思考の部屋

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竹内整一教授の「やまと言葉の倫理学」(1)

2009年06月21日 | ことば

 東京大学竹内整一教授が月に1回地方紙の信濃毎日新聞の思索のコラムで「やまと言葉の倫理学3回」ということで「やまと言葉」について語っています。

 6月20日(土)は、「うつる」という言葉についてでした。

 やまと言葉については、わたしは古代人のもつ「もの的思考」という志向性に関係してブログ掲出してきましたが、竹内教授のコラム内容について紹介しながら万葉学者中西進先生の論考とともに自己の論を展開していきたいと思います。

 「うつる」という言葉で教授は論を進めていますが、わたしは口語的に「うつし」という言葉を使用しました。

 教授は、今の時節紫陽花の花言葉である「移り気」から語ります。花言葉の語源と思われる紫陽花の微妙な花の色の変化「移っていく」そこから「うつる」という言葉の解説となるのですが、この言葉のやまと言葉の展開は、万葉学者の中西進先生の「やまとことばのコスモロジー」論に重なります・中西先生は「円還の生命」そして「魂といのち」と論考を進めルーマニアの宗教学者エリアーデの「永遠回帰の神話」の神話における「円還する時間の中」の考え方を参考にしています。

 この「永遠回帰」はニーチェの「永劫回帰」と言葉自体の反復継続するという意味においが重なります。

 竹内教授は、

 この「うつる」(「移る」「遷る」)という言葉は、インフルエンザなどの病気が「うつる(伝染する)」と、さらには、影や像が「映る」「写る」と同じ仲間である。

と、述べています。

 この論の進め方なのですが、中西先生は、1994年1月~3月に放送されたNHK人間大学「古代人の宇宙観テキストP120からP122」・2001年4月15日発行の「古代日本人・心の宇宙 NHKライブラリーP150からP152」で正倉院の文書に記載されていた落書き

・・・・家の韓藍(からあゐ)の花今みればうつし難(がた)くもなりにけるかも

という文章の「うつし」から次のように述べています。

 さて、韓藍はケイトウ(花)のことです。ケイトウの花がすでに色あせて、恋人の姿を「うつし」にくくなった、という一首です。 まるでケイトウが鏡か何かみたいに、恋人の姿をうつすことになるのですが、「うつす」は漢字でいえば、映、写、撮、移のすべてのをふくみます。ですからケイトウに恋人を「うつす」といえば、先ほど述べたような植物と人間との関係の中で、ケイトウは恋人のコピーなどにとどまりませんで、恋人そのものになります。・・・・<中略>・・・・さて、このような人間と植物との差異も超えて生命が投影され、移動していくことになると、ニンゲンどうしならもっと確実な生命の「うつし」があったはずです。
 
と、生命の円還に論を進めています。

 中西先生のこの「うつし」の言葉ですがNHK人間大学以前に、ラジオ番組で「やまとことばのコスモロジー」の中で、中国語のである漢字という表意文字とやまと言葉比較の中で池に映る月、文章の転記、写生とうから魂の移動から「現し身」について既に語っています。

 竹内教授は引き続いて、

 「うつる」は、本来、「事物がある位置から他の位置に変わり、現れる」ことが基本である。「ある状態が他の状態に移り変わる」の意味や、「ある状態が他に伝わる」という、「伝染する」「火がうつる」などの意味がそう説明される。
 そこから、「物の影や光などが他の物の上に現れる。映ずる」という意味での「映る」「写る」や、「下の文字や絵が、紙などにを通してすけて見える」という意味での「うつる」が転じた。

と、「うつる」の意味を説明されています。では具体的に中西進先生は、この言葉についてどのように説明されているかです。手元にある論文集を除いた一般書籍から引用しますが、ざっと見ると「日本語の力 集英社文庫」「日本人の忘れ物 ウェッジ文庫」「美しい日本語の風景 淡交社」「ひらがなでよめばわかる日本語 新潮文庫」に語られています。きょうは「新潮文庫P174」を使います。

  「うつす」と聞くと現代人は、「映す」「移す」「写す」のどれかと考えてしまいます。映画を「うつす」、住居を「うつす」、写真を「うつす」・・・・。同じことばであっても、使い方が違えば別語だととらえるモノ分類に対し、働きが似ていれば同じことばだと考えるのが働き分類です。映画をうつす。写真をうつす。これらに共通する概念は「移動」です。
 映画をうつせば、映像がスクリーンにそのまま移動する。住居をうつせば、生活が移ります。カメラで顔をうつせば、顔そのものが写真に移動する。つまり「うつす」とは、何かが働いて別の場所に行くことです。

と、言及されています。インフルエンザの「伝染」の話されていません。論考の志向性はほぼ竹内教授は、中西先生に同じであるといえます。

 わたしも当初中西先生の「働き」を主に考えていましたが、古代人、万葉人の思考の志向性を考察すると、広がりと深さを直感します。このように考える人はブックマークのブログの方がおられ別の視点から言及されています。

 わたしはこの志向性の広がり、深さが大乗仏教の日本人に根付いた源流があると思っています。

 今日はここまでの考察とします。現在コラムの3分の1程度の記事を参考にしています。竹内教授の次回の掲出は一ヵ月後の7月18日とのことですので、この記事題材に数回やまと言葉の論考を展開していく予定です。

 なお竹内教授は、参考文献を6月20日の紙面には記載していません。考察の根拠的論文等を掲載しないと全てが先生独自の見解と誤解されると思いますので是非記載をと思います。

なお、「やまと言葉」とわたしは書きますが、中西先生は「やまとことば」、その他に「ヤアトコトバ」、「大和言葉」という言葉を使う方がいます。