思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

荘子の論理の世界と早い計りごと

2010年11月12日 | 東洋思想

 昨日の老子から今朝は荘子の世界に移り書いてみました。当然の如くコピペタですが、なぜならあやふやな人間があやふやなことを言っては、迷いを生じるからです。このように言うと語弊がありま理問題を提起しそうですが、根拠を示した方が矛盾が生じにくいからです。人は生(なま)ものですから絶対矛盾的自己同一な存在ですが、なるべくなら迷いは自らつくらない方がいいと考えるからです。

 つまらないことはさておき、『荘子』の荘子外篇第17秋水篇は、「濠梁(ごうりょう)問答」ともいわれる荘子と恵子(恵施ともいう)の問答で、次のような話です。

 荘子が恵子(けいし)と濠水をわたる飛び石の上で遊んだことがある。そのとき荘子は流れに浮かぶ魚を見ていった。
「はやがゆうゆうと泳ぎまわっているが、あれが魚の楽しみというものだよ」
すると、すかさず恵子がいった。
「君は魚でもないのに、どうして魚が楽しんでいるのがわかるのかね」
荘子は答えた。
「君は私ではないのだから、私が魚の楽しみを知っているかどうか、わかるはずはあるまい」
だが恵子も負けていない。
「なるほど私は君ではないのだから、むろん君の心はわからないよ。だが同様に、君も魚ではないのだから、君に魚の楽しみがわからないことも確実だよ」
すると、荘子は答えた。
「では、はじめから順序を追ってみよう。最初に君が、『君にどうして魚の楽しみがわかるのかね』といったのは、そのときすでに君は私の心を察して、私の心が魚の楽しみを知っているかどうかを知っていて、私に問いかけてきたわけだ。とするならば、魚でない私が、魚の心を察したとしても不思議ではあるまい。私は濠水の上に立ったままで、魚の心がわかったのだよ」
 
(『老子・荘子』森三樹三郎著 講談社学術文庫p231~p232)

という問答で、以前にもブログに掲出した「他人の心を察する」ことを「濠上にしる」というのだそうですが、その語源になっている話だそうです。

 この問答は、荘子と恵子の友人同士の論理の展開です。万物斉同の無差別を強調する荘子と対立差別を強調する論理学派の恵子の論争ということになりますが、決して敵対関係にある二人ではないそうです(下記弁蜂屋邦夫先生)。

 この話のことの発端は恵子の『君にどうして魚の楽しみがわかるのかね』ですが、元の訓読は、「子(し・君)は魚に非ず。安(いずく)んぞ魚の楽しみを知らんや」で、この中の「安んぞ」という言葉には「どうして」という理由と「どこで」という場所の両方の疑問の意味が含まれています。

 このことについて、東京大学名誉教授の蜂屋邦夫先生は、

 恵子はむろん「どうして」の意味で言ったのですが、荘子はそれを「どこで」の意味にずらして答えたのです。荘子にはぐらかされて恵子が苦笑している様子が、手に取るように想像できる話。

と説いています(ラジオNHK宗教の時間テキスト『老子と孟子をよむ・下』p14)。

 この様な議論の展開は非常に興味のあるところです。NHK宗教の時間では蜂屋先生は次に「人は無情か友情か」という荘子・恵子の問答から荘子が老子の「道」を人の情に関連付ける興味深い話をしています。
 
<蜂屋邦夫著ラジオNHK宗教の時間テキスト『老子と孟子をよむ・下』>

人は無情か有情か
        
 濠梁問答は、「安(いずく)んぞ」という疑問詞の用法に依存した言葉遊びにすぎないものですが、二人の伸の良さはよく分かります。内篇「徳充符(とくじゅうふ)」篇に見える問答には、さらに思想的な内容もあります。
                                        
 あるとき恵子は、荘子に「人はもともと情を持たないもの(無情)なのであろうか」 と議論をふっかけました。これは、荘子が常々「聖人には人の情がないから是非の問題にとらわれることがない」というようなことを主張していたから、それを論難したのです。
 
 荘子が「そうだ」と答えますと、恵子は「人として生きながら情がないとすれば、どうして人と言えようか」と追い打ちをかけました。
                               
 しかし荘子は悠然たるものです。「天の道理によって人としての姿形(すがたかたち)を与えられているのだ、どうして人とは言えないなどと言えようか」と反論しました。
 
 恵子がまた「人と言うからには、どうして情なしであり得ようか」と重ねて論難しますと、荘子は、それは私の言う情ではない。私の言う情なしとは、好悪の感情によって気持ちが乱れて精神を損なうというようなことがなく、いつも自然の道理によってあるがままにまかせ、ことさらに長生きしようとか身体を強壮にしようなどとはしないということだ。

と答えました。最後の所を訓読しますと「常に自然に困りて、生を益(ま)さざることを言うなり」となります。

 恵子のいう情は常識的な喜怒哀楽とか是非好悪の感情であり、人はそれらと切り離された存在ではないのですから、当然情なしではあり得ない、ということになります。しかし荘子は、そうした感情があっても、「自然に因りて」そうした感情から完全に自由であることを「情なし」と述べたのです。

 「自然に因りて」とは、つまり老子のいう天地自然の「道」に順うことです。考子のいう「道」を、荘子は人の感情という具体的なことにまで引きつけて考えたのです。
 
<引用終わりp15>

 万物斉同の無差別を強調する荘子と対立差別を強調する論理学派の恵子の論争と書きましたが、この様な論理展開で何を知ろうとするのか、さっぱり分からなくなるときがあります。

 当然頭の悪さが影響しているのですが、その悪さの中で考えるのですが、自分の追い求める何かを言いたいがためにこのような表現方法を取っているに違いないと思います。
 
 恵子の「常識的な喜怒哀楽とか是非好悪の感情」は元々あるもととすればよいものをそうとは言わずに、常に天地自然の世界で語る、無為自然の情でありあくまでも「情なし」でありほとんど直感で理解しなければならないような論理が展開しています。

 「自分の追い求める何かを言いたいがために」とは真理を語るためにと言いかえることもできると思います。真理となると宗教にも関係することで、論理展開は老荘はもとより哲学や宗教においてどのような係わりも持つものであるかを次に考えたくなります。

 コピぺタのわたしは次にこのような文章を用意しました。
 
<引用>『論理と哲学の世界』(吉田夏彦著 新潮社)

 ・・・・・本来、哲学の問題の多くは、論理学の問題と、いわば同じ根から発したものなのである。また、二つの学問が分化してからのちにも、哲学は、しばしば、論理学の成果に刺戟を受けて発展してきた。現在では、論理学の最尖瑞での研究は、数学的な専門教養を背景にする人達の手によっておこなわれるようになってきたので、日本の学科分類でいえば、論理学の専門家は、文学部よりは理学部にいるようになってきたし、そういう専門家の中には、哲学には何の関心も示さない人もいる。しかし、哲学の多くの分野での研究は、論理学の発展を無視しては、発展できない宿命を持っているようである。

 これは、哲学が、その発生からいって、論証を武器とし、また、他の学問の理論の構造の分析を通じてその問題を表現し、解決しようとしてきた学問だったことに由来するものである。あるいは、哲学は、しばしば、哲学の基礎づけそのものを問題にするという意味で、きわめて反省的な学問、つまり、哲学自体を問題にする学問、だといわれるが、その反省的な作業においても、論理性を無視することはゆるされない。この点で、同じく反省的な面を持つとされる、神秘主義的な思想や、宗教的な思想とは、区別されるのである。

 このことは、あるいは、哲学という学問の短所にもなりうるかも知れない。仮にたとえば宗教的な真理というものがあるとすれば、これは、哲学のように論理にこだわるやり方ではなかなか到達できないものかも知れない。そうして、啓示とか直観とかのおかげで一挙にこの真理に達した人がもしいるとすると、そういう人の眼からみれば、哲学は、この真理をめざしてきわめてまわり遠い道を、労多く、効の少い方法で、牛のあゆみよりものろく、たどっている、あわれな学問であるのかも知れない。

 しかし、その点がどうあろうと、哲学は、論理的なことにこだわることにより、普遍性を持つ学問となることが、できてきたのである。神秘的な直観はだれにでもできることではない。啓示は、だれにでも与えられるものではない。そういう直観や啓示にめぐまれた人が、いかに雄弁に話をしてくれても、あるいは雄弁よりも多くを語るといわれる沈黙にょって対してくれても、大多数の人達は、「真理」の内容について、ごくぼんやりとした見当をつけることができるにすぎないし、その見当が大まかな方向ででもあたっているかどうかについても自信が持てないのである。

<引用終わり(同書p12~p13)>

 哲学は終わりなき論理であり、宗教は確信が持てない限り薄ぼんやりの世界です。確信が持てたという方(かた)の言説は繰り返しの論法に終始します。

 また自ら語っているようで、先人の言葉を踏襲することに終始する。
 
 学問で終わるのか信心で終わるべきなのかか分かりません。

 しかし、よく気づきと言いますが、気づきという直観が新しい展開を示してくれるような気がします。当然自分にとってですが。

 それをどこまで待てるか、早計は要注意で、近道はないように思います。
 
 今朝のお題をどうしようか考えた末に「荘子の論理の世界と早い計りごと」にしてみました。

 今朝の写真は、昨日の朝焼けです。右に見える点が明けの明星です。(写真が小さすぎてほとんど見えないかもしれませんが)

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