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有明山とセイタカアワダチソウのある風景
などと昨年から植生から問題視される外来種のセイタカアワダチソウ(背高泡立草)の安曇野の風景への同化、自然として常態化した中に違和感のない風景を感じるか否かを書いています。
もう少し秋も深まるとその花の黄色みが濃さを増しますが、いまはまだその色に気を取られることはない濃さです。
セイタカアワダチソウ(以下アワダチソウ)は、元々外来種で明治以降、本格的には戦後ですが各地に広がってきたものです。安曇野でも最初の内は問題視しましたが全国的にそうだと思いますが、いまはそうではないのではないでしょうか。
アワダチソウは当初は、一般の花と同じように観賞用に輸入され来たものですがその繁殖力の強さにその後は観賞用にはされていない花です。戦後の進駐軍の物資にその種が付いてきた全国的な範囲に広がったと雑草に今はなっています。
この草が日本に来たのは、人の手によるものですが、その後の広範な広がりは植物による自己保存の性質によるものです。たゞひたすらに、なるがままに、されるがままを利用して生息の拡張を図っています。
場所は安曇野市の西側の常念岳のすそ野にある「国営アルプスあづみの公園」近くで県道25号線(通称山ろく線)と同公園へ向かう道路の交差点の一角です。

写真は昨日です。まだ色は薄くその黄色に惹かれたわけではなく、朝日に照らされた常念岳を見たときに気がついたものです。状態として昨年もあったのでしょうが気がつきませんでした。

今年は気がついてしまいました。たゞ単に咲いているだけの話し、たゞ単に秋風の涼しさの中に見ているだけ。遠くに常念岳が朝の光を浴び輝いている。たゞ単にそれだけの風景ですが、たゞ単にでは済まない安曇野の風景を感じます。

ついにアワダチソウは安曇野の自然に同化したのでしょうか。とけ込んだのでしょうか。
「おのずから」でもなく「みずから」でもない倫理学者竹内整一先生の言うところの「あわい」の世界なのでしょうか。その著『「おのずから」と「みずから」』(岩波書店)の中の「どうせ」という日本語の論理再考で「たゞ」という言葉を、京極摂政藤原良経の
人すまぬ不破の関屋の板びさしあれにし後はたゞ秋の風
という和歌を取り上げ次のように語っています。
人が住まなくなった不破の関屋の板廟は荒れ果てて、ただ秋風だけが吹いている、という情景を歌ったものである。問題は、日本人が、こうした、わびしさ極まりない情景を歌ったものに、ある種名状しがたい親しみ・安らぎのようなものを感じ取っている、というようなところにある。これははたして、「自己自身を否定して物になる、物になつて見、物になつて行」っている歌だろうか。「突き抜けている」といっていいかどうか、といった問題である。
森本哲郎『日本語 表と裏』は、この歌を、「どうせ」という言葉の語感によく見合うものとして挙げ、そこに、無常にあって、無常を直視せず無常に甘えるという日本人の傾向を指摘している。この歌がはたしてそうであるかどうか、また「どうせ」の認識がすべてそうであるかどうか、は保留するにしても、第二章で見た結果先取の「どうせ」の発想にはそうした傾向がともないやすいことは事実である。<以上同書p227-p228>
「どうせ」という日本語をテーマにするのでないので情景だけを主眼にします。竹内先生は森本哲郎先生の著書を参照されています。実際森本先生は「どうせ」という日本語解説の中で藤原良経の和歌を上げながら解説しているのですが、森本先生はこの和歌の「たゞ」という言葉に注目しています。「どうせ」は次の段階でも話です。
森本先生はこの和歌について次のように語っています。
この歌に人びとが感嘆を惜しまなかったのは、とくに「たゞ」という措辞に対してであった。右の歌は、人の住まなくなった関屋の板びさしは荒れ果て、そこにただ秋の風だけが吹いているという侘しい情景を嘆じたものであるが、日本人は侘しいと思いながらも、こうした情景に限りない親しみを感じとるのである。そこで、訪れるものはただ秋風だけ、というその「たゞ」という言葉を日本の歌人たちは、玄妙不可説、すなわち何とも名状しがたい玄妙さと賛嘆し、正徹(しょうてつ)のごときは、「あな、おそろし」とまでいっているのだ。このような二字でかくも深遠な心情を表現したことは、おそろしいまでだというのである。
その深遠な情感というのは、いうまでもなく、秋風が無常を奏でているということに対する日本人のあきらめと同時に、一種の安堵感である。この世が無常であることはたしかに悲しいことだ。しかし、それが明らかである以上、あきらめるほかはない。そして、あきらめてしまえぼ、そこに安堵感が生まれる。もはや、じたばたしなくてもすむからである。この歌の「たゞ」という措辞が日本の歌人に至言のように響くのは、無常な現実をあからさまにではなく、あの「洛中洛外密屏風」の絵に描かれている垂れこめた雲のように、秋風がそれとなく無常を奏でているからである。・・・・・(以上同書p40)
竹内、森本両先生の文章をたゞ引用した、というわけではないのです。セイタカアワダチソウのある風景を和歌ではなく、次の詩にしてみたのです。
常念の 山の裾野にたどり着き 根張りの後は たゞ秋の風
「自己自身を否定して物になる、物になつて見、物になつて行」って、情景として、風景としての安堵感を表現してみたわけです。
ここでたゞ言いたいのは、安曇野の自然に溶け込みつつあるセイタカアワダチソウの姿です。


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