思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

自己の向かうべき方向

2009年06月06日 | 宗教

 神学者浅野順一先生といえば、昭和の偉大な旧約聖書研究家です。聖書研究の過程で先生の書かれたものの中に次の文章がありました。
 
 宗教における個の自覚もしくは意識はどこからくるのであろうか。それは絶対者になる汝に対する相対者なる我に基づくものであるが、それを自覚させる具体的な契機は何であろうか。それは言うまでもなく死と罪であろう。
 
と。いかにキリスト教における「罪」という言葉の重要性がわかります。

 さてこの自覚としての罪を考える前に、集団宗教色の強い、言葉を変えれば団体的宗教色の強いキリスト教において、なぜ個の自覚を述べているのでしょうか。

 先生は旧約聖書研究からその後の新約の研究の過程の中で次のように個の重要性を語っています。
 
 私は長年キリストの信仰に生きて来た人間であり、他宗教について知るところがはなはだ少ないゆえに、これから人間の個性と宗教の関係につき、キリスト教、特に聖書の立場から個の問題を取り上げることとする。
 周知のごとく旧約聖書の宗教は部族的なものから出発している。「旧約」と言うまでもなく旧い契約であるが、この契約という語は、本来、神と民、ヤーウェ(通常エホバと呼ばれる)とイスラエルとの間の特殊な関係を意味している。かかる神と部族もしくは民族との関係を代表する者はアブラハムのごとき族長であり、モーセのごとき指導者であり、またダビデのごとき王者であった。
 然るに旧約宗教が後代に至るに従って、この契約関係は個人に置き換えられる方向に進んだ。預言者エレミヤの言う「新しき契約」がそれであり、彼の言葉によれば「大より小に至るまでことごとくヤーウェを知る」ということになる。この「ことごとく」とはひとりひとりと解することがふさわしく、「知る」とは交わると言い換えてもよい。すなわちイスラエルは代表者を立てて全体としてヤーウェと交渉を持つのではなく、そのひとりひとりが神と直接的な関係にはいるというのである。・・・・
 このような信仰のいわば個人化の方向は、その後、詩篇、ヨブ記、箴言などにおいてますます徹底的となる。そこに主として取り上げられている宗教の問題は、民族とか国家とかの関係ではなく個人の関係である。もっともこの場合にも民族的な枠が全く外されてしまったわけではなく、ただその中の個人が重視されるに至ったことを意味する。このように個人の宗教的意義が明らかになることによって、国家は破られ、国民は散り散りに分解されてしまっても、その宗教は生き残り、四散したユダヤ人によって長く受け継がれことはそれ以来二千数百年いわたる彼らの歴史が示すごとくであり、他の古代諸宗教が大方その国家の滅亡とともに滅んでしまったのと著しい対象を示していると言えよう。
 新約に至って如上の方向はさらに徹底する。イエスは弟子たち、群衆から離れて、しばしばひとりで神に祈っているし、例の荒野の誘惑もイエス対サタンの一騎打ちであり、ゲツセマネの園における血の汗を滴らすほどの祈祷も神とイエスの一対一の激しい格闘である。また十字架上のイエスはただひとり神に捨てられたという痛切な孤独感を叫んでいるのである。そればかりでなく彼は小さき者のひとりに水一杯を恵む意味の重大さを人々に教えているし、ひとりの幼児を重んずべきことを懇切に説いている。
 以上のことは使徒パウロに至ってますますその意味が思想的に深められている。人間の原罪はひとりの人アダムによってこの世に来た、その救いはひとりの人イエスによって人間にもたらされたと教え、信仰者はひとりひとりとして神の前に責任を持って立たねばならぬのだと論している。また彼は復活のキリストに出会った後、一八〇度の転回をなすにあたってイエスのごとくいったんアラビアの野に退き、自己の向かうべき方向を定めるためにただひとり深く祈った。
 以上のように旧約の預言者、詩人、知者、新約のイエス、パウロたちは宗教における個人の意義と位置とがいかに重大なものかを繰り返し教えているが、その後の歴史またユダヤ教のそれも、その事例は数えるいとまなき程であろう。かく聖書ならびにこれに基づく宗教は個人を無視しては到底成立せざることを切実に示しているといえよう。
 しかしこのことはひとりキリスト教、ユダヤ教のみならず仏教においても、例えば親鸞のごとき弥陀の本願は親鸞ひとりのためということをはっきり打ち出しているのであって、宗教の究極は、いやしくも高次の宗教において、根本はそこにありと言わなねばならぬのであろう。彼の言葉として伝えられている「親鸞は弟子ひとりも持たず、念仏を唱える者は等しく同行なり」との趣旨も、仏対自分と言う、いわばひとりの「汝」に対しひとりの「我」というところから出発しているのではあるまいか
(以上浅野順一著作集10 創文社 説教ⅢP347~P349)。
 
長い引用ですが、浅野先生は、戦前戦後の昭和を生きられた方です。戦争という危機的状態の中で日本そして世界の宗教団体、宗教国家の果たしてきたこと、行なってきたことの中にあった人です。

 わたしの好きな13世紀のドイツのマイスター・エックハルトは、(宗教改革著作集 13カトリック改革 教文館P16)「神を見出すことができず、神が御自身を隠されるとき、ひとはいかにすべきか」の中で、「人が自我と自分のもっているものすべてを棄てたならば、彼はまことに完全に神の内に身を移される。」

と語り次の言葉を残されている。

 光は闇の中で輝いています。そして人は光を闇の中でこそ光として認めるのです。光、すなわち教えは、人々がそれを用いるためにあるのでなければ何の益があるでしょうか。暗闇や苦悩の内にある時にこそ人々は光をみつめるべきだからです(同P20)。

 人が正常であり、神と一致していれば、「善人にとっては万事は益となる」(ロマ8・28)のであり、聖アウグスティヌスの言うように「罪さえもそうである」のです(同P21)。
  
 組織の中に身を置き、あくまでも自己の意を表出しているように見えても、埋没しているその姿は毒牙の様相を呈しています。しかし同じように組織に身を置きながら種を播く姿にある人もいる。

 神が絶対であるという「不可逆」を承認するとき、すなわち絶対の束縛の内にあるとき縁起の観は断たれ、自己の「罪」に嘆き苦しむしか方がない。

 直観も認識も詮じつめると主観の内側で生じているものです。それを自己を離れたところに超越的にあると不可逆的な思考をもっていきるのと、逆対応の思考をもって生きるのでは場の相違があると思います。

 自己を離れ自己の内に生きる。エックハルトの「彼はまことに完全に神の内に身を移される」という言葉、浅野先生の「絶対者になる汝に対する相対者なる我に基づくものである」という言葉実に深いのです。

 先ほど西田幾多郎先生の「逆対応」という言葉を使用しましたが、鈴木大拙先生には「即非の論理」があります。東洋で生まれたこの哲学、意味するところは「自己の向かうべき方向」の思考論理だと思います。