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スケッチブック 〜写真で綴るスローライフな日々2

写真を撮りながら、日々の暮らしや旅先で感じたことを書いています。
2016年からは撮った写真をイラスト化しています。

飛び出し坊や

2012年03月16日 | 文化/歴史/技術
滋賀県を車で走ると、道路の脇に子供の走る姿をかたどった看板を目にします。その名も「飛び出し坊や」なんですが、今年「タモリ倶楽部」をご覧になった方は少し分かると思います。僕も観ていました。イラストレーターのみうらじゅん氏が命名したこの看板。放送を観てから気になってしかたがなかったので、フロントガラス越しに注意して見てみることにしました。「飛び出し坊や」は全国に広がっているようですが、滋賀県東近江市(当時は八日市市)の自治体が子供の交通安全の対策として久田工芸の代表者久田泰平さんに看板を注文し、その後類似の看板が作られるようになったという話です。みうら氏はこのオリジナルデザインの原形を「0系」と呼び、みうら氏も購入して所蔵していました。今でも本人が製作を続けていて、購入することは可能なようです。道路に勝手に看板を設置することはできませんが、自治体が主体で設置する正規のものから個人で家の敷地内の道路脇に掲げている自作のものまであるようです。特に学校の通学路や家が密集している道路は多く見かけました。デザインはバリエーションが豊富で、女の子のものもあれば、サッカーボールを蹴っているもの。それに爺ちゃん、婆ちゃんなど面白いものもあります。最近滋賀県に旅行する機会があった上の娘は、「タモリ倶楽部」の放送を僕と一緒に観ていたので、県内の移動中に「飛び出し坊や」を捜すのが楽しかったようです。その上の娘は子供の頃、自宅の前で道路に飛び出し、車にひかれた経験を持っています。無邪気に「飛び出し坊や」に興味を示していますが、あの時のことは忘れてしまったのかな。その時、事故の知らせを聞いた僕も妻も強いショックを受けて、その日は眠れない夜になったことを今でもよく憶えています。幸い後遺症も発症せず、元気にすくすく育ってくれました。滋賀県に多い「飛び出し坊や」は、交通事故で子供が怪我をしたとか、中には亡くなってしまったような悲しい出来事が背景にあったのだろうと思います。確かに、車を運転する者にとっては注意喚起になっているような気がします。どこかの団体が募集する標語よりずっと効果があります。最初は、いささか主張が濃いような気がして、あまり感心してはいなかったのですが、子供を心配する親心が分かるようになってから見てみると、違った印象を持つようになりました。最近子供が減りました。学校が終わる時間でも下校途中や外で遊んでいる子供の姿を見かけることが少なくなりました。それより高齢者の無謀な横断の方がよっぽど多いので、坊やより爺さん婆さんを増やした方がいいかも知れませんね。

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明日香村 高松塚古墳

2012年03月08日 | 文化/歴史/技術
僕が歴史、それも古代大和朝廷の誕生に関心を持ったのは大人になってからでした。歴史の勉強がしたいからではなく、歴史に詳しかったわけでもなく、丸めてその理由を考えると、わからないことが多いからと言っていいかも知れません。つまりミステリーなんです。学校で教えてくれなかったことがあると気付いたのですね。自分が生まれた国のことを知りたい。自分は日本人だけど、日本人って何だろうと考えると、これがよくわからないんですよね。「乙巳の変」「大化の改新」「壬申の乱」は日本が日本になる時であったと最近感じてるところです。その舞台となった土地は飛鳥地方であり、時代は飛鳥時代です。年号で言えば500年後半から700年初期でしょうか。仏教伝来から記紀が完成するまでと考えても面白い見地です。仕事で奈良へ来ることがあるので、楽しみの一つに古代の遺跡を訪問することがあります。今日は「高松塚古墳」へ行ってきました。近鉄飛鳥駅から徒歩で15分くらいのところにあります。春を待つこの季節は青葉がなく寂しい感じですが、明日香村独特の地形による穏やかな風景は健在です。国営飛鳥歴史公園の中には高松塚古墳の他、高松塚壁画館、文武天皇陵など隣接し、綺麗に整備されています。明日香村にはこのような遺跡が多数点在し、見どころは多い地です。時間の都合上、高松塚古墳と壁画館だけ見学してきました。飛鳥美人で有名な壁画のレプリカを見ることができます。高松塚古墳は近くで見るしかありませんし、本物は保存のために移設してありません。古墳の方は整備され過ぎて芝生が養生し、段差が大きいゴルフの砲台グリーンみたいです。ウエッジでチップショットを打たないとグリーンに載せられないな。と余計なことを考えました。壁画は実大寸のレプリカでしたが、本物と変わらないリアルな表現で十分よくわかります。石の棺には人骨があったので墓と考えてよいと思われますが、誰だか判明していません。壁画は、玄武、青龍。白虎、男子群像、女子群像、日像、月像、星宿(星座)が描かれていて、朱雀は剥がれ落ちたと考えられています。日本のピラミッドなんて呼ばれるわけであります。大陸文化が色濃いと専門家は検証してしています。遠い昔、この土地で日本が作られたと思うとわくわくしますね。まだ発掘されていない古墳もありますから、壁画あのある遺跡はまだあるかも知れません。飛鳥は楽しい。
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東日本大震災は終わっていない

2012年02月28日 | 文化/歴史/技術
午後2時過ぎにJR水戸駅の改札口を出て、しばらく周辺をうろついていた時でした。突然、ずずん!と地響きが起きて大地が揺れ、真新しい駅ビル全体がみしみしみしと音を立てました。あまりに唐突で思わず、身体を低くし頭上を確かめ、「やべっ!」と声が出ました。短時間に終わった震度4の地震の震源地は茨城沖。しかし、水戸市民は落ち着いていました。数分すると、何事もなかったような素振りです。茨城北部は震度4くらいの地震が頻繁に発生するので、水戸市民はもう慣れてしまっているのです。僕が水戸まで来た理由は、古い友人に会うためでした。3.11の直後も安否確認をして、今までも時折メールで交信してきた仲です。無事で元気にやっているということでした。久しぶりに会う友人は、市内を案内してくれると言うのですが、使えない市役所を見てみないかと誘ってくれたので、水戸市役所庁舎を見学してきました。もうすぐ震災から一年が経過しようとしています。東京から北の方角はすっかり足を踏み入れることはなくなってしまいました。僕にとっては震災後、初めて被災地に訪れる機会になります。水戸ではお決まりの観光地へ向かうその前に水戸市役所庁舎を見てみたいと僕から申し出ました。駅の南側は千波湖を埋め立てた土地で、地盤が柔らかかったらしく、市役所の周辺は道路が波打ち、水が噴出し、倒壊した建築物が多々あったそうです。津波の被害が甚大だったために、原発の被害が強烈だったために、茨城の地震の被害は比較的知られていません。しかし、揺れによる損害はここが一番大きかったと友人は教えてくれました。水戸市役所は地震により倒壊の恐れがあるため使用ができなくなり、今でも駐車場などに設置した架設事務所で運営されているんです。自治体の中枢がまだ復興していない!震災後、橋という橋が落ちてしまって道路が寸断され、家族に会えないから早く橋を直して欲しいと叫ぶように市長に電話したと友人は打ち明けてくれました。水戸市内はまだいたるところで工事が行われています。車で移動すると、地盤が歪曲していて水平ではないことは明らかです。飛び出したマンホールの周りはアスファルトで覆っていますが、段差には注意して運転する必要がありました。街は応急措置のままです。友人の震災の体験談をそのまま文字にすることはとてもできませんが、被災地はまだ、震災が続いていると思わざるえません。被災地の人達は、その目で崩壊した街と大勢の遺体を目撃し、恐怖に陥れる地震の轟きや人々の悲痛な叫び声を聞いているのです。深夜、携帯電話の緊急地震速報を伝えるアラームが鳴り響きました。復興はまだこの先にあります。

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廿日市 厳島神社

2012年02月23日 | 文化/歴史/技術
一度、訪れてみたいと日頃願っていた神社の一つが「厳島神社」でした。とにかく行ってみたいと思っていました。岩国へ出張して帰りの広島駅までJR山陽線を乗ることになるので、途中下車して立ち寄ることができます。喜び勇んで足を運びました。JR宮島口を降りると歩いてすぐそばに定期連絡船の乗場があり、10分ほどで宮島に渡ることができます。本州から宮島までの距離は泳ぐには遠過ぎますが、船で渡ればそれほど遠くない距離でした。満潮時には海上に浮かぶように見え、平安の寝殿を思わせる美しい回廊がまるで竜宮城だとたとえられています。そしてシンボルの大鳥居はまさに海の中にぽつんと建ち、輝くような神秘性を放ちます。船で近付くと興奮するくらい見事な神社でした。「厳島神社」は神様を海から迎え入れるデザインに違いありません。このような神社は他に類をみないものだと思います。ちょうど満潮で美しい「厳島神社」を楽しめることになりました。今年は大河ドラマが平清盛を扱うので、地元では村興しの幟立てをこしらえてやっきになっている様子です。団体の観光客も押し寄せる観光地ですから、自然と団体客と歩調を合わせることになりました。団体客のガイドの説明するスピーカーの声をまた聞きすると、あの大鳥居は置いてあるだけで、海の底の地面に設置している分けではないことを知りました。意外です。境内に海を引き寄せる発想は考えてみると大胆です。一通り回廊を巡り、拝殿で二礼二拍手一礼を済ませ、大鳥居を正面から眺め、多方面から見渡す景観がどれも日本の美を想起するには十分でした。海外の人にも見て欲しいと思います。(世界遺産に指定されたんだからもう知れ渡っているけどね。)平舞台も特徴的ですが、能舞台も専用に造られています。海に浮かぶ能舞台は珍しいし、演目を観賞してみたいとも思います。とても素晴らしい神社だと感嘆しながらも、誰もいない月夜の晩にこの回廊を一人で歩いてみたらどんなに感動するだろうと想像してしまいました。ロマンチックな気分に浸れそうです。帰り道は美味しいカキが食べたくなり我慢できず生ガキを頬張ることにしました。宮島のカキは粒が大きくて新鮮です。僕はレモンの少しだけふってつるんと食べてしまうのが好きです。最後になりましたが宮島には野生のシカが多くいます。景色にばかり目が行きますが、足下にも注意が必要です。さもなければシカのフンを踏みつけることなります。

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岩国 錦帯橋

2012年02月22日 | 文化/歴史/技術
岩国へ行くなら「錦帯橋」を見ておくべきと方々からアドバイスを受けました。仕事で岩国へ来てJR岩国駅からレンタカーを借りて移動することになったので、行き道途中だったので寄ってみました。いつものことですが、「錦帯橋」のことはよく知りませんでした。ちょっと変わった橋なんだろうくらいに思っていました。車で向かうと河原の駐車場に停めることができます。まずは河川敷から全体像を眺めます。5連木造アーチ形の橋は古風なデザインであるだけでなく、異様さも感じました。なんでこんな橋を作ったのか?と考えてしまいます。幅200Mの錦川は洪水で氾濫することがあり、架けた橋が崩落するようです。橋の先には岩国城が建ち、江戸時代の岩国城主が城下町を結ぶ交通の要として丈夫な橋を架けさせたことが始まりとか。見るからには浅い錦川は台風などで水量が多くなるそうで、初代「錦帯橋」は翌年崩壊し、その後改良され昭和の時代まで残ったそうです。その後、2回ほど橋は崩壊するのですが、建て直しを繰り返し今に至るわけです。地元の人には相当思い入れがある橋なのでしょうか。保存会によりしっかり維持されています。この橋は通行料が300円かかり維持管理費に使われています。冬空では殺風景でありますが、桜の季節は綺麗でしょうね。鵜飼もあるとか。急勾配の木造橋を渡ってみました。現代ではもっと立派な鉄筋製の橋がありますから、このような橋は必要ないのかも知れませんが、こんなユニークな橋が残ることに価値があると思います。渡り切ると向こう側は吉香公園、岩国美術館、岩国城へ登る山道などがあり、時間があれば歩き回るところはたくさんあります。そんなに時間はないので手前の売店の辺りでうろうろして、休憩所で座っていたら、やたら人懐っこい猫が四五匹近寄って来てそのうちの二匹は僕の膝の上に乗って降りようとしません。他の猫達は観光客から餌をねだっているようでしたが、僕の膝の上の猫達は、僕の顔色をうかがうこともせずにくつろいでいます。どうやら、どんな人でも膝の上に乗るわけでなく、猫の方で人を選んでいるようです。中には膝の上に乗って欲しいのに乗ってくれないと嘆いている女子もいましたから。何を隠そうこの僕は、猫には(動物には)好かれることが多く、人見知りする猫でも膝の上に乗ってきたことがあります。女性には好かれなくても猫は寄って来る。情けない話です。しかしこの猫達、降ろしてやらないとどいてくれませんでした。一度席を立ってもう一度座ってみると、やっぱり膝の上に勝手に乗ってきました。「錦帯橋」をうろつく猫達は可愛いです。

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東京 北千住 荒川の土手

2012年02月16日 | 文化/歴史/技術
荒川の土手にあがってみたら、初めて来たとは思えないほど懐かしい風景に出逢いました。北千住駅から歩いてすぐ、東武線と常磐線の陸橋(当時つくばエクスプレスは通ってなかったとは思いますが。)の横に続く荒川の堤防はドラマ3年B組金八先生のロケ地です。雪がちらつく寒い日なので青々とした草は生えていませんが、まさしくここがドラマの中で何度も出て来る土手なんです。金八先生は最初のシリーズからよく観てました。新八先生、仙八先生、貫八先生など続いて観て、また金八先生を観て・・・。だからこの荒川の土手は、行ったことないのに行った気がするほどテレビで観ていたはずです。オープニングなんか毎週ですからね。昨年、特番で定年退職する金八先生を送るために歴代の卒業生が集まった時の放送も懐かしく観てしまいました。第1シーズンのたのきんトリオとか三原じゅん子、杉田かおり、第2シーズンの沖田浩之、伊東つかさ、川上麻衣子などは強く印象に残っています。シブガキ隊は仙八先生だったな。実を言うと恥ずかしい話、伊藤つかさには熱をあげていて、アルバム(30センチのLPのこと)と写真集を買っていました。げげ!三枚目のアルバム「ふしぎの国のつかさ」はミュージカルふしぎの国のアリスのサントラ盤で、これを買った直後に「一体、何をしているんだろう?」と我に返って無事にこの世に舞い戻ってきました。それはともかく、僕は3年B組金八先生の放送を毎週楽しみにしていました。中学生が妊娠してしまったら、視聴者である僕等も一緒になって悩んでいたような気がします。あの頃は、テレビには送り手と受け手が共有できる何かがあって、それを特別なことだとは思っていなかったような気がします。そんな思い出が甦ってくるのがこの土手なんです。・・・雪が降ってきました。寒い!どちらかというと春の陽気のイメージだったんですけど、やって来る日がマズかったです。立っているのも大変で、凍てつく風が冷たいのなんのって。この土手を歩いて気分を満喫したかったけど、早々に退却することになりました。でも頑張ってスマホを操りYouTubeで3年B組金八先生のオープニングテーマにアクセスして、実態と比べながら観てみました。持つ手が震えて(素手じゃないとタップできない!)辛かったけど一人で、盛り上がっていました。僕にとっての河原の土手は地元の木曽川ですが、荒川も加えたいと思います。
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多摩 小野神社

2012年02月14日 | 文化/歴史/技術
東京はかつて武蔵の国と呼ばれていました。武蔵野ですからね。多摩方面は丘陵地帯が続き、住宅や商店がぎっしり詰まっていても、僕にはいにしえの野原が脳裏に浮かんできます。武蔵の国の一宮はどこなんだろう?東京には何度足を踏み入れたか知れないくらいなのに僕は一度も参拝したことがありません。「小野神社」は多摩市にあります。多摩川の岸の近く、京王線の聖蹟桜ヶ丘駅から歩いて行けます。調べてみると「小野神社」は対岸の府中市にもあって、多摩川の氾濫で一つの神社が二ヶ所に分断さんれたとも言われています。時間の問題で二ヶ所訪問することはできなかったので多摩市側の「小野神社」へ行くことにしました。雨が降り出し冬の季節は身体が冷えやすいので行く道合羽を買って羽織りました。駅前の商業施設も住宅も野を分け入って建てられたような気がする街でした。「小野神社」はそんな中に取り残されたようにぽつんと寂しく建っていました。行く途中に「一ノ宮の渡し」の跡地があります。大きな木と石碑が残っていますが、多摩川を船で渡っていた名残りですから、古くから対岸とは往来があったのでしょう。石畳の道に沿って歩くと門に辿り着きます。南門が先でその次が通神門です。鳥居の向こうにある二つの門はこの神社の特徴の一つです。どうしてあるのでしょうか。神仏習合が行われてどこかのお寺の影響でしょうか。よく見ると木造の門にはいろんな動物の彫刻に飾られていました。鬼、獅子、龍、鯉、ウサギ、亀・・・。よく分からない植物も盛りだくさんです。東照宮なのか?とここはひいき目に見てあげましょう。それにしても寂しいところです。不気味さえ感じられます。ヒヨドリの鳴き声が恐ろしい叫び声のように聞こえました。人気もないし、地元の人に大事にされているんだろうかと心配になります。拝殿と本殿は周囲の木々が工事で倒され剥き出しになっているので余計にナーバスになってきます。武蔵野はずっと田舎だったのでうら寂しいのはしょうがありません。赤く塗られた拝殿と本殿は春日大社や住吉神社を思わせますが、本殿の造りは流れ造りです。この辺りでは古い神社だと思いますが、どうしてこんな門が建てられたとか社殿の色の始まりとか何か情報が欲しいところです。


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東京 日本橋 麒麟の翼

2012年02月01日 | 文化/歴史/技術
映画、「麒麟の翼」が公開されました。試写会のチケットが当たったので観賞するチャンスがあったのですが、あいにく泊まりの出張が入ってしまいキャンセルするしかありませんでした。映画の公開に合わせてテレビでも「麒麟の翼」のことを報道していました。「麒麟の翼」は東京日本橋の橋の上にある青銅の麒麟像のことです。日本橋にこんな装飾があったのかとびっくりしたので、本物を見たくなり出張のついでに見てきました。話の流れからもう一つ映画のことに触れておくと、「ALWAYS三丁の目の夕日」の新作も公開されています。その前作では高速道路の高架がない状態の日本橋のシーンが描かれていますね。CGのおかげですけど、今は見られないわけですから、懐かしく感じた人も多かったでしょう。日本橋はよく見るとなかなか面白い場所です。麒麟の製作について。明治に入って木造の日本橋を石造で架け直すことになりました。その時に西洋的な要素を取り込むことになったのですが、結局和洋折衷をとることになり、想像上の動物麒麟に翼を付けたみたいです。全部で四頭います。他にも守護のために獅子がいます。獅子も四頭です。口を開けているものと口をつぐんでいるものが対になっていますから、神社の狛犬ではないかと思います。阿吽ですね。麒麟を近くで見ると厳つい顔をしていました。獅子も前足で何か押さえ込んでいますけど、これは東京都(当時は東京市)のシンボルマークです。凝っていますね。面白い。面白い。橋銘は徳川慶喜の実筆なんだそうです。日本橋は江戸時代に五街道の起点となっていましたから、今でも道路元標が橋の真ん中に埋め込んであります。レプリカが橋の脇に記念碑になっているので、車が通る道路に出なくても見学ができます。僕は昨日、京都にいて国道1号線と9号線の境目である堀川五条の交差点にいましたから、一日で国道1号線の端から端へ移動したことになります。だから何だと言われても返す言葉がありませんけど。他にもこの日本橋には魚河岸市場の発祥の地の記念碑もあります。魚河岸はここだったんですね。築地市場に移転したのは関東大震災で壊滅状態になったことがきっかけだったそうです。江戸時代には旅の出初めで人が集まり、魚河岸の市場があって人が集まり、賑やかで活気のあるところだったんでしょうね。そう言えば日本橋の真上を通る高速道路をどけたいって誰かが言ってましたね。悪くないアイデアです。

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神戸 生田神社

2012年01月31日 | 文化/歴史/技術
神戸に泊まることになり、ならば神社へ行って参拝しなければと思い立ち、真っ先に思いついたのが「生田神社」でした。で、どこだ?と頭によぎりながらホテルを探して歩いていたら、なんと宿泊するホテルは「生田神社」の隣でした。あれ?チェックインを済ませ、部屋の窓の開けたら「生田の池」が見下ろせまました。今はネットでホテルを予約して、スマホのナビゲーションに従っていけば辿り着ける世の中になりました。だから、自分が泊まるホテルの正確な場所を意識していなかったのでこんな偶然に出くわすことにもなるのです。でも東急ハンズの前にあるなんて知りませんでした。繁華街にも近く、三宮駅からも歩いてすぐです。イメージではもっと静かな郊外のような気がしていたので驚きは二重でした。こんな近くに「生田神社」があるのだから焦ることはない。翌朝、ホテルの朝食バイキングでお腹を満たし、移動の前に参拝してきました。朝の通勤時間、ここには通勤途中に立ち寄り参拝して行く人が数多くいました。近道をするために境内を通る人がいることにも驚かされます。近道のついでなのかな?ともかく「生田神社」には参拝客は平日の朝からひっきりなしのようでした。この神社も古くからあるようです。日本書紀に神功皇后が海外遠征の帰路で立ち寄り占うと、この神社が祀る稚日女尊(わかひるめのみこと)が現われたとされています。また、ここの神様を守護する家々が神戸(かんべ)の号を授かり、後に「こんべ」から「こうべ」に変化して、この地が神戸になったと言われていたり、ここで神酒を造っていたことから酒所となり、灘の酒を生んだとされています。なるほどねえ。歴史を紐解くと現代につながる話がたくさん出てきます。裏の鎮守の杜は「生田の森」として散歩ができるようになりました。意外や意外遊歩道があります。普通、鎮守の杜はその名が示すように人の出入りを禁じる人跡未踏だったりするんですが・・・。ここは源平や南北、戦国時代には合戦場になるなど他には無い歴史が刻まれているようです。しかし現代、狭い神戸の土地開発を進める中で、広大な鎮守の杜は縮小の一途となり、住宅地にうっそうとした茂みが残り、そこに人が入れないとなれば、治安の面からも解放した方が良いという判断に行き着くのは容易に想像できます。これも一つの守り方なのかも知れませんね。せっかくだから僕も歩かせてもらいました。都会のオアシスです。

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ヴォーリズを探せ! ~旧居留地38番館

2012年01月30日 | 文化/歴史/技術
神戸の市街地。それもど真ん中の元町の近くにヴォーリズ建築があります。大丸百貨店神戸支店はそれはそれでレトロで感じの良い建物ですけど、隣接する「旧居留地38番館」は一際古臭く、独特の趣が漂う建造物です。この界隈はお洒落なブティックやレストランも多く、ヴォーリズ建築のデザインと調和を心がけているのかレトロモダンな意匠の街並が続きます。元町へ来ると、すぐ中華街へ足を向けてしまい、食い意地を張ってしまう僕ですけど、今回はしっかりヴォーリズ建築を見学してきました。「旧居留地38番館」のエントランスにはSALEの文字が掲げてあります。でも売りに出ているのではありません。この建物は現在、現役のテナントビルでブティック、レストランが多数入居しています。今は、テナントで入居している店舗のバーゲンセール中なんです。「コム・デ・ギャルソン」に「アニエス・ベー」ですよ。んー。ギャルソンにアニエス・・・。さすが神戸ですね。ヴォーリズ建築は、ほとんどが老朽化していて、維持するにも未使用では経費だけが余計にかかります。このように家賃収入が発生すればメンテナンス費用も捻出できそうですし、何より使用者が掃除をしてくれます。立地条件が良いといいこともあります。神戸には旧居留地がいくつか残存していて、街の景観に大きな役割を果たしています。本来、神戸を開港して、そこに外国人の居留地を建てたところから近代神戸の歴史が始まったわけですから、旧居留地は神戸らしさの源でもあります。歴史から考えると、旧居留地の中には、二次大戦の空襲で焼け落ちたものがあり、阪神大震災で倒壊したものもあり、復興して建て直したものもあるので、神戸を語るにはこの旧居留地の運命に触れるべきではないかと思えます。その中にヴォーリズ設計のものがあるなんて、また感慨深いものを感じます。イオニア式の円柱が重厚なイメージを強調していて、頑丈で古風な造りだったために、以前はナショナル・シティ・バンクの神戸支店でもありました。日が暮れるとライトアップされ、窓から溢れる照明と合わせると綺麗なんでしょうね。「旧居留地38番館」を眺めていると、通り過ぎる歩く人もまるで映画のエキストラに見えてきます。

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