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スケッチブック 〜写真で綴るスローライフな日々2

写真を撮りながら、日々の暮らしや旅先で感じたことを書いています。
2016年からは撮った写真をイラスト化しています。

明日香村 飛鳥寺

2012年09月06日 | 文化/歴史/技術
日本史ミステリーの宝庫である飛鳥へ行ってみました。行ってみましたというのは、特に目的があったわけでなく、何となく飛鳥寺へ行ってみたのです。車を運転して狭い道路がうねる明日香村を走ると、日本中どこを探してもない独特な風景を目にします。「まほろば」と呼ぶこの辺りの景色に僕は遠い時間の隔たりを感じつつ、大陸から渡って来た渡来人が、同じ景色を見てなんと思ったのだろうと思いがよぎります。飛鳥寺は蘇我馬子が創建した日本最古の寺です。うひゃあ。そうだっけ。予備知識を持たないとこんなもんです。意外に小さい寺ですが、最近、周囲には大きな伽藍が発見され、発掘調査が進んでいます。親仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏が争った現場でもありますが、江戸末期、開国か攘夷かで争ったり、今ではTPP問題で争っていたりするところを考えると、外圧慎重論は日本の伝統芸能ではないかと思えます。ひっそりしたお寺の境内と本堂でした。この本堂には再建されてはいますが、建立当時から座り続ける大仏があります。3メートルほどの釈迦如来像です。もちろん日本最古の大仏です。中に入ると誰もいませんでした。大仏像の前に移動すると何故だか見とれてしまって、気が付くと正座して見上げていました。細長い顔をしています。もう一つ気になるのは近くにある入鹿の首塚です。乙巳の変で首をはねられた蘇我入鹿の首を供養するためのものとされています。この事件の背景などは僕の興味を大いに刺激するところですが、飛鳥寺の周辺にあるなんて来てみないとわかりませんでした。日本が日本になる頃の歴史は面白いです。ところで、首が彷徨う話は他にも平将門など有名ですが、祟りが存在した昔も今も、変わらない何かがあるような気がします。思い付きでやって来た割には、いい勉強になりました。境内の中には鐘があり、自由に突けるみたいだったので歩み寄ると、「上は有頂天を下は奈落の底まで響けよかしと念じて静かに一度」と掛け札がありました。何だか神妙な気分になってきたので、無心になって静かに一度鐘を突き、残響の音が無くなるまで、目を閉じて待ちました。いい音で鳴ります。「まほろば」に響かせる鐘の音に心安らぐ思いでした。



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東京 銀座に鮫が出た?

2012年08月09日 | 文化/歴史/技術
暑い暑いとつぶやきながら、街を歩いていると鮫が泳いでいました。東京の真ん中、銀座の数寄屋橋交差点です。そんな馬鹿な。ちゅら海水族館?そんな馬鹿な。ここは東京のはず。暑さで頭がボケたのかと思うくらい不思議な光景が目に飛び込みました。今年は沖縄へ行きましたが、ちゅら海水族館には行けませんでした。できれば行きたい場所だったので、街を歩いていたら出くわすなんて縁があるようです。数寄屋橋の交差点のソニースクエアで毎年恒例の水族館だそうですが僕は初めて知りました。電機メーカーのソニーはこのところ元気のあるニュースを聞きません。どうしてこんな風になっちゃったんだろうと不思議です。沖縄のちゅら海水族館から連れて来た魚達はこの後、鴨川シーサイドに引き取られるそうです。魚達も大変だ。実物大のジンベイザメがソニー製の大画面マルチシアターで見学できる・・・なんて企画には全然興味ありません。というかどうしてこんな企画を立てて本当にやってしまうのか疑問に思うところが先の疑問の答えに通じるのかも知れません。やっぱり屋外大水槽の中が一番面白そうです。そして僕は気付きました。裏に回って水槽越しに数寄屋橋交差点を眺めてみるのです。熱帯の海を泳ぐ魚達、それもネムリブカが空を飛ぶように悠々と回遊し、その向こうに銀座阪急MOZAICがあり、ルミネがあり、数寄屋橋交番があり、東京メトロ銀座駅の出入り口があり、スクランブル交差点では車と人が信号に従い行き交う光景を目にすることができます。沖縄の海と東京のコンクリートジャングルとのコンビネーションですよ。こんなことではしゃぐのは僕が幼稚だからでしょうが、ユニークな景色で面白かったです。トラフザメは底にへばいついていますが、泳ぎ出すと存在感がありました。恐そうな顔だけどスタイルは美しいです。ニセゴイシウツボは裏で隠れるようにしています。明るいところは苦手のようです。その代わりに間近に見ることができてこちらには都合が良い魚でした。図体はでかいけど可愛い顔でしています。他には何々・・。ナンヨウハギ、ヒフキアイゴ、ヨスジフエダイ、カンモンハタ、オジサン!オジサンっていう魚がいるんですね。感情移入してしまう魚です。肩身の狭い思いで暮らしているのかな。そんなわけないか。

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大宮 氷川神社

2012年08月03日 | 文化/歴史/技術
武蔵の国の一宮はどこか。この氷川神社であるということになっていますが、じゃあ小野神社は?そうなんです。武蔵の国には一宮と呼ばれる神社が二つあります。一国一社ではないのかと思う所ですが、なにせ謎が多い神道のことです。いい加減で曖昧で不確かなで本音なのか建前なのか分からないところが日本なんです。日本らしい神社なんだから一度参拝したいと思っていました。でも大宮は通り過ぎることがあってもあまり下車しない駅だったので、思い切って宿泊することにしてその足で出かけてみることにしました。ん?大宮?歩きながらお思い付きました。オオミヤって宮がつく地名ではありませんか。今まで京浜東北線の行き先駅で埼玉県の都市(現在はさいたま市)のイメージが強くて歴史的観点で大宮を思い浮かべることはありませんでした。大きな宮とは氷川神社のことでした。ついでに分かったことですが、氷川神社という神社はこの埼玉・東京に200社くらい存在し、その総本山が大宮区高鼻町にあるのでした。高鼻という地名も怪しくなってきました。猿田彦?まあ詮索するのは止めましょう。何しろ一宮なのか三宮なのか疑惑がある神社ですし、氷川という名称も出雲族と同族とされる国造(くにのみやつこ)が創建した伝説もあるものだから、出雲の簸川に通じるとされてもいます。これはどういうことなんでしょう?大宮駅から商店街を抜けて一宮通りを歩き参道から入りました。とても大きな鳥居がありました。敷地も広そうです。池を越える橋を渡り、楼門をくぐると舞殿があります。回廊に囲まれていて舞殿を迂回すると拝殿と本殿があります。喧騒な市街地を通り抜けて来たものだからか、境内の中のもの静かな雰囲気が信じられないような気がします。参拝者もちらほらいました。大宮のイメージが壊れていきます。神妙さでは他を圧倒する力を感じました。正確な出所がはっきりしないので始まりのことが不明ですが、古いことは古いようです。この神社には少し離れた所に中山神社、氷川女体神社があり、本社・中社・奥社の関係を持つ同じ神社ではないかと言われていて、その配置も一直線に結ばれているそうです。ピラミッドみたいですね。不思議ですね。怪しいですね。日本には謎がいっぱい残されています。わくわくしますね。

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障子の張り替え

2012年07月08日 | 文化/歴史/技術
子供の頃、父親が障子の張り替えをするとなると家族総出になって半日ほどはかかりきりになるほでした。遠い昔の記憶に残っています。兄弟が四人いたので賑やかだったような気がします。何と言っても障子紙を破ることが一番面白かったので楽しみでした。普段は障子に穴を空けたり、破ったりすると叱られたものですが、その障子を全部破いていいなんて男の子だったら見逃したくありませんものね。突きなのかチョップなのかわかりませんが、馬鹿のように障子の枠の中央を狙っていたものです。大人になって障子の張り替えをしたことがありませんでした。マンションに住むようになって、フローリングに絨毯の生活ですから、障子とは無縁のはずですが、和室の小窓には障子があります。外はアルミサッシの窓がちゃんとありますが、内側からは和室の雰囲気を出すために、木枠の障子がこしらえてあるのです。ずっと放っておいたので汚れているし、このところの強風で一部破損して、張り替えなくてはならなくなりました。一度やってみたかったので、名乗りを挙げて張り替え作業をしました。ホームセンターで妻が張り替え紙は購入しておいてくれましたし、古い障子紙も剥がしてありました。驚いたのは最近の障子紙は糊が必要ありません。障子紙にあらかじめ糊が着いていました。更に驚くのはアイロンで接着させることです。父親が糊を水で薄めてハケを使って塗っていた光景が頭から吹き飛びました。「アイロンねえ。」何となく現代的です。後で知ることになりましたが、紙ではない障子プラスティックも世の中にはあるんです。破れないことが利点なのですが、子供が悪戯で突いたら、突き指をして怪我をするんじゃないかと心配になります。(そんな子供は絶滅したのだろうか。)それはともかく、セロテープで半固定し、アイロンで押さえながら少しずつ接着させていきました。皺を作らず慎重に作業するのは今も昔も同じようです。アイロンを使うことはいいアイデアだとは思います。しかし、注意点もあるようです。結局僕は失敗しました。完成間近になって念入りに木枠の接着が弱そうな所を押さえていたら、アイロンの先端が障子紙に触れてしまいクレーターを作ってしまいました。穴は空きませんでしたが、明らかな皺になりました。それとカッターナイフで余分な所をカットして、分離する作業の時に、四隅が上手に刃が入らなかったために剥がれてしまい、再度アイロンで四隅を接着させることになり、テンションが崩れ皺になってしまったことです。一度は上手く張れたのに残念です。初めてなんだから大目に見て欲しいです。

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掛川 大日本報徳社

2012年06月26日 | 文化/歴史/技術
二宮金治郎の銅像が小学校の校庭の片隅にありましたか。僕が卒業した小学校にはありました。しっかり覚えています。銅像じゃなくて形をコンクリートで固めたようなものだった気がしますが。最近の小学校には二宮金治郎はいないとも聞きます。何でも教育方針と合わないとか。アルバイトしてもいいと思われるからでしょうか。それとも子供が働くことは労働基準に抵触するというのでしょうか。遠目に見るとPSPでゲームをしながら歩いているようですし、背中の荷物はガンダムのビームサーベル・・・もうやめておきましょう。二宮金治郎が二宮尊徳であることくらいは知っています。だけど後のことは知りません。二宮尊徳は薪を集めながら本を読んだから偉いわけではない。ついでに言うと子供と鞠をついたから良寛は偉いわけではない。ということで、いったいどんな活躍をした人なんだろうと思う人は掛川へ行けばいいのです。掛川っていつも通り過ぎる所だったんですね。新幹線でも車でも。掛川城を見学するには時間がなくて、掛川城に隣接する「大日本報徳社」を見学することにしました。明治に建てられたレトロな建築物という触れ込みだけで出かけたので、何が何なのか理解していなかったのはいつものことです。ややこしい話ですが。ここ掛川にある「大日本報徳社」は二宮尊徳自身が建てたものではありません。尊徳が説いた報徳の教えを実践した掛川藩の岡田佐平治とその息子良一郎が地元で報徳運動を起こし、その活動の中心になったのが報徳社であり、講堂大広間が利用されていたのです。幕末から明治の時代と言えば世の中が劇的に変わりつつある時でした。至誠・勤労・分度・推譲の四つの思想は国の統治にも役立つと映ったようです。明治政府の後押しもあって、活動は活発化し学校の校庭にも二宮尊徳の幼少の頃の姿を具現化して銅像にしたようです。僕は日本人の気質がどこから来たのか興味を持つ者です。ここにも日本人らしさの要因になり得る思想がありました。奥ゆかしいというか、出しゃばらず相手を思いやり、勤勉で贅沢を遠ざける暮らしを尊ぶところがです。ちょっと勉強になったかな。しかし、現代の教育方針は子供達をどこへ導くつもりなんでしょう。この施設には200円の入場料が必要です。写真撮影は自由なので遠慮なく撮らせていただきました。あまり洋飾ではありませんが、窓のデザインがいいでいすね。ガス灯らしい照明器具もありました。日本人は最初から日本人ではなかったというのが持論なので、日本を探す旅はまだまだ続きます。

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下諏訪町 諏訪大社 下社秋宮

2012年06月23日 | 文化/歴史/技術
梅雨が明けていません。日本は、じめじめとした空気が漂う日々が続いています。(沖縄は明けて、北海道は梅雨じゃないだろうけど。)中央線で移動中に下諏訪駅で途中下車して、諏訪大社下社昭秋宮へ参拝してきました。下諏訪には何度も来ています。それに最近、諏訪大社上社に参拝を済ませています。それでもまた何故やって来たかのかというと、諏訪大社は四つに分かれているので、この際全部お参りしておこうと思ったのですが、一日で全部やり遂げてしまうとつまらないので、日にちを分けて訪れることにしておいたのです。今日はその第二弾です。JR下諏訪駅から歩いて行けます。諏訪大社は特別な神社だと僕は思っています。第一に、諏訪にはかなり古くから人が住んでいたことが挙げられます。古代の信仰を内包しているフシがあります。海から遠い山がちな土地に古代の人が住み易かった理由は、諏訪湖に豊富な水があったことと温泉が湧いて冬は暖が取りやすかったのではないかと思うのです。もちろん気候は今と違うはずですから、想像より暮らし易かったのかも知れません。そこへ出雲の国譲りの神話などが重なりますし、本宮は御神体がありません。山が御神体と崇められているのは、奈良の大神神社と同じです。非常に興味惹かれる神社です。秋宮には御神体があります。鳥居を抜けてすぐ前にある杉の木です、樹齢は800年以上とか。敷地は広くないので大きな神社ではありませんが、神妙で厳かな雰囲気はたっぷり感じることができます。秋宮も本宮と同じく弊拝殿になっています。つまり本殿がありません。諏訪造りの建築様式も独特で存在感はこちらも負けていないように思われます。心が洗われる気持ちです。境内の中には手水舎があるのに口から水を吐き出す別の龍がいます。ん?水ではなくお湯だ。御神湯と書いてあります。温泉でしょうか。こんなの見たことありません。珍しいですね。御柱もありました。諏訪には御柱祭りがあります。切っても切れないものですね。狛犬はとても立派なものが鎮座していました。青銅製の狛犬としては最大級なのだとか。いい表情をしているんですよ。とても気になりました。ところで、どうして諏訪大社は四つに分かれているんでしょうか。よくわかりませんねえ。レイアウトに意味があるのでしょうか。わからないことばかりです。日本人に生まれて日本で育ったのに、日本のことはわからないことばかりです。

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南城 斎場御嶽

2012年06月17日 | 文化/歴史/技術
僕の沖縄のイメージとは、海と太平洋戦争と琉球文化でした。もちろん、それ以外にも語るべきものは数多くあります。鳥や昆虫などは特有の種類がたくさんいることは既に感じていることですし、国際通りや市場で垣間見た産業の問題だって沖縄を象徴しているでしょうし、不動産なども独特の偏りがあると思いました。「なんくるないさー」と口にするおおらかな気持ちで暮らす人々の精神文化も特有です。とにかく婆ちゃん達は元気がいい。沖縄人のルーツを知るなら絶好の場所があります。知念岬の絶景を楽しんだ後に、目と鼻の先にある「斎場御嶽」(せーふぁーうたき)へ行ってきました。沖縄で最も神聖な場所の一つです。情報がほとんどなかったので一体ここは何だろうと首を傾げながら観光しました。同行の妻はこういう場所が苦手です。僕は大好きですけど。一言でいえば、琉球王国の聖地で400年間儀式が執り行われていた場所です。南国の樹木が生い茂る森の中にあり、石畳を歩いてイビ(神域)を巡ります。大庫理(うふぐーい)寄満(ゆいんち)三庫理(さんぐーい)は同じ名前の部屋が首里城にもあります。ということは、ここは首里城に移されたのでしょうか?首里城は中国と日本の様式を色濃く残す大きな建造物です。「斎場御嶽」はこじんまりとして自然を生かした祭事場のようです。首里城をシャーマニズムとするなら、「斎場御嶽」はアニミズムとするしかないでしょう。こちらが先だと推測します。三角形の岩の通路が目に見て大きいし神秘性があるので一番人気ですが、僕はその先の遙拝所こそが重要だと思います。そこは岩の上に木々の穴が空いたような素朴な空間でしかありませんが、真っすぐ先に久高島が望めるのです。神話では、琉球人の祖先はアマミキヨ族で知念・玉城に渡来したとされます。つまりここです。知念岬の先5kMのところに久高島はありますが、神の島と崇められアマミキヨ族が作り最初に降り立ったと伝えれています。琉球人にとって久高島がいかに重要な島であったか知ると、非常に興味深い聖地だと思えてきました。「斎場御嶽」の中でも久高島が見える遙拝所はかなり神聖であったと思います。もしかすると琉球人は海の彼方から船でやってきたポリネシアンなのかも知れません。バリ島のケチャとか思い起こします。琉球には祝女(のろ)と呼ばれる神事に関わる女性がいたそうですが、神道の巫女とのつながりはないのでしょうか。いろいろ疑問が増えてしまいます。

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那覇 首里城

2012年06月16日 | 文化/歴史/技術
那覇空港に降り立つと同時に、ゆいレールに乗って首里駅まで移動しました。雨が心配されましたが、こちらは晴れでした。沖縄の地に足を着けたのは生まれて初めてです。これで、日本全国47都道府県へ行ったことになりました。一つの目標であった全国制覇が今日達成できました。だからどうってことありませんが・・・。首里城も一度目にしておきたい場所の一つでした。沖縄の歴史を探るなら、ここは外せないポイントですよね。沖縄行きには妻も同行しました。明日のOWSレースのために荷物の見張り役と写真係が必要だったんです。当然、観光もついてきます。僕が泳ぐ姿をただ見るだけで、小間使いにされるなら誰もついて来ません。とは言え、観光だったら僕も乗り気です。ゆいレールの駅から歩くと坂を登ることになりました。到着してしばらくなので、沖縄の気温に身体が馴染んでいません。暑い。歩く速度をいつもより遅くしないと歩けませんでした。ひょっとすると地元の人達も、暑いのでゆっくり歩いているのかも知れません。体温上昇を抑制するために。沖縄にはびこる、のんびり文化は気温のせいかも。石の塀に囲まれた通路を歩き、幾つかの門をくぐりました。その様子は大陸の匂いがします。門の様子は特に感じました。日本らしくないと表現すればいいのか分かりませんが、奈良や京都とは違いますね。有料の区域に入ると、そこは別世界が広がっていました。正殿(せいでん)と内庭(うなー)は見事としか言いようがありません。戦争で消失したために復元された建造物ですが、琉球王国の存在を今に伝える機能を果たしています。日本では室町時代に琉球王国は成立したそうですが、学校で何も触れなかった世代なので、初めて知ることばかりです。歴史に触れる感動を覚えます。琉球王国の前の沖縄はいったいどんな風だったんだろうと思いがよぎります。神道と関わりがあるのだろうかとか。南殿と北殿、正殿の中にも入ることができました。大庫理(うふぐい)には御差床(うさすか)と呼ぶ国王の玉座がありました。儀式の時にはここに国王が座ったとされています。このスペースは仏教寺院を彷彿させます。龍のモチーフが数多く見受けられますが、これは神の使いと考えられ国王と関連付けられています。政治と司祭と国王の生活がここで行われていたそうです。このような施設をグスク(城)と呼ばれていることを改めて知りました。ぐるりと見物していると、首里城のまわりには珍しい蝶が何種類も飛んでいました。どれも自分が住む地域では見かけない種類です。南の国にやって来たのだと思いました。

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東京 神田 神田神社

2012年04月25日 | 文化/歴史/技術
ちゃきちゃきの江戸っ子と言われると、必ず神田の生まれと続いて連想します。神田の明神様でお百度参りをしてきた話は落語か時代劇ドラマで何度耳にしたことか。江戸の下町の象徴でもあり、歴史を感じる場所です。だから東京で是非ともお参りしたい神社の一つが「神田神社」でした。今回は仕事で移動中のJR御茶ノ水駅から歩いて行きました。鳥居をくぐるとすぐ境内でした。東京の市街地の中にあるので敷地はそれほど広くありません。境内もフットサルのコートが一面できる程度です。720年に大国主の命(オオクシヌシノミコト)が鎮座してからの由緒で少彦名命(スクナヒコナノミコト)と平将門も祀っています。平将門は首が身体を求めて彷徨うのを怖れて鎮魂のためでもあります。江戸時代からこの神社を108の氏町が支え、江戸の文化を育んできたのです。二礼二拍手一礼。人気がありますね。参拝客は途絶えません。神田の地名の由来は諸説ありますが、地形的に平地から近い高台になっていることから、ここで稲作があったとする話を聞きました。昔は斜面を利用して水の流れを作り、水耕をするのはごく自然なことでした。古い神社では稲を奉納するために専用の水田を所有していることもあり、神田とは神の田んぼであると指摘する人もいます。なるほど。僕も今住んでいるいる場所は、元々宮地と呼ばれる神社が所有する水田だったと知っているので、納得しやすい話に聞こえます。銭形平次の碑もありました。明神下の平次は誰でも知るところです。この神社の近くに明神下という地名が残っていました。シャーロック・ホームズじゃないけど架空の人物を実在に見立てて洒落るは大好きです。神馬神幸号(愛称あかり)のポニーがいたり、ロボット獅子舞のおみくじがあったりと何かとユニークな「神田神社」ですが、一番面白かったのは絵馬です。願掛けの文字と一緒にほとんどアニメが描かれています。どうして?とその時は疑問に思ったけど、帰り道秋葉原駅に向かって気付きました。秋葉原の地名は神田でした。秋葉原のほとんどは神田なんですね。それに「神田神社」から離れていません。歩いて300Mほどです。これは意外中の意外でした。秋葉原には何度訪れたかわからないほど来ているのに今まで気にしていませんでした。氏町だったんですね。ということは電気街もパソコンオタクもフィギュアもメイドカフェもAKB48も日本文化であり伝統的だってことになるのか?

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ヴォーリズを探せ! ~アンドリュース記念館

2012年04月04日 | 文化/歴史/技術
ヴォーリズは滋賀県近江八幡市を中心に活躍した建築家ですから、近江八幡市にはヴォーリズが設計した建物が数多く残されています。一度にざざっと見学するのも便利でいいのでしょうが、滋賀には仕事で訪れることが多い僕は、一つ一つ見ることができるので、一回一物件のつもりでゆっくり見学していこうと思っています。今日は近江八幡市為心町にある「アンドリュース記念館」に来ました。この辺りは屋根の低い家々と狭い路地が残っていますから、散策するだけで遠い時代の匂いを感じることができます。為心町は近江商人を輩出した町で豊臣家に仕えた為心斎が住んでいたことから町名が生まれたとされています。そして歴史を刻むこの場所にヴォーリズが日本で初めて建造したのがこの「アンドリュース記念館」でした。ヴォーリス建築に興味を持ったものとして、第一号の建造物を素通りするわけにはいきません。この建物は元々、ヴォーリズの親友ハーバード・アンドリュース家からの資金を基に建てた「ハーバード・アンドリュース記念近江八幡基督教会館(YMCA)」と呼ばれていました。1907年のことです。隣には今でも滋賀県では初めて建った教会があります。キリスト教の布教活動拠点だったのでしょう。その後、1935年に12M隣に移設して現在まで保存されています。最近、改装したばかりなのか、壁の塗装が綺麗で明治に時代に建てられたものとは思えません。デザインはほとんど当時のものと変わらないみたいですけど。外観だけですがしっかり見届けるつもりで写真を撮りました。現在、この建物の利用方法は、市の介護予防拠点となる「いきいきサロンヴォーリズ」なんだそうです。内部を見学できないので残念ですが、ヴォーリズが利用した書斎と暖炉のある小部屋は残っていると知って、この建物を大事に保存したいという情念を感じました。洋風の四角いデザインに大きな窓、瓦屋根もお洒落です。駐車場の中に建っているので建物をぐるっと見上げることができました。四方から眺められるヴォーリズ建築もそうそうないでしょう。電気の配線やエアコンの室外機などもありましたから、改装で快適になっているはずです。ヴォーリス建築の原点であり、近江兄弟社の原点でもある貴重な建物を今後も残して欲しいと思いますね。

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