goo blog サービス終了のお知らせ 

スケッチブック 〜写真で綴るスローライフな日々2

写真を撮りながら、日々の暮らしや旅先で感じたことを書いています。
2016年からは撮った写真をイラスト化しています。

海軍零式艦上戦闘機五十二型

2013年08月27日 | 文化/歴史/技術
ジブリ映画「風立ちぬ」が封切られたのですぐに映画館で観てきました。それで堀越二郎のことが知りたくなるし、零戦ってどうだっけ?と気になってきたら、とうとう本物を見たくなって所沢までやってきました。所沢航空発祥記念館では期間限定でアメリカから五十二型の零戦が展示されています。この零戦は世界で唯一実際に空を飛ぶことができます。映画は堀越二郎と堀辰雄という人物へのオマージュで構成されているため決して零戦をクローズアップしているわけではありませんが、堀越二郎が零戦を設計したことにちなみ、ここ所沢航空発祥記念館では堀越二郎展も開催していました。戦争体験者と思われる方々が大勢来場しているようで、立ち話で経験談が止まらない人や熱心にカメラのシャッターを切っている人がいました。僕はここへ来る前に文春ジブリ文庫から刊行されたばかりの「腰抜け愛国論議」を読み終えたばかりで映画のイメージががらりと変わっていました。宮崎駿監督は所沢の零戦見学を断ったそうですが、それは本を読むと理解できます。宮崎監督のお父さんは零戦の下請け工場を兄弟で経営しておられ工場長でした。終戦まで製造していたそうですから、息子が戦闘機に特別な思いを持つことは自然なことでしょう。さらにお母さんはカリエスで長らく闘病生活が続きストレプトマイシンで完治したとはいえ、宮崎監督は歩くこともできなかった姿を見て育っています。その上にお父さんは前の奥さんと結婚して一年で結核によって死に別れているのです。堀越二郎と堀辰雄の組み合わせは、宮崎監督の父と母の思い出と重なり合っています。堀越二郎の傑作は九十六式艦上戦闘機ですが、その試作機である九試単座戦闘機を映画のポスターに採用しているところに零戦賛美の映画ではないことが読み取れると思います。僕の父は、零戦の誕生と同じ皇紀2600年の昭和十五年生まれでもう亡くなりましたが、生前に空襲のことをよく話してくれました。我が街は戦争中アメリカの爆撃機に焼夷弾を落とされました。その理由は、名古屋で零戦を作る工場(三菱重工業)があるから攻撃目標にされ、フライトコースだったために落としていったというものでした。零戦とBー29のことは戦争の話にはよく出てきました。でも僕にとって零戦は遠い存在です。そして戦争も。見学した五十二型は完成度が高い戦闘機でした。近くで見ると放物線だけでデザインされ肉体のような滑らかさを感じるし、遠くから眺めると紙飛行機のようなシンプルさ感じました。美しいものは美しい。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自宅から花火

2013年08月14日 | 文化/歴史/技術
昨年の濃尾大花火大会は雨で流れて日程が変更され、いろいろ都合がつかず見学するのを止めました。今年は、下の娘も楽しみにしていたけれど、義理の父の初盆でお寺のスケジュールの関係で法要と重なってしまったので断念しました。自宅に戻って花火は残念だねえと言っていたら、我慢できない下の娘は、時間になるとバルコニーに出て花火を観ていました。我が家からは真っすぐ西の方角に打ち上がった花火が見えます。ちょっと距離があるので大きくはないけど。建物で多少邪魔が入るのは大らかな気持ちでそれを度外視すれば、時間差で音が聞こえるのも風流に感じ。観賞に堪えることはできます。いつもは川岸で見上げながら観賞していたので、目がくらみ耳をつんざく花火が花火らしく思っているので物足らなさを感じます。来年は行きたいなあ。とぼやきながら15分ごとに打ち上げられる20号花火に心の照準を合わせます。濃尾大花火大会の名物はなんといっても20号花火です。他の花火と比べて格段に大きいことと爆発音の響きが違います。離れた場所からでもその違いは分かり易いもので、最初の一発はガラス越しに家の中までよく聞こえました。僕の家から聞こえる20号花火の爆発音は自衛隊の演習で聞いた戦車の主砲のようです。バルコニーから花火を観ていたら、段々面白くなってきてカメラで写してみることにしました。使うのはコンパクトデジタルカメラ。至近距離ではないので、花火モードを使うことはしないで、マニュアルモードで適当に設定して撮ってみました。シャッタースピードは1.3秒。絞り値8。ISO80。焦点距離は105mm相当。当然三脚が必要ですが、手すりに載せて両手で押さえて安定させ、手ブレ覚悟でチャンスを狙いました。花火を撮影するのは難しいのです。次はどんな大きさの花火が来るのか予想できないからです。しかもコンパクトデジタルカメラでは一回シャッターを押すごとにピントがずれるので、毎回ピント合わせをしなくていけません。(だったらピントも固定すればよかった!)20号花火を大きくフレームに収めたかったのですが失敗しました。明るい色で写っていませんでした。何とか撮れたのが連射中の中型花火。しっかり準備して望遠レンズで狙うべきでした。やっぱり近くで観たかったなあ。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

諏訪 ホテルの窓から花火が鑑賞できる

2013年08月01日 | 文化/歴史/技術
8月になりました。夏休み真っ盛り。真夏のイベントも各地で開催される季節です。夏の夜空を美しく飾る花火はとりわけ楽しみです。その中でも諏訪湖の花火は一度観てみたいと思っています。諏訪湖の花火は盛大で、見物客も多く諏訪湖周辺のホテルや旅館の部屋から優雅に眺めるのは一つの夢です。諏訪湖の花火大会はまだ先の話ですけど、諏訪湖では8月1日より大会の日まで毎日8時30分から約15分間花火を打ち上げます。サービスがいいですねえ。その花火が部屋から楽しめるホテルがあるので予約してみました。仕事の移動中にJR上諏訪駅で途中下車して近くのホテルから花火を待ちます。実はこのデイリー花火は初めての体験ではありません。数年前の夏にも上諏訪で宿泊した時、一人で晩ご飯を済ませるために飲食店を探しながら駅周辺をうろうろしていたら、突然花火が上がってびっくりしたことがありました。夏休みとは言え、平日の上諏訪駅周辺は日没とともにひっそりしていて、それはそれは静かな街なのです。予告無しにいきなりどどぉーんとやられたら、何事かと思いますよね。15分間だけ花火を打ち上げることはその後知りました。チェックインして部屋から諏訪湖が見えることを確認して、コンパクトデジカメで花火を撮ってやろうと思い待ち構えたのはいいのですが三脚がありません。花火の露出設定はシャッタースピードが長いのでブレてしまいます。壁に当てて半固定しながら撮ってみようかと事前にいろいろ試行錯誤していました。ところが、いざ打ち上がると真正面ではないんですねえ。そりゃそうだ。ホテルだって部屋は幾つもあることだから、どの部屋も正面で観えるわけではありません。窓枠から少し離れて額縁の絵のように写真を収めたいと思ったので、余計に撮影ポイントがずれてしまうことに気付き、練習した場所ではないビューポイントから撮影せざる得ませんでした。慌ててベッドの上で片膝を立ててその上にカメラを載せて撮るというアクロバットな方法を思い付きました。でも土台が不安定な上に自分の足で固定するなんてブレるに決まっています。被写体も全部大玉ということでもないし、タイミングを常にとらえきれるはずもなく、苦心の末に上手くいったのがたったの二枚。なんとか額縁の絵になったかな?

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

瞑想に耽る

2013年06月29日 | 文化/歴史/技術
自分と向き合うこと。それを意識したのはここ数年のことです。どうやら人は先が長くはないと思い始めると避けて通れない道のようです。しかし、容易なことではないことが分かってきました。日頃、意識することは自分の外のことばかりです。それは生命体である動物として、ごく自然なことでもあります。つまり見聞きすることや肌や鼻や舌で感じることは全て自分ではないことの情報であり、それに反応することが生きることのベースにもなっているからだと僕は思っています。元来、脳は外から入る感覚を情報処理して、導かれた判断に必要な筋肉を動かす神経系の情報をアウトプットすることが大事な仕事だと思うからです。その脳が自分のことを意識するとは、奇妙な体験であるはずなのです。名古屋にある「成田山 萬福院」に出向き副住職の案内で瞑想会に参加してきました。このお寺の中では、特別な部屋で一般者のために瞑想体験が定期的に開催されています。今日はその日ではありませんが、特別に機会を作っていただきました。瞑想は興味があり、一度本格的に体験したかったと思っていました。団体で申し込み、十数名一同に薄暗い部屋に入り、月輪観作法(がちりんかんさほう)の修行をするとうものです。萬福院は真言宗智山派に属する寺院で、弘法大師空海が日本に持ち帰った密教にその源流を見いだします。解脱(げだつ)をして悟りを開くための修行として瞑想があるそうです。月輪観作法には、細かな作法がるのでいちいちの手順を書き留めることはしませんが、要約すると、金剛合掌(こんごうがっしょう)、半跏座(つらいから片足だけ載せました)、未敷蓮華合掌(みふれんげがっしょう)、真言(しんごん)、「おん ぼうちしった ぼだはだやみ」「おん さんまやさとばん」「あびらうんけん」法界定印(ほうかいじょういん)などヨガを思わせるアクションをしたり、サンスクリット語(多分)を唱えるなどして、暗闇の中で瞑想するのです。満月を思い浮かべて、その満月を自分の心に見立てて、宇宙までその満月を広げてまた自分に戻すイメージトレーニングをするのですが、姿勢を維持したり、呼吸を制御するに意識がとられるので、中々上手くできませんでした。呼吸についてですが、同じことをほぼ毎日ダイエットで取り組んでいるので、そこはあまり無理はありませんでしたけど。でも心静かにしているだけでも身体に良い気がします。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

向日 竹の径

2013年06月25日 | 文化/歴史/技術
京都に住んだことはありませんが、僕には何故か縁があるようで、今でもよく訪れる都市になっています。京都は歴史の中心地だったこともあり、奥深いところであるのは周知の事実。知らないことが多くていまだに新しい発見があります。京都の西側は洛西と呼ばれます。観光で賑やか過ぎるので嵐山周辺には近づかないようにしているし、仕事の関係では桂から長岡京のラインに用事が多いので、洛西の竹林の中をくぐる抜けるように移動するのは楽しみの一つです。車で走ると、道が狭くて曲がりくねっているので、迫り来るような竹林の景色が変化していくのを美しいと思ったりします。向日市と京都市の市境の道路を「竹の径」として整備しているのをご存知でしょうか。僕も気付いたのはごく最近です。ついこの間も近くを通りましたが、正確な場所がわからず、時間もなかったのでやり過ごしていました。今日は、待ち時間もあったのでよい機会だと思って立ち寄るとにしました。でも向日町って観光地のイメージはないですよね。この「竹の径」は竹の子農家の竹林を通る狭い道の脇をタイプの異なる竹垣で囲み景観を良くしたものです。現在は1800Mほどの長さになっているようです。梅雨が明けない季節で湿った空気の中、生い茂った竹林の中に潜り込むのは別世界の体験になりました。正直な気持ち、竹林はどこか恐ろしい気がします。畏怖と言えば聞こえがいいですが、物の怪を感じないわけにはいきません。昨年、名古屋の相生山へ夜中分け入った時に竹林の近くを通り、竹が生長する音を聞きました。ここもきっと真夜中にやって来たら、竹が伸びる音が聞こえるに違いないのですが、一人で来てみたいとは思いませんでした。それにしてもこれだけ竹林が続くと神秘的です。観光客が誰もいないことがいいですね。洛西竹林公園は京都市が管轄し、中には「竹の資料館」という施設があるので竹のことが詳しく知ることができます。入場料は無料でした。竹って紅葉(黄色くなる)があるんだ!と驚いたりできます。しかも春と秋が反対で春に紅葉するそうで。それに珍しい竹も植えられていました。竹だけでもこんなに楽しめるものなんですねえ。ライトアップされ、土産屋と飲食店が近くにある竹林なんかより、よっぽどいい竹林だと思うんですけど。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桜井 相撲神社

2013年06月10日 | 文化/歴史/技術
奈良には日本史の痕跡があちこちに眠っています。そのほとんどは古く、雨に流され風に消えつつあるものが多いと感じます。でも、自分が見聞漏れした史跡に触れることは楽しみの一つです。大和朝廷が生まれた場所は三輪山の麓周辺と言われていて、大神神社の他に崇神天皇陵や景行天皇陵など重要な遺跡が点在しています。そしてもう一つ注目すべき場所があります。相撲の発祥地と言われる相撲神社です。行く道は細い道路を山に向かうのでとても不安になります。相撲神社の奥には穴師坐兵主神社(あなしまずひょうずじんじゃ)または大兵主神社(だいひょうずじんじゃ)と呼ばれる古社があり、こちらも大変興味深いのです。ですが今回は参拝しただけです。引き返し相撲神社に参拝したかったのですが、なんと工事中!最初は工事現場にしか見えませんでした。残念ですが、どうやら新しく改築される前に来てしまったようです。でもここは神社の体を成していません。それもそのはずで、ここは大兵主神社の境内の一部で、拝殿や本殿はないのです。しかも整備されていないのか手入れがないのか雑草が伸びっ放しで入るのも気がひけるところなのです。伝説について調べてみました。最古の相撲というのは約二千年前に垂仁天皇の前でここタカヤケシで、ノミノスクネとタマノケハヤが相撲を取り、ノミノスクネが勝利したということです。日本最古の天覧相撲はここだったのです。当時の相撲は殺し合いだったようで、蹴りが中心の技だったらしく、とどめを刺すまで行われ、タマノケハヤは骨折をして死んでしまいます。昔の話とは言え少々乱暴な話です。さて、野原の中央に土肌が見え、周囲に柱のように四本の木が生えているところがあります。どうやら土俵のようです。もちろん、後から作ったのは間違いないのですが、こんなところに自然の土俵があるのかと思ってしまいました。土俵広場と名が付いていて、申請すれば使わせてもらえるようです。鳥居もあるし、なんとなくだけど、ここに太古の相撲が執り行われたであろうという気分にはさせてくれます。僕は相撲を観て楽しむことがあまりないので良く知りませんが、神道に関する本を読んだりすると必ず出てくるので、ちょっとは興味あります。相撲は神事であったので祭り行事だと思われがちですが、力士(ちからひと)とは、邪気を祓い、健康を願う信仰に基づくもので、やはり厄払いだと考えられます。また、腕力の使い方も、この伝承には教訓が隠されています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

愛宕山へ登頂

2013年06月07日 | 文化/歴史/技術
80歳でエベレストに登った三浦さんじゃないけど東京23区内で一番高い山に登頂を試みました。標高26メートル弱。港区にある愛宕山です。自然の山としてはこの山が一番高いそうです。山頂は愛宕神社となっていて、神社参拝が同時に登頂達成となります。この低さに魅了されたこともありますが、大河ドラマで勝海舟と西郷隆盛が江戸城の無血開城について話し合っている時に、この愛宕山から江戸市中を見渡した伝説を知って登ってみたくなりました。最近この前を通りかかって頭の片隅に残っていたこともあり、JR新橋駅から徒歩で向かうことにしました。江戸の街が徳川家康によって開拓されたことは周知の事実です。おそらく江戸城を除いてランドマークと成りえる場所は天然の山である愛宕山でした。ここに江戸市中を火災から守護する意味で愛宕神社を創建したのは見晴らしが良かっただと推察できます。実際、本当に勝海舟と西郷隆盛が登ったのかどうかよく知りませんが、この場所は多くの歴史を抱えています。まず、家光が家来を連れて立ち寄った際に、男坂と呼ばれる急勾配の石階段を馬で上り下りし、梅の花を手折りして献上した曲垣平九郎盛澄を誉め讃えて出世したので、男坂を登ると出世すると言われるようになるとか。僕は裏から登り、男坂を降りてしまったので出世のご利益はなさそうです。維新前には桜田門外の変で井伊直弼を討った水戸浪士が事件前に集合したのがこの愛宕山でした。そして無血開城の決め手になった会合。太平洋戦争後には降伏を受け入れられない10人が立て籠り手榴弾で自害し、捕われた2人の婦人もその後自決する愛宕山事件が発生しました。また、NHKが最初にラジオ放送を流したのがこの愛宕山の放送局だったそうで今ではNHK博物館が建っています。どうです。徳川家康、家光、桜田門外の変、江戸城無血開城、太平洋戦争終結、ラジオ放送と歴史舞台の数が多い山です。そこが26メートルないのですから興味が尽きません。拝殿に向かい参拝してきました。さすがに現代では高層ビルが建ち並んでいるので、見渡すような景観はありません。本物の山だと思っている人もあまりいないのではないでしょうか。この僕も東京都港区に山岳が存在するなんて想像外でした。しかしこの男坂、上から見下ろすと恐いくらい急でした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宇陀 八咫烏神社

2013年05月17日 | 文化/歴史/技術
チョコボールのキョロちゃんだ!あれ?頭の上に何か載ってる・・・。Jリーグが発足して20年が経ちました。サッカーファンの僕には、当時は夢のような出来事で胸の高まりが抑え切れない思いでした。ジーコのプレーを観てワールドクラスのサッカーに触れたため、ジーコの来日、現役復帰も信じられないことでした。プレシーズンマッチでグランパスとグレミオが長良川で対戦した時は、リネカーの数少ないゴールも間近で観ました。日本サッカー協会のシンボルマークは八咫烏がモチーフです。三本足のカラスは想像上の生物ですが、伝説では熊野国から大和国へ神武天皇の道案内をしたとされています。光り輝く金のトビはまた別の話だそうで、この辺りがややこしいですね。サッカー協会との縁は、創設者の出身が那智だったために地元の熊野本宮大社にちなんでデザインを拝借したとされています。三本足の生物は、進化の過程では、前カンブリア紀を除いて対象、放射、または螺旋の造形を組み合わせたボディを持つものであるはずなので、どうして三本足なのか謎が深まります。大和の地に八咫烏(やたがらす)神社があるというので、車で移動中に参拝してきました。山と山をくぐるような曲がりくねった道を行くとその傍らにあります。小さな山の麓にとても殺風景な境内だったためにあっけにとられる神社でした。特に拝殿(そうなんだろうなあ。)は賽銭箱と鈴と屋根しかありません。その横に小さな八咫烏の像があるのですが、どうみても後から取って付けた感じがします。デフォルメが強過ぎてマンガになっています。ヘディングとリフティングの違いが分からないみたいで、サッカーボールを足下ではなく頭に載せるところをみると、サッカーのことも歴史のこともよく知らない人が監修したような気がします。この神社、歴史は相当古いですが社殿が建てられたのは江戸時代で、その後皇紀2600年に改築されたそうです。そしてJリーグができて・・・。本殿は拝殿の裏にある階段を登ったところに小さいけどありました。門の向こうに千木が見えました。多分、大神神社のように、山か石を崇める場所で、アニミズムを色濃く残していた聖地だったのだろうと思われます。もうちょっと大事にしてもいいような気がする神社でした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大津 建部大社

2013年04月12日 | 文化/歴史/技術
一宮巡りは急ぐことなく行ける時に行けば良いと思っているので、近場でありながら見過ごしてる神社もあります。滋賀県は近江の国の一宮は建部大社です。出張ついでにちょっと寄ってみました。滋賀県は地理的な側面を考えると京都に近いことから歴史の痕跡は幾多余るものがあります。中世の歴史舞台としては多くの人の脳裏に焼き付けられ過ぎてしまい焦げ付くほどではないでしょうか。しかし、紐を解くと古代の日本史にも貢献できる資材はたっぷりとあるようです。でも地味なんですよねえ。そこが良いと言えばそうですが。建部大社ってどこだっけ?地図では国道一号線から遠くないし、市街地の中です。着いてみると周辺の道は狭く曲がりくねっています。しかも住所が神領というからに古くから鎮座する神様を祀っている感じがします。本殿にヤマトタケルノミコト、権殿(ごんでん)にオオムナチノミコトが祀られいています。この権殿は珍しいですね。本殿の隣に同じ造りの社があるのです。神門をくぐり目の前に拝殿があります。ちょうど宮参りの祈祷をしている最中でした。基本的な構成は格式高いものを感じる良い神社ですが、何ぶんコンパクトなところが意表を突かれました。すべてが小さいです。境内は鎮守の杜を別にして専用面積だけ見るとサッカーコート一面分くらいです。そこに一揃いのもがレイアウトされています。池と橋まであります。末社・摂社も数多く、縁結びの大野神社をはじめ稲荷神社の他いろいろとあります。御神木の三本杉も目立つところにあります。何と表現したら良いのか神様が密集していて、ここへ来れば大抵のご利益に授かるので便利と言えば便利な神社だと思います。大社と言われるからには大きな敷地を想像しましたが、その意味では真逆です。格式はこの辺りでは非常に高いのでしょう。もう一つ驚いたのは本殿にも手を合わせることができることです。拝殿があり、そこで十分参拝が可能な造りになっているのに拝殿の裏に回り込んでみると本殿の前にも上がることができます。更に賽銭箱に銭を投入して鈴も鳴らせます。どっちで手を合わせるのか悩むところですが、どっちも拝んできました。時間がなかったので短い滞在時間になりましたけど、来てみて良かったです。ここには謎がいっぱい。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

名古屋 東別院

2013年03月24日 | 文化/歴史/技術
「べついん」とか「おひがしさん」と呼ぶこの寺院は正式には真宗大谷派名古屋別院というそうです。仏教寺院だとは分かってますが詳しいことはよく知らないのは皆に同じです。でもここへはもう何度も足を運んで拝んでいます。妻は義理の母が亡くなってからは彼岸の折に触れる度にここへやって来るのです。詳しい事情はわかりませんが、妻の実家は墓を作らぬ家系で代わりに地蔵様だと聞いています。しかし、その地蔵を見たことがないので何がどうして墓が必要でないのかわかりません。葬儀や法事は他と変わりないように思えるし、仏壇も立派なものが置いてあります。それと妻が何故ここへ手を合わせたがるのか深い理由を聞いたこともありません。彼岸は先祖の供養と決まっているので墓参りをするところですが、墓がないのでここへお参りに来るということは理解してますけど。僕が暇そうにしているように見えたようで、今日は僕が車のハンドルを握ってお参りにやって来ました。必ず付き合って来るわけではないし、僕も深い興味を持っていないこともあって、東別院のことは無知です。彼岸の東別院は大勢の礼拝者がいて、境内の中は出店が並び正月の神社のようです。ですが、今日はまばらに人がいるだけでした。彼岸はとうに過ぎています。この寺院は広いし本堂にもすぐ入れるので拝み易いところだなと思います。拝み易い?人を受け入れるよう門戸が開いている感じでしょうか。お賽銭と手水舎があるので神仏習合も感じますけど、れっきとした東本願寺の別院です。彼岸の反対側は此岸というのですね。彼岸の先が悟りの境地であり、極楽浄土。いまだそこに至らない我々は此岸に立つということですか。日がちょうど半分の春分と秋分の日をお彼岸と重ね故人に思いを馳せる・・・。昨年義理の父も他界したので今年から二人分手を合わせることになりました。本堂もとても広いところです。名古屋市内に広い敷地を持つのは理由があって実はここは元々お城の跡地です。それも織田信長の父、信秀の居城「古渡城」の跡地なのです。時代は江戸時代、尾張藩主は二代目の徳川光友から寄進を受けたそうです。境内の一画にその記念碑がありました。そう言えば気温は上がり寒くなくなりました。桜はまだ満開ではありませんが、あっという間に咲き始めました。もう桜の季節でした。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする