「うつる」とは、「事物がある位置から他の位置に変わり、現われる」ということが基本であることをあらためて確認した上で、注目すべきことは。「うつる」の「ウツじゃウツシ(顕)・ウツツ(現)のウツと同根(『岩波古語辞典』)だということである。
 「うつつ(現)」とは、「現・実」のことであり、「うつし(現し・顕し)世」とは、神仏や死の世界ではなく目の前に展開されている人間世界のことである。その「うつつ(現)の「ウツ」が、「移る」「映る」の「ウツ」と同根であるというのである。
 つまり、これらのやまと言葉の語感では、眼前の現実世界は、つねに同時に「移ろい行く」もの、「何ものかが投影されている」ものとして「うつ」っている世界として感じとられていたということである。
 「現し世」とは、「移ろい」、「映ろう」世界でしかないという、こうした現実感覚は、日本人の人生観や世界観が消極的であやふやであったということを必ずしも意味しない。「世は定めなきこそいみじけれ(興味がある)」(『徒然草』)というように、そこには不思議なほどのたおやかな強さや明るさ、こまやかな美しさや面白さなど、生きるに当たっての肯定的・積極的なあり方を見いだすことができる。

と、竹内教授はこのように「うつる」というやまと言葉を解説されています。

 古典から「うつる」という古語をピックアップするのは難しいことです。

 わたしは、古典における「つみ(罪)」という言葉の概念を研究する中で、「祓い」という言葉も重要になってきます。したがって古典の中に登場する人物の「払い」に相当する行為も研究対象になってきます。

 そこに登場するのがイザナギ尊が黄泉の国から逃げ帰るときに使われている「うつる」という言葉です。これば古語辞典には登場しない「うつる」という言葉でイザナギ尊が阿波岐原で、身につけていたものを、ことごとく投げ捨てる行為を原文で「投げ棄(う)つる」と書かれています。この言葉に注目したのはわたしではなく三橋健国学院教授(みそぎ考 すすき出版P66)でした。

 「穢れを打ち棄てるという強い表現になっています」この投げるところに意味があり「祓いの一種であろう」というのです。これをなぜ「うつる」というのかまでは言及していませんが、本質的なものをすっかり身から投げ出してしまうことを「うつる」と表現しているようにわたしは思います。記紀編纂のころ万葉のころ「うつる・うつし」は、「写・映・移・遷・棄」と本質的なもののコピーが「うつる」から本質的なものがそのまま「うつる」までと幅広い概念で使われていました。

 松岡正剛千夜千冊で有名な松岡正剛さんは、日本の「おもかげ・うつろいの文化」についてNHKブックから「日本という方法」を2006年9月に出されています。わたしの「思考の部屋」でも紹介し今回と同じように「うつろい」のやまと言葉について論じてみましたが。松岡正剛さんは、「ウツロイ感の広がり」からウツロイという言葉にはウツという語根がはいいており、これは内部が空洞担っている状態をさすとし、さらに日本の無常感へと解釈を進めています。

 ここで語られる無常はニヒリズム的なものではなくには「見えないことやマイナスは別のプラスを生む可能性がある。その途中のプロセスこそウツロイです」と日本の精神史における情報編集(わたしは編成の方が好きですが)の方法という「日本という方法」があると解説しています(NHKブック『日本という方法』P91からP112)。

 竹内教授は、「現・顕」も同根であるといいます。このことについては次の3回目に私見も含めて掲出したいと思います。

 竹内教授は”日本人はなぜ「さよなら」と別れるのか”という本をちくま書房から出されています。この中で<本来「然(さ)あらば」「さようであるならば」ということで、「前に述べられた事柄を受けて、次に新しい行動・判断を起そうとするときに使う」とされた、もともと接続の言葉>と解説されています。

 日本語は、動的に広い意味概念のある言葉です。行動・判断に入ると思いますが「ご機嫌」という言葉があります。出会いの挨拶に「ご機嫌いかがですか」と使われます。

 仏教語からきている言葉で京言葉「ご機嫌よろしゅう」にみられるように「さようなら」の意味に使われています。学習院大学に行くとしばしば「ごきげんよう」という別れの言葉を聞きます。この言葉は、「さようであるならば」が武士の言葉であるとするならば「ごきげんよう」は貴族社会の言葉なのです。

 したがって、やまと言葉は時代の変遷の中で、身分社会と密接に関係する言葉があるので、相対的な見方も発展段階で考察する場合は注意を要します。

 少々視点が連れ真下が、ここで注意したいのは、「うつる・うつし」の解釈は、あくまでも概念の説明でしかなく、やまと言葉の発生的、古代人の精神的思考性や思考の志向性については言及していないといことです。あくまでも段階的発生における、「ある段階での解釈」の域を出ないということです。

 茜雲とはこういういうのでしょうか。とても爽やかな朝です。